いつか自由な蝶になる
【壱、逢魔ヶ刻】
陽が傾きかけ風が心地よく通った二階の部屋で女は眠っていた。朝日と共に目覚め、月明かりに照らされて眠る。ほとんどの人間はこのような一定の周期で一日を過ごしているだろう。だが彼女は違った。
黄昏に目覚め、暁に眠る。
規則正しく寝息を立てる彼女は今はまだ夢の中。いつもならばもう少し眠っていても構わないのだが、今日は緊急で用事が入ったのだ。しかしそれを知ったのはつい先ほど。もちろん彼女が眠りこけた後で本人はそのことを知らない。そしてこの女、は寝起きが悪いことこの上ない。無理に起こせば首が飛ぶと専らの噂である。勿論、本当に真っ二つという意味で。
「…起きて」
耳元で彼女に囁きかけるが一向に起きる気配がない。ちなみにこの呼びかけで三回目だったりする。
いつも身のまわりの世話をする少女はこの任務(女をいつもより早く起こすこと)に恐れ慄いて、呼びかける彼女に泣き縋ったのだ。仕方がない。今日ばかりは死体の後片付けをするのも面倒だとその大役を仰せつかった。果たしてそれが正解だったのか。いやあの少女からすれば正しい選択だろう。
ふと、目の前で眠りこける女を見下ろす。
起きる気配はまだまだ皆無。一体どうすればそんなに寝ていられるものなのか。暁の頃より考えればもう十二分に眠っているというのに。しかしこの状況、寝首を掻かれても文句は言えない。 ゆっくり自らの刀を引き抜くと迷わずにその頭に向かい振り下ろした。
「…んっ」 ─ザグッ
一瞬の出来事だ。女は寝返りを打ち、頭が存在していたところにはザックリと彼女の刀が垂直に刺さっている。悪運だけは強いのだろうか。早く起きて欲しいと心から願ったが起きる気配はまだ無い。このまま放置という選択肢もあったが後が怖い。なぜ早く起こさなかったのだと怒られるからだ。こっちは必死に起こそうとしたのに。仕方ない。耳元に口を寄せた。
「。風間から急ぎの伝言よ」
僅かに彼女の目蓋が動いた…気がする。そう思った次の瞬間には彼女の薄い色の瞳が向けられていた。そしてその眼差しは少し怒っているようにも見えた。彼女が、起こした体を伸ばしながら首を捻れば部屋中に鈍い音が響く。下ろされた長い髪が白い肩を滑り降りた。寝起きが悪いのもそうだが、着物の崩れ方が尋常じゃない。今は肌襦袢一枚だけど。左肩は布にすら覆われておらず、胸元の谷間も曝け出されていた。他人には到底見せることはできないだろう。は小さくため息を漏らした。
「。で、何?って…何でこんな所に刀が刺さっている!?まさか敵襲」
「私の刀」
上半身だけを起こした彼女が食い入る様に刺さっている先を見つめている。は枕を使わない。と言っても結われた髪を守るために首に当てるだけのあの固い枕は気に食わないらしい。愛用の括り枕も里に置いてきてしまった。そこで代用として余った着物を幾つかぐるぐる巻いてその上に頭を乗せていたのだ。そのせいで高い着物がいくつも駄目になったのは言うまでもない。今はその布の塊に刀が刺さっている。
「言っておくが次は無いぞ。」
「じゃあ早く起きて支度して」
軽く睨みつけられながらも、は気にせず用意した彼女の着物を指差す。さっきまで泣いていた少女にこんな荒技が出来ようか。いや出来まい。そういった意味で今回の任務はが適役だったわけだ。彼女の事は熟知していた。
女がひょっこりと布団から抜け出ると着物に手を伸ばす。一枚一枚器用に着込んでいく。彼女の着物はこの京の町で一般的な娘が着るものではない。地味な柄を選べば途端に引き裂かれるのは目に見えていた。
彼女に人の、或いは我々の一般常識は恐らく通用しないのだ。今彼女が手にしているのは黒地に豪華絢爛な絵柄が入った染めの小袖。それを恐ろしい程に着崩す。肩までは見せないが胸元は十分に緩く開けられている。加えてだらり帯を前に留める。重い長振袖だけは、自由に動けないと悟ったのか着ようとはしない。うちの姫様は着物にはこだわりがあるらしい。普段着としては地味目な着物に打掛を羽織る程度に留まってくれるが、出かけるとなれば気合が入るもの。この恰好では昼間外を歩けないであろう。もちろん彼女はそれを知っているし歩きもしないだろうが。
着物に同じく彼女は髪も結いはしない。大体は洗い髪のまま下ろしているが、その日の気分で幾つかの型に整える時もある。今日は腰ほどの長さの髪を流し、先から一尺ほど手前を髪紐で留めただけだ。簪を幾つか差したいらしいが結い上げなければ似合いもしない。以前に何度か説得して、納得させた記憶が蘇る。 があれこれ考えているうちに準備は粗方整ったらしい。
*****
京の町の外れにある小さな旅籠の一室に潜伏して早数か月。ここでの生活は随分慣れたものだ。
私、とその友であり身のまわりのことを全て任せている。加えて里から連れてきた幼い少女。我らは皆、人ではない。それらは全て人知の及ぶところではないし、京の人間で彼女たちがそうであると知っているものはほんの僅か、あるいはいない。殆どの人間はその存在すら空想、御伽噺の中のモノでしかないのだから。
鬼と呼ばれる存在。
かつて平安の世で鬼は繁栄を極め、人間は鬼の力に恐れ慄いた。語り継がれる物語には常に悪として登場し続けた。力も寿命も人間の比ではないことは否めないが、鬼が人を喰らい凶暴であるか如何かと言われれば定かではない。先祖も人間を食べたとは聞いていないし、自分もそのような気は起こさない。いや大昔に粗相をしたと言う話はあるが、人間は尾ひれを付けるのが好きらしい。大半は事実から改変されている。
