いつか自由な蝶になる




【弐、鬼の逢瀬は命懸け】


陽が落ちればこの京の都も静けさに包まれる。
は道ではなく瓦屋根の上を歩いていた。高い位置からだと町の風景が違って見える。私はこの景色が好きだった。この時間になれば大抵の商店は店仕舞いするし、木戸は固く閉ざされ屋内の明りが漏れることはまず無い。薄暗くなった町では、昼間よりは少ない数の人間が、早く家に帰ろうと忙しなく歩いていた。これから出かける物は手元に僅かな明りを灯しているのでわかりやすい。 馴染みとなった店も正面…ではなく裏口辺りから顔を出せば、応じてくれるようになった。土産は奮発すると言った反面、手ぶらでは帰れまい。幾つかの余りの菓子を包んでもらい、と少女(彼女は雛と言う)の土産にすることとした。

あれやこれやと京の町を巡っているうちに時間は随分過ぎてしまったらしい。
池田屋に着いた時には辺りは真っ暗になって随分経った後だった。気配を探れば確かに“男”は居るようだ。開け放たれた障子を捉えると勢い良く飛び立ち、音を立てて敷居に降り立った。



「遅くなって悪かった。千景」
「座れ」


視線を上げもせずに彼、風間千景は口を開く。その手には満たされた杯が一つ握られてるだけだった。傍らにはお付きの天霧が鎮座している。彼もまた鬼で風間と共に薩摩に協力しているのだ。
男はに対して短く命令すると酒を飲み干す。ご機嫌が斜めなのか。履物を脱ぐと天霧によって差し出された座布団の上に座る。久しく顔を見ていないと言うのに、相変わらずの整った顔は月明かりに照らされて目を惹いた。

「随分遅いな。あの女に託けたのが間違いだったか」
「これでも早い方だ。それで、今宵何故私を呼んだ。まさか私に会いたくなったとでも?」

意地の悪い笑みを含んだ顔で彼を見やれば、顔色どころか眉一つ動かさない。もちろん答えに期待はしていない。静かな部屋には物音一つ響かない。後ろの天霧もただ座っているだけだ。
ふと、辺りを見渡せば…この部屋、おかしい。ピンと気付いたのはそれが目当てだったからか、知らず内に目が追うからなのかは定かではない。千景は酒を飲んでいるだけだが、この部屋のは彼の杯に注がれる酒以外にまったくと言っていいほど食べ物の気配がないのだ。

「この部屋に料理は無いのか?起きて直ぐにに追い出されて来たのに」

ポツリと漏らせば、天霧が「お待ちください」と立ち上がり部屋を出て行ってしまった。流石だ。気の利く男は違う。目の前で優雅に酒を飲む鬼とは違って…、と思いつつ口には出さないでおいた。これでやっと朝餉(夜だけど)にありつけるというわけだ。

「で、用件は?」

遠慮も無しに酒を飲み続ける風間に問うと、視線だけをチラリと廊下に通じる襖に向けた。音も立てずに両手両足で這いながらそこに近寄る。近くの座敷で宴会でもしているのだろうか、地獄耳と称されるの耳が微かに西の国訛りの言葉を掬う。そして音にもならないであろう、殺気が混じって感じられる。
枡屋の男が捉えられ、差し詰め攘夷派は作戦会議といったところだろうか。特に長州の動きを薩摩も警戒している。だがしかし、風間と天霧が居るだけでも戦力として十分だ。今一度、呼ばれた理由を探ってみるがさっぱり思いつかない。まさか、あんなに殺気立っている座敷にでも乗り込んで酌でもしてこいと言われるのだろうか。そんなのは一切断ろう。それがたとえ千景の頼みでも。隙を見て、彼らの杯を血酒にしてやらんこともないが。

「赤子同然に眠っては物を食らうばかりでは貴様を呼んだ意味が無い。少し遊ばせすぎたようだな」
「久しく刀など振ってないからな。元々の剣の腕はどうであれ、余り鈍ってはいないと思うけど」
「いずれ、時が来る」

