いつか自由な蝶になる
【陸、禁門の変】
文月に入ってから、京に渦巻く殺気は一層濃く禍々しいものとなっていた。表向きはいつもと変わりないように見える。しかし裏通りでは「長州が兵を上げて攻めてくる」といった噂話が広まっていた。ある商人はもう長州の兵は大坂を出ただろうと言い、ある棒手振りは戦は明日始まると言いまわる。
事実、私はは戦の気配を肌で感じていた。誰もが寝静まる深夜に大名屋敷の傍を通れば、閉じられた木戸の向こうで這いまわる殺気があった。散歩がてら屋根の上を歩けば、コソコソと人目を忍ぶように歩く頭巾姿の人間たちがいる。身なりからして盗人や浮浪者の類ではないことはわかる。人の動きは、上から見ているとわかりやすい。
本当に、争いが始まるのだ。
這いまわる気配に嫌気が差して次は空を見上げた。雲が多い夜であったが地表の忌まわしさと違い、そこはとても静かで穏やかに見えた。
*****
ある夜から始まった御所での朝議にて、禁裏守衛の総督であった一橋慶喜は長州討伐の勅許を出し、翌朝には会津藩並びに桑名藩に出動の命が下ったらしい。遅れて、会津藩より新選組に正式な出動の命が下ることになる。既に京で布陣していた長州藩の武装兵は主に三手に分かれ、御所を目的地として進軍していた。
その長州の動向を、は二条の城にある一際高く聳える木の上から眺めていた。
昨日、彼女の隠れ家に来たのは天霧である。彼は旅籠の主人やにも丁寧に挨拶して回り、が彼の前に現れた時には既に茶と菓子を出され盛大に(?)もてなされていたのだ。一方の鬼は姿勢崩さぬまま正座していたが。明けより戦闘が始まるだろうと告げられ、意気揚々と出陣したのは良いが、合流した天霧から仰せつかったのは“待機”と“戦況を探れ”の二点だった。女姿であることと、初見であろう薩摩藩の中での動きずらさ、加えて昼間では目立ちすぎることを挙げられて、何だかんだ言いくるめてしまったではないか。結局、戦闘への参加はお預け。貰った刀は抜かれること無きまま。
「にしても、暇だな」
話し相手すらいない。することも特にない。
薄ら夜が明けようとしている暗がりの中で、市中に蠢く殺気を感じながらも、ただ空を見ていた。地を覆う憎しみや怒りの気より、そこある穏やかさを感じたかったから。しかし今日はちと風が強い。明るくなったら落ち着くだろうか。軽く結ってはいるものの、時おり髪が、着物が揺れる。
薩摩は会津や桑名と共に御所を守っているらしい。天霧はそちらに加勢する。千景は自分の興味のあることにしか動かない。戦は天霧に任せて単独行動しているらしい。面倒くさがりなのか。散々戦だ何だと言っておきながら、こっちは素晴らしいほど(暇な)大役を仰せつかったというのに。そして、先生はきっと長州浪士に紛れてこの戦に参加する。と言っても、戦うというより遊ぶと言った方が正しいのかもしれない。鬼と人の力量の差は一目瞭然。悪目立ちはしてもらいたくないけれど。先生が千景や天霧などの同胞相手に戦うことはまずないだろう。
「……」
遥か南から、地が揺れるような砲撃の音が聞こえた。視線を向ければ煙が上がっているのが見える。未だ遠い。場所は大体伏見あたり。砲撃音に端を発して、ほぼ目の前……御所の傍でも戦が始まったのだろう。獣のような人の叫び声が、砲撃の音が耳に届く。
禁裏の西側、蛤御門を始め中立売御門と下立売御門などの門の守護は各藩に振り分けられていた。確か、蛤御門の守護を担当したのは会津藩だったはずだ。
「(ここも目立つなら場所を移すか……)」
恐らく御所の周囲では戦闘が続けられている。そしてもう一手。御所南側へと進軍する長州兵の気配。何れ南側でも衝突が起こるだろう。要は時間の問題だ。天霧がいるであろう位置を推測すると、蛤御門よりは北側か。遠くて正確ではないが鬼の気配を感じる。その旨でも報告しよう。
