無法地帯と乙女の聖域

家の中は空調によって心地良い温度だった。 廊下であっても部屋であっても、室温と湿度は一年中管理されている。 外との気温差に、薄ら滲んでいた汗が引いてきた。 車で送迎されているのだが、家に入るまでのあの短い時間でさえ暑いと感じる。 廊下を歩きながらも額の汗が気になって仕方がなかった。

が自室に入ると、制服のポケットに入れていた携帯がこれでもかと震える。 いつのまにかマナーモードにしたことも忘れていた。 取り出して画面を見てみると、受信したのはメールだった。 送り主として「景吾」と表示されている。

“ったく、暑い”

慣れた手付きで受信メールを表示させると本文はたった六文字。 確かに今日は暑い。だがメールで報告するような事でもない。 送られてきた内容に疑問を持ちながらも、は返信ボタンを押した。 もし自分がこんな文章を送ると、景吾ならどんな返事をするだろう。 「アーン?何だよいきなり」とか「もっと暑くしてやろうか?アン?」だとか… 頭の中にはまともな文章が浮かばなかった。 一つ溜息を洩らすと、指を動かす。

“ばーか”

最後には、可愛らしいスマイルの絵文字をつけておいた。 絵文字はどうであれ、本文はいかにも景吾が言いそうな言葉だ。 送信完了の文字を確かめると、そっと携帯を閉じる。 汗を流そう。帰宅してからずっとシャワーを浴びたかった。 奥の寝室のクローゼットの中にある衣装棚。 一番上の引き出しを開けると、下着類が一面に並んでいる。 黒と白、悩みながら選んだのは白だった。
寝室の横にあるのは、一人で使うには広すぎる浴室。 流れるシャワーの音が浴室中に響く。ぬるいお湯は気持ちよかった。 お気に入りの薔薇のボディソープの香りに包まれながら、体を洗い流す。 このままずっとここにいてもいいかもしれない。 が浴室でシャワーを浴びていた時、誰もいない部屋に音が響く。 机の上の携帯がメールの受信を知らせていたのだ。 送り主は「景吾」  シャワーの音しか聞こえないは気付かなかった。

最後に体を流そう。と、 は温度をいつも通りに戻し、シャワーのノブを捻る。 途端に温かい湯が流れた。もくもくと湯気が立ち浴室全体を包みこむ。 何事もなく浴室を出てみると、目に入ったのは黒い下着だった。 黒?何故黒がここに?持ってきたのは白い下着だ。 は瞬きをしながら考えてみる。 白だと思って黒を持ってきた?或いは白が黒に変わ…るわけはないとして。 誰かがすり替えた?といっても使用人は彼女の部屋には勝手に踏み込まない。 思い当たる犯人は“彼”しかいない。 何も着けないのはマズい。仕方がなしに黒い下着を身に着け上からバスローブを羽織る。 濡れた髪をマシュマロのような柔らかさのタオルで拭きながら部屋へと向かった。


「何でシャワー浴びてるんだよ?アン?」


が自室に踏み込むと同時に視界に映ったのは俺様な彼。 恋人である跡部景吾が長い脚を組みながらソファーを陣取っていた。 下着の犯人も彼であろう。むしろそれしか考えられない。 何でシャワーを?何故と言われても返答に困る。暑いからとしか言いようがない。 大体、何故景吾がここに居るのか? 彼女があれこれ考え込み、無言なのをよそに跡部が口を開く。


「ああそうか。ったく、俺様が来るからって先に入るなよ。一緒に入ればいいだろ?」
「違うわ。一体何考えてるのよ!」


がすぐに否定をした。 咄嗟に出てしまった声に一番驚いたのは自身だった。これが“突っ込み”だろうか。 忍足君あたりに聞いてみよう。

「一つずつ聞くわ。景吾、何故私の部屋へ?」
「連絡はしたはずだ。メールに書いていただろうが」

跡部の視線が座れと合図する。仕方なく彼の前の位置に座った。 どうやら座るべき場所はそこではないらしい。 指差された彼の隣に、は腰を下ろした。
隣の景吾を見ながら、そんなメールがあっただろうかと思い起こす。 たがそんなメールは記憶にはなかった。 もしかして、と机の携帯を手に取ると画面には「メール受信1件」の文字。 確かに送られたのであろう、案の定開いてみると「これから向かう」 と書かれていた。