そう言ってまた酒を飲み干す。
空になった杯を視界に捉え、襖から彼の隣に這い寄ると銚子から酒を注ぐ。何も言わずに杯を差し出す千景にそれを満たす。残り僅かだったのか杯を満たすと空になってしまった。天霧が戻ってきたら追加の酒も頼まないといけないなあとぼんやりと考えながら、彼が帰ってくるであろう方向を見つめた。
しかし先ほどから時間は随分と経つのに、彼が戻ってくる気配は微塵も感じられない。おかしい。たかが料理の一つ二つにこれほどまで時間がかかるものだろうか。起きてから何も食べていないと言うのはにとって死活問題だ。せめて茶でも飲んで来れば良かったと、喉の渇きを感じながらもそれを潤す術はない。
ああ、そうだ…千景は酒を持っているではないか。


「千景…酒頂戴」
「やらん」


当てつけのように最後の一口を飲み干す男。ああ、なんて憎らしい。そして魅力的だ。
は強情な眼差しを普段は他者に見せない位に和らげる。請うるような上目使いで彼を見ながら両手をそろりそろりと畳に這わせた。少し前かがみの体勢のままで視線が交わった瞬間、何も言わずに自らの唇で千景の唇を塞いだ。

視線が逸らされること無しに深く絡まり合う。千景は私を上から僅かに見下ろしているし私は上目に千景を見つめている。唇越しに感じた千景がその口元を緩めニヤリと笑った。途端に割って入った男の舌が彼女を絡め取る。微かに酒の味がした。「…んっ。はぁ」互いの息さえも絡んで離れようとはしない。いや離れたくはない。
このまま押し倒してやろうかとも思う。こんな熱っぽい行為の最中に料理を取りにいった男が帰ってきたらどうしようか。千景を存分に感じながらも頭の片隅は随分冷静だった。天霧は気の利く男だ。きっと帰ってくることはないだろうが。
まさかとは思ったがここまで堪能させてもらえるとは正直思わなかった。名残惜しそうに舌を垂らしたまま離れれば、赤い眼差しは私を捉えて離さない。

「貴様は餌をやらんと凶暴だな」
「誰も、私を飼い慣らせない」

そう。何かの動物を見るような眼差しに、私の心の奥底に眠っているであろう被虐心が僅かに燻り始めたのを感じた。男の眼差しに答えるように、上目使いのままの瞳に強みと鋭さを宿す。
空腹は思考にも影響する。最後の酒さえも千景の胃袋の中に収まってしまった。本来ならばここで苛立っているかもしれないが、先ほどの接吻を思い出せば空腹など一切気にならない。

まさかこんなことになるなんて!

積極的な彼が見られるなんて思ってもいなかった。土産を奮発するとは言ったもののあれだけでは足りないだろう。追加を買いに行きたいがこんな時間に開いている店などどこにもない。惜しいことをした。それほどまでには機嫌が良かった。


「風の噂だが、捕らえられた男は逆さに吊られて足を釘で貫かれたらしい。壬生の浪士だったか、人間の拷問とは恐ろしいな。確か…異国の神も手足に釘を打たれたと聞く」
「鬼のお前がなぜそのようなことに興味を持つのかこの俺には理解できん」
「先生が色々と教えてくれる」


“先生”と言う単語に反応して強い視線を向けられる。
確かこの呼び方を彼の前でしたのは初めてだった。私が今、“師”あるいは“先生”と呼ぶのは…もちろん新しいモノ好きの師匠と言う意味でなのだが、ここにはいない「不知火」と言う鬼だけである。そう告げればもちろん鼻で笑われた。
不知火は我々と同じ鬼であるが、薩摩には属していない。何でも…長州のある男に惚れて(多分衆道という意味ではないと思う)、そのまま長州に肩入れしているのだ。薩摩と長州…となれば話はややこしくなるが、それは人間同士の問題。鬼は必要以上に人間に手を貸さない。現に千景は先祖の恩を返したら人とは縁を切ると言いきっているのだし。この場にいない先生、改め不知火の顔がチラリと脳裏を過る。彼にも久しく会っていないのだ。


「にしても天霧は遅いな。遅すぎる!飢え死には御免だ」
「食えば良いではないか」


千景が言いたいのは恐らく、私の後ろに置かれたたちへの土産の菓子のことだろう。確かにそれを食べれは力にはなるが土産は無くなる。そうなってしまえば明日が恐ろしい。は私にさえも手加減を忘れることが時々あるのだから。先ほどの枕に深く刺さった刃が浮かぶ。
天霧が持って帰ってくるであろうご馳走を待つ方が賢明だ。仕方がないが大人しく待つことにした。
しかし帰ってきた鬼の手には、豪華絢爛な…とはいかずとも普通程度の料理の類が…一切なかった。何故だ。何事だ。盆の上には酒でもなく、急須と湯呑みが乗っているだけ。
驚きのあまり天霧の顔を凝視してしまう。彼は冗談とは無縁であろう。私の視線に気付いた天霧は「宴会で混み合っているそうですので暫くお待ちください。先にお茶でも」と、注がれ湯気が立ち込める湯呑みを差し出した。