そう決めたら行動あるのみ。私は適当な屋根に移動すると北へと足を進めた。
足は人よりも速い。障害が皆無な屋根の上を伝えば、目的地へも迷うことなしにたどり着くことが出来る。と言っても、我々鬼にとって人間が感じる障害と言うのは殆ど無意味と言っても過言ではないのだ。
建物の陰から鬼の気を放てば、それを感じたのか、視線さえも動かさずに男が口を開いた。
「戦局は如何でしょうか?」
「遥か南、伏見で戦闘が起こっているが……いずれ終わる。あの様子だからな、長州の敗走は免れん。そして御所南側に向けて長州勢は進軍している。そろそろ始まる頃か。あそこは確か堺町御門だったな。後でそっちに行ってみようと思う。そうだ天霧……」
「?」
「西の蛤御門だったか? あそこが一番厄介だ。近くの門を襲撃していた長州兵が集結している。禍々しい殺気が恐ろしいほどに渦を巻いているぞ。適当な薩摩兵を率いてそちらの援軍に回れ」
あれほど微動だにしなかった男の体が、僅かに揺れたのを感じた。彼にしては珍しい、と言ったら失礼か。勿論口には出さなかいれども。
「貴女に偵察を頼んでどうなることかと思っていました」
「はぁ? それはどういう意味だ」
流石に拗ねる。まるで最初から期待されていなかったみたいではないか。は子供の様に含みを以て聞き返した。
そもそも、千景は散々戦だ働けと煽ってきた。ということは今回の待機命令その他は、天霧が下したのではないのか。なのに元々期待されていなかった? ……失礼な。
「勘違いなさらないで下さい。今回貴女の“待機”と“偵察”を命じたのは風間です」
「何だと!?」
驚きに姿勢が崩れた。何故だ。あの千景が前線での戦闘ではなく、後ろに回ることを命じた……だと。言っている事と事実が矛盾しているではないか。頭が混乱して言葉が出ない。盗み見る様に、青い瞳がチラリとこちらに向けられるのを感じた。
「思うところは色々ありますが、先ずは薩摩に属している者として長州を退けなければなりません。貴女の活躍にも期待しましょう」
「ったく! 貰った分は働くから安心しろ」
とりあえず働けというわけか。いいだろう。後で千景をこれでもかと言うくらい問いただしてやる。彼の機嫌が悪くなろうがならまいが、その後に周囲に当たり散らそうが私には関係ない。
そう心に決めて、寄り掛かった壁から姿勢を起こした。今あの男は何をしているのだろうか。御所周辺での戦闘には参加していない。気配もない。
「行く前に聞いておく。千景は今どこに?」
「戦闘には参加していません。しかし正確な位置は私にも」
「ふーん」
まあそうだろうとは薄々感じていた。これ以上聞いても無駄なのは明白だ。
蛤御門へと足早に向かう薩摩兵を見ながら、今一度自らの役目を脳内に叩き込む。薩摩を応援に出した西側は十分。南側、堺町御門あたりではもう戦いが始まっているだろう。善は急げ。善なのかはわからないが。
「さて働くか」
そう天霧に告げると、目にも留まらぬ速さで南へと向かった。距離はあるけれど、鬼にとっては移動にそう時間はかからない。
いつの世も戦は変わらない。
銃声、金属音、悲鳴、血の海、逃げ惑う人。
閉ざした木戸の奥で、震え、身を固める女子供。あるいは親戚知人を頼って最小限の荷物だけを持って逃げたか。それでも彼らは武器を持っていない。所謂、非戦闘員というものだ。火薬と血の、そして何かが燃えるような匂いが混ざったものが鼻に届き、私は眉を顰めた。目の前の惨状を瞬きもするのを忘れてただ見ていた。
この戦の先に何が待っている? 人間はこれをどう捉える?