「ごめんなさい。メール、気付いてなかったみたい」
「だろうと思ったぜ。最初は返って来たのに、二度目は返事がないからな。 大体何だあの返事は?アーン?」
「…」


景吾は「ばーか」を読んだんだ。 今更送った本人が言うのもアレだが、いきなり「ばーか」はいけないなとも思った。 最後のスマイルマークで意味合いを柔らかくしたつもりだったけど。

「私が景吾に送ったら、どう返事してくれるかなって思って送ったの。 別にそれ以外の意味はないから安心して」

いきなり景吾の指が唇に添えられたかと思うと、視線が合わさる。 その瞬間に無意識に鼓動が高鳴ったのを覚えている。頬が熱くなった気がした。 今、鏡で自分の顔は見れない。

「ばーか」


本家本元の言葉。唇から指が離れる。相変わらず心拍は早かった。 突然の出来事に、何を言うのか忘れてしまった。 思いだそうとしても頭に響くのは鼓動だけだ。視線が上がらない。 唇から離れた彼の指が、今度はの髪を伝う。 その手が一房すくい上げた。

「まだ濡れてるじゃねーの。よし、俺様が乾かしてやるよ」
「ちょっと…」

唇の余韻を感じていたためか、うまく言葉が出てこなかった。 化粧室から戻ってくる彼はドライヤーを握っていた。ある意味でレアな瞬間? 足元に隠されたコンセントを表に引き上げると、差し込む。 準備は整った。跡部がの背後に回り込むと、スイッチを入れる音がした。 温かい風が彼女の髪を踊らせた。 根元から毛先へ。慣れた手付きでドライヤーを動かす。
景吾の手で髪を操られるのは好きだ。頭を撫でられるのも。 本当のことを言うと、他人に髪や頭に触れられるのはあまり好きではない。 女同士なら少しはマシなのだが、男なんてとんでもない。 昔いきなり彼女の髪を触りながら話しかけてきた見知らぬ男がいた。 もちろんすぐに体が防御反応を示した。 男の手首に自分の手を当て振り払った記憶はあるが、男の顔は記憶にも残っていない。
そう言えばそんなこともあったなと、すぐには意識を跡部の手に移す。 彼に触れられている方が心地いい。 少しでもこの感覚を長く味わいたかったからだ。

少なくても髪を乾かし始めてから、五分は経ったであろうか。 ドライヤーの音も響いていたのでお互い無言であった。 跡部はの髪を弄り、は跡部の手の感覚を楽しんでいた。 ふと風の音が無くなったかと思うと、また髪が一房すくい取られる。


「良い香りだ。に相応しいな」


振り向くと、すくい取った一房の髪に顔を近づける景吾の姿があった。 はボディーソープと同じ種類の、シャンプーを使っていた。 薔薇の香りのする外国製のものだ。振り向かなければよかったと思った。 何んとも恥ずかしい光景だ。 治まった頬の赤みが戻って来たように感じられる。 恥ずかしさを紛らすためには後ろへ、跡部の元へとゆっくり倒れ込む。 勿論彼に抱きとめられた。再び視線が交差する。

「私も、景吾の香水の香りは好きよ」

素直に認めてみる。 景吾に髪を撫でられて機嫌が良いからとは決して言わないけれども。 彼は部活が終わったらシャワーを浴びて汗を流す。 そっと付けた香水の香り。学校ですれ違う女子生徒を何人虜にしたであろうか? きっと想像もつかない数であろう。