此処だけの話、私は熱々の茶が嫌いである。飲めないのだ。

少し冷めた…と言っても完全に冷め切ったものではなく、温い(ぬるい)程度の茶を好んで飲む。起きたてに差し出される茶は、が複数の湯呑みの間を幾度となく移して適温(この場合はの好みの温度)にしたものである。湯気が立つ程度の茶を見るのも久しいくらいだ。


「如何なさいましたか?」
「いや…その…」

中々茶に手を付けない私に痺れを切らしたのか、天霧が茶を勧めてくる。彼はもちろん私が熱い茶を飲めない事実を知らないのだろう。彼に罪はない。だがその向こうでさも愉快そうな顔をしている千景は確信犯だ。彼は真相をもちろん知っている。天霧に説明してくれてもいいのに。飲めと言わんばかりの表情に殺意さえ湧いてくる。そんな彼でさえ、いやそんな彼だからこそ惹かれているのだ。


「飲むまで餌はやらぬ」
「鬼だ。鬼畜だ」
「貴様もな」


半ばお決まりとなったこの掛け合いに、頬が緩む。茶が飲めない理由を察したのかどうかはわからないが、天霧はもう茶を勧めなかった。湯気が立つ茶を覗き込めば薄ぼんやりとではあるが自身の顔が映る。決して口はつけない…というかつけれないだけだが。飲むにはもう少し冷めてからがいいだろう。それまで料理は無しだと宣言されてしまった。静かに湯呑みを置き。開かれた戸口から外を眺める。京の夜は静かで好きだった。
鬼の中でも、感覚器は抜群の能力を持つの肌があるいは第六感が、瓦屋根が続く京の街並みの中を確かに徘徊する殺気を感じた。まだ距離は遠いが確実に近づいては来る。その目的地がこれより先なのかあるいは手前か、はたまた此処なのかはわからない。これほどの殺気を発するならば恐らくただの町人ではないだろう。
殺し合いが始まる。もし目的地がこの池田屋ならば…きっと…。は静かに立ち上がった。衣の擦れる音が響く。


「千景…殺気が蠢いている。今宵一騒動起こるかもしれぬぞ」
「だとすればどうする。その刀では戦力にはなるまい」


いつの間に懐刀の存在に気付いていたのだろうか。今も胸元に隠してあるのだ。一目見ただけでは外からは気付かれまいと高を括っていた。出会ってから時間も経ってはいるものの、傲慢無礼で気高い彼が胸元を盗み見ていたとなれば何とも滑稽極まりない。いや可愛いところもあるものだ。


「腹が減っては戦は出来ぬと言うだろう?今宵は遠慮する。だが戦が近いことは肝に銘じておこう。刀も拵えておく」
「まあ良い。呼ばれたら直ぐに来れるようにしておけ」
「ああ。して天霧…茶の事だがすまなかったな。熱い茶は苦手でな」
「こちらこそ配慮が足らずに」

男の言動、所作、全てに感嘆が零れそうだ。

「あー、天霧は気の利くイイ男だ。どうだ?我が里に来る気はないか。大切に控えさせている娘たちを直ぐにでも嫁にやってもいい。皆良い娘だ。其方(そなた)ならば皆気に入る」
「それならば私よりも適任者がおりますので」


そういって青い瞳が盗み見た先はもちろんあの鬼である。
口には出さないが対象は決まりきっていた。こんな調子で彼を攻撃…ではなくからかっていればすぐに機嫌が悪くなるのだ。なのに私たちはこの行為を止めようとはしない。千景は天霧が私の為に持ってきてくれた茶(飲める温度になるまで冷ましていた)を勝手に啜っていた。このままちくちくと追いつめてやろうかと思った矢先、青い眼の鬼によって対象が直ぐに逸らされた。この部屋に残る対象は、もちろん私しかいない。
天霧は頭も切れる男だ。敵に回したら厄介極まりない。


「それに、稀有の能力を持つと言う純血の女鬼は誰を婿に迎えるのか。里中でも噂でしょう。貴女を欲しがる鬼は少なくはない」
「婿殿