どう考えてもわからない。ただ、本心では人の世がどれほど拗れようと構わなかった。私の中では“幕府さえ倒せばいい”のだから。それは何を目にしても変わらない。いずれ鬼は人と縁を切る。待ち焦がれたその時がする。そうなれば千景は……。
秘かに倒幕を謳いながら、今は会津と共に幕府側に協力する薩摩藩。帝と幕府……違う。帝と雄藩による政治的融和という公武合体を推し進め、藩内の尊王攘夷派を寺田屋で斬り殺しても、結局は思い通りにならなかったらしい。今、こうして幕府側に協力するのは、尊王攘夷派である長州の排除という利害が一致しているからだ。同じ人間同士。なのに時に相手を騙し、利用し、殺し合う。
鬼が全くそうでないかとは言えない。元々争いは好まない種族だが、平和的に解決してきたとは言い切れない部分もある。しかし、人間は理解し難い部分が多すぎた。彼らに協力する我々が解放される時はまだまだ遠いのか。あるいはもうそこまで迫ってきているのか。
あれこれ考え込んでいる間も戦闘は続いていた。
堺町御門周囲の守備は固く一筋縄ではいかない様子が垣間見える。長州勢は門近くにある大きな屋敷に入り、敷地内から攻撃しているようだ。それに対抗し、幕府側も近くの屋敷から攻撃しているらしい。
今ここで鬼の力を以って戦闘に加われば、きっと直ぐに勝敗は決するだろう。しかしそうはいかない。千景もそれを解っている。人同士の戦に、関わり過ぎると自らの存在を滅ぼしかねない。だいたい、力の差は歴然。つまりは不公平なのだ。一方的な力量の差で勝ち得てもつまらない。人は鬼にそれを望んでいるのだろうが、奴らの思い通りに動くのは気が進まない。
戦闘が激しさを増す堺町御門側の御所が接する丸太通り側の屋根から、一町下った竹屋町通り側へと降り立つ。門周囲の通りは未だ戦闘兵が多いが、一つ通りを跨げば人気さえ感じられないほどだ。もちろん殺気は流れてくるが。扱帯が緩んだ着物の裾を軽く持ちながら歩いた。
「おい貴様!」
不愉快な叫び声。何だと言わんばかりにゆっくりと振り向いてやった。
殺気を纏った兵が二人立っていた。此方側を守っている越前藩かあるいは長州兵か。この際どちらでもいいけれど。
「何処の藩の者だ! 女に化けたところで我らを騙しはできんぞ!」
「逃がすな!!」
「……」
確かに、こんな戦場に女一人で歩いているのも可笑しかろう。おまけにには散々、派手で目立つと小言を言われてきた身なりをしている。
……疑われても仕方がないが残念なことに私は女だ。それは紛うことなき事実。だから化けているつもりはないのだが。一般人だと否定してやろうかとも思っていると、相手兵には私の言葉を聞く余裕はないようだった。刀を抜き、間合いを詰めようと走り出している。戦闘は免れない、か。
「(丁度いい。肩慣らしくらいにはなるか)」
私は隠していた刀を取り出すと手を添えて鯉口を切った。
剣術だ何だと詳しく習った覚えはないけれど、里で刀を振っていた時に太刀筋は悪くないと言われた記憶はある。そのまま稽古を付けるかと言う話になったものの、面倒くさくてサボり続けたのはいい思い出だ。日常から庭や森に落ちていた枝を適当に振り回している方が楽しかった。
目にも留まらぬ速さ。勿体ぶって遊んでやるより、一発で仕留めた。
出来れば返り血を浴びない方がいい。袈裟斬りにすれば途端に血塗れ。ならばと、後ろに回って刃を首に添わせる。声も、呼吸さえもままならないまま、男は真っ二つになった。次は首の皮の一枚くらいは残しておくのもいいかもしれない。わざわざ後ろに回った意味が無くなるからだ。