平安の世が過ぎて尚、鬼は人との距離を置いていた。時の幕府が鬼を滅ぼそうと兵を上げたことがあったらしい。鬼は追い立てられたが一部の有力な人間に庇護の約束を取り付けたために、生き延びることが出来たと聞いている。と言っても互いに干渉しない世界は鬼にとっても人にとっても平和であった。それでも弱小の鬼の家は後記の理由で滅んだり、あるいは人間に見つかって滅ぼされたりした。
この国は広く東と西で大きく分かれており、鬼の家もまた然り。
それが十年か十数年前の事。東の鬼は人間に滅ぼされてしまったのだ。鬼の力は人を超える。戦となれば鬼はもちろん勝つであろうが、東の鬼は頑なに鬼の力を人間に対して使おうとはしなかった。東の鬼が滅んだ後、鬼の数は減少の一途を辿っていた。
そして生き残った鬼が抱える問題は後二つ存在する。
純血と女鬼だ。それらは深く関係しあっている問題。
純血と言うのは人間の血が混じっていないことを意味し、それは真の鬼であり能力も強い。人と交配し鬼の血が薄れた混血という存在もいる。どこまで血が薄れれば鬼で無くなるのか、境界線はない。だが混血の中にも鬼血の濃い薄いは問題として挙がることが多かった。も、が里から連れてきた幼い少女もまた混血の鬼だ。
女鬼と言うのはもちろん性別が女の鬼を意味している。鬼から生まれる子は圧倒的に男児が多く、女児が生まれることは珍しかったのだ。割合で言うならば生まれる五人に一人が女児である。純血と女鬼の問題が密接に関係し合うというのは、次の純血の鬼を産むことが出来る “純血の女鬼” が特別少ないことを意味していた。弱小の鬼の家は純血 ─あるいは混血でさえも─ 女鬼を迎えることが出来ずに滅んだのだ。
は純血の女鬼である。
彼女の家は元は小さな鬼の家であったが、ある特殊な体質(あるいは能力)と政略を以て祖父母の代より成りあがった鬼の一族である。これについては後に語ることにしよう。家では家督を男に拘らずに第一子に譲ることとしていたので、必然的にがそれを受け継いだのだった。
そして…は東の出身だった。家もまた東の小さな家で、彼女の家族は一度人間の血が入ったため家の中でも力(権力)は殆ど持っていなかった。先の鬼狩りによって家は全滅、命からがら逃げだした彼女一人生き残った。そして彷徨っていたところをが自らの里に迎え入れた。
歳も同じ位の二人は良い友人になった。の方はに命を救ってもらった恩もあり、彼女の身のまわりの世話も喜んで引き受けていたのだ。里から連れてきたもう一人の幼い少女もまた似たような状況だった。
「さて」
が用意した着物を纏い、髪を束ねれば外には出れる格好にはなった。
この時を待っていたとばかりにゆっくりと襖が開かれ、黒塗りの下駄を持った少女が現れる。室内に入ると、開かれた障子の手前に下駄を並べ、傍らに小さく座った。少女の頭を撫でてやるが気恥ずかしいのか顔を上げてはくれなかった。
「。千景からの託は」
「池田屋に来いとだけ。あ、そうそう。ご飯用意できなかったから何か頂いてきて」
まったく彼の言葉は簡潔だ。
風間千景は西の鬼の中で最も大きな家…風間家の頭領であり、先祖の交わした約束を律儀に守って薩摩の人間に手を貸しているのだ。散々人とは縁を切ると言っていながらまだまだそれは叶わないらしい。風間家の存在は鬼ならば誰でも知っているだろう。それほどまでに権力は絶大で、有能で強い鬼が多い。が風間と出会ったのはいつの事だったであろうか。絶対的な風間家とは違って家の存在が鬼の世で囁かれ広まった直ぐ後ぐらいだったと記憶している。
彼を純粋に、“強い”そして“面白い”と思ったのだ。時々会う程度だったが、彼が薩摩に肩入れをしている(でもそれは先祖の約束を守るためだが)と知り、もそれに便乗することにした。薩摩…にではなく、千景にである。
今宵は何か愉しいことでもあるのだろうか。あるいは単に会いたいと思ってくれているだけなのか。いや、後者はないだろう。今朝起こった枡屋の男の捕縛はの耳にも届いていた。その男は攘夷派に所属しているらしい。薩摩が動くとなれば恐らくその関連。しかし実力からしても彼だけで十分だし、私を呼ぶ理由は思い当たらない。だが美味しい物を頂けるとなれば話は別だ。それに久々に千景に会える。気分は十分に高まっていた。
「行ってくる。気分が良いから土産は奮発しよう」
差し出された小さな仕込み刀を掴み、並べられた履物に半ば強引に足を突っ込む。
「忘れ物は大丈夫?あ、着物を汚さないでね。ちゃんと朝までに帰ってきてよ」
「はいはい。は良い小姑になれるぞ」
「“はい”は一回!」
「はーい」
二人の少女は畳に手を付き静々と頭を垂れた。部屋を吹き抜ける風と共にの姿は消える。
東の空は茜色から藍色に染まり、長い夜の始まりを伝えていた。
人ではなく、鬼側に立って幕末を見つめようではないか企画。他の話とはまた違った、大人し目…、或いは姉御肌(?)な主人公になります。 話し方が、落ち着いているというよりババくさいような。なんかそんな感じで。物語のカギを握るのは、後にも先にも千鶴ただ一人です。
20141227*星宮はちこ 裏語