「フン。当然だろうな」


どこまでも俺様な景吾。でもそんな景吾が大好きだ。 これも、素直に認めよう。口にはしないけど。 どこか可笑しくなってクスリと笑いがこぼれてしまう。 跡部は彼女の微笑に気付いていたが、あえて聞きはしなかった。 もう一度、ドライヤーのスイッチを入れる。


「乾いたぜ。随分時間がかかったな」
「だって景吾と髪の長さ違うでしょ?毎日頑張っているのよ」
「アン?今日は俺様が頑張ったんだろ。ったく、ドライヤーの風も長く浴びてると熱いぜ。 ちょっとシャワー借りるぞ?」
「え?」


彼は今、何と言ったのだろうか。シャワーを浴びる? 別にシャワーを浴びても問題はないのだが、彼の着替えなんて持ってない。 上の服はどうにかしよう。でも下着は…。
の頭は軽く戸惑っていた。



「ああそうだ。服ならの所の二番目の引き出しに入れてある。勿論下着もな。
、俺様のために選んどいてくれ。俺様に相応しい色と柄を」
「?」



柄?二段目?そして…下着?
跡部の言葉がの中で何度も響いた。 下着という単語には強く反応した。そう、下着。 彼女が選んだ白い下着を黒にすり替えた犯人は跡部だ。 髪の毛を乾かしていたから忘れていた。

「ちょっと景吾!私の下着!」

肝心の「なぜすり替えたのか」は言葉にならなかった。 と言うよりも、数ある衣装棚から下着の位置をなぜ知っているのか聞きたかった。 聞きたいことではなく、思いつくままに単語だけが言葉になる。 浴室へと向かっていた景吾が振り返る。


「アーン?黒の方が良いに決まっているだろう。クローゼットの中なら、 完璧に位置は把握している。この俺様に探し出せない物は無い」


ご丁寧に景吾は、聞きたいことを全て答えてくれた。 得意げにインサイトのポーズをした彼。 その周りには、キラキラとした氷の欠片が舞っているように見える。 小さくため息が漏れそうになったのを、はどうにか抑えることができた。

「二段目に入れているからな。頼んだぜ」

そう言うと跡部は浴室の方に消えていった。 部屋に残されたが、急いでクローゼットに向かう。 いつの間に位置を調べていたのだろうか? 記憶を辿るが、思い当たる節が見当たらない。 恐る恐る二段目の引き出しを開いた。
「…」

は頭を抱えた。いつの間に? そこには彼女のものでない、男物の服が並んでいる。素材や柄からしても景吾のものだった。 まさかこんな所にまで景吾が入ってきているとは思わなかった。 いっそ、鍵でも付けようか。またいつの間にか開けられてしまうだろうか。 小さい頃に、余所行きの洋服を一人でずっと選んでいた記憶がある。 この服にはこの靴、あの服にはこの髪飾りを付ける。 ここで一人ずっと悩んでいたせいで「早くしなさい」と怒られもした。 跡部と出かける時も、中を行ったり来たりしていた。
ここはのクローゼット。彼女が一喜一憂する場所。
二段目の引き出しに広がる服の中から、彼女が思う微妙な組み合わせを選ぶ。 それは勝手に踏み込んだ跡部に対する仕返しだった。 無条件にこの組み合わせで着てもらおう。一体どんな反応をするのだろう。

「ふふ、覚悟しなさい景吾」

が選んだ下着を、跡部は悠々と着こなしたのは言うまでもない。

べさまは衣装棚を勝手に開けようが、無断で服取り換えようが全然いやらしくない。 別にそういう意味でやってるんじゃないです。 何より、服etcの柄と色が凄そう(薔薇柄とかレオパードとか黒とか赤とか金とか…)
クローゼットの衣装棚と、頭と髪が今回のサンクチュアリーでございました。 それすらあとべ様には完全に支配されてます。
20100901*星宮はちこ 裏語