両手を広げて染みを確認してみるが、着物の深い色も相まって詳しくは見えない。浴びるほどは受けてないだろう。まあいいか、とその場で血振りをして刀を鞘に戻した。遺体を見れば、黒い血と土に塗れ何が何だかわからない。恐らく長州兵だろうが。
刀の扱いに問題はない。本来の目的通りに烏丸通へと足を進めた。
御所西側では蛤御門が最も激しい戦場となっているようだった。天霧は薩摩を引き連れて加勢しているだろうか。火薬と土埃、血の匂いが風に流れて南へと伝わってくるが小銃などの砲撃音は聞こえなくなっていた。先ほど感じたよりも殺気は弱まっている。こちらの勝敗は決したのだろう。
―事実、嵯峨天龍寺から進軍した国司隊・来島隊・児玉隊は各門を攻撃後、蛤御門に集中。一時優勢に立つが、薩摩藩兵の加勢並びに長州側の指揮官にあたる浪士の討死などにより長州兵は瓦解し、散り散りに敗走していた。―
御所西側も決した。残るは目と鼻の先、堺町御門のみ。
隣の邸宅に立てこもりながら攻撃を続ける長州に対抗して、幕府側も門を隔てた反対側の邸宅から攻撃を行っているようだ。広い庭があるのだろうが殆どが大砲の攻撃で崩れ、煙も上がっていた。
は再び見晴らしの良い屋根に上がって戦の様子を眺める。伏見も、御所西側も長州は敗した。御所西側を守っていた諸藩の兵もここに集まり出している。見ればその邸宅の周りを諸藩が取り囲み、大砲と小銃による砲撃を繰り返している。これはもう時間の問題だろう。いずれここも終わる。
乾いた夏風を感じながら、報告の為天霧がいる場所へと向かった。
そろそろ南側も終わっているだろうか。
二度目の報告を終えは散歩がてら見に行こうとした。北西からの風が全てを南東へと運ぶ。土埃も、煙も、臭いも。位置的にはどうも届かない。だが悲鳴のような、恐怖と戸惑いが混じった誰かの声だけは、次々と耳に届いた。肌が動揺と困惑を感じる。どうしてだろう嫌な予感がした。
「火や!」
「町が燃えとる! 早よ逃げな!!!」
人々の動きを怪訝に思い、人気のない裏通りから屋根に上がる。
視界には赤い火柱、流れる煙降り注ぐ火の粉。轟々と音を上げながら怪物のような炎が町を問答無用に食らっていた。こんな日に火事が起こるなんて。いや、あれだけ重火器を使用していればこうなることも無理もないだろう。この風の強さだ、恐らく町中に燃え広がる。
直感でそうはじき出す。町単位でひしめき合う長屋は燃え広がるには最適。おまけに強く吹きすさぶ風が火を運ぶ。今も燃え広がりつつあるが火が出た位置を推測してみると、どうも覚えがある。
堺町御門。
長州自ら火を放ったかあるいは幕府側が放ったか。
見れば御所より少し南側、鴨川横、二条か三条あたりでも火柱が上がっている。池田屋があった辺り。あそこには何があっただろう。旅籠だ。諸藩贔屓の旅籠が連なっていた。確かの国の藩邸もあったはずだ。藩(人間)と距離を置いてたから馴染みでも何でもないが。近くには……長州藩邸もあったと記憶する。火元はそこだろうか。
「(徹底的に排するか……)」
時々人間という存在がわからなくなる。
恐らく過激派なのだろうが、国のため藩の為と兵を挙げ、戦を繰り返す。今は戦場は京。その民がどれほど被害を受けても構わないのだろうか。人は何を以て、何の為に争うのだろう。この戦の先に待ち望むものがあるのか。多大なる悲しみと涙の果て、何を見出す。そして鬼は、私はどうすればいい?
少しでも戦というものの惨状を焼き付けておくかと、立ち上がる火を目印に足を進めた。
たどり着いたのは御所から南北に伸びる通りの一つだ。
辺りの家からは火が噴出し炎の双璧と化している。二つばかり隣の通りは火の海で、既に家が崩れるほど燃え広がっている。どうやら向こうの方が火の回りが早いようだった。
「……?」
目の前に今にも崩れそうな家があった。その中から人間の気配がする。今にも消え入りそうな弱い気配が、火に巻かれた人間が悍ましいほどに踊り狂う。そして立っていられなくなったのか通りの隅で崩れていった。
それらをただただ見ながら、急ぐわけでもなく更に南へと足を進めた。
一町進んだところで私は、ふと何かに気付いた。
それは偶然だった。この状況で幾度と感じてきた弱々しい人間の気配。まだぎりぎり生きている人間の物だ。長屋の入口に転がる黒い小さな塊に視線が留まる。中々それから視線を逸らせない。ただそれに向かって近寄った。
「家も親も焼かれたか」
私の声に黒い塊が僅かに動いた。肌がくみ取った気配の通り、どうやら死んではいないらしい。そしてどこかに逃げる様子もなかった。
幼い子供だ。煤塗れの顔は男なのか女なのか判別はできなかった。汚れた顔の中に双眸がパッチリと開かれこちらを見上げている。瞳に力は無い、でも曇りもなかった。
「生きたいか?」
ただそれだけを問うた。何故私はこのような行動に出たのだろうか理由はわからない。幼子は何も答えない。喋れない年齢でもないだろう。幼子には間違いないがそこそこ大きいようにも思える。状況が状況だからか言葉が出ないのも無理はないが。あるいは口を開けぬほど消耗したか。
「……ぃ」
と、確かに声が聞こえた。見上げた幼子が私を確かに捉えている。私も特に何かをするわけでもなく、ただその子を見下ろしているだけだ。我々の視線はジッと交わり合ったまま離れない。
「死……く……な……ぃ」
小さな口が紡いだのは死の拒絶だった。
どんな危機的状況に陥っても諦めない人間は一定数居るものだ。鬼の私にはよくわからないが、人間はこういった場合に神や仏と呼ばれる存在に縋ってみるのかとも思う。彼らの信じる神や仏(だが私はその存在を信じていない)が直接何かをしてくれるのかはわからないが。そして私が直接手を下すわけでもなかった。だが少しだけ、この幼い人間の顔が雛に重なった。幼い子供が虚ろになった姿を見るのは、嫌いだ。苛立ちさえ思えるくらいに。
「もう一度聞く。生きたいか?」
その子に聞こえる様に言った。ただ求めているのは一つの言葉だけ。この子がどうなろうと私はどうでも良かったのだ。これはただ鬼の気紛れにしか過ぎないのだから。
「生き……た……ぃ」
小さな口が生き望んだ。
その言葉だけを聞いて、は近くの煙が噴き出す長屋に入り込み土間にあった大きな水瓶を片手でひょっこりと持ち上げた。そして蹲ったままの幼子の元へ戻ると、躊躇することなしに中の水をぶっ掛けた。ばしゃりと豪快な水の音がする。幼子はずぶ濡れの状態だ。しかし大量の煤だけは洗い流せなかったようだ。まだこの子が男か女かわからない。ずぶ濡れの着物……柄からして、いやどっちでもいい。
真っ直ぐ道の先を指した。
「行け! ただ走れ! 生きたいなら生きろ。後は其方の命運に賭けよう」
相変わらず幼い双眸は私を捉えて離さない。雛。あの子の姿が重なる……やめてくれ。
足が動かないのか、子供は座り込んだままずっとその場所に居た。辺りはもう大分火が回ってきている。私一人なら何とでもなるが、この小さな足で逃げ切るには限界がある。私は微かに苛立って声を強めた。
「死にたいのならここで死ぬがいい」
気付けば腰に差していた刀を取り出していた。炎に反射して鈍い輝きを放っている。切先は迷うことなしに幼子に向けられていた。このまま斬り捨てればすべて終わる。突然、鼻先に向けられた刀に怖気づいたのか幼子の目蓋が僅かに動いたのを感じた。次の瞬間だった。
脱兎の如く、その子は私が指差した方へと走り去りあっという間に見えなくなった。
“あとは其方の命運に賭けよう”
頭の中で自分の声が何度も響いた。私は一体何を惑っているのだろう。これはただの気紛れだ。ただ一介の女鬼の戯れに過ぎない。
そろそろ限界か。いつの間にか周囲にまで炎の勢いが迫ってきていた。。今一度空を見上げると、夕焼け空が一段と赤く染まっている。空は綺麗だな。炭と化して崩れる長屋の残骸が道に降り注ぐ。
先ほどまであったはずの女の姿は疾うに消えていた。
お久しぶりです。生きてます。(前回2015年!)
禁門の変を鬼として見つめた主人公。その心に残ったものとは……
20220602*星宮はちこ 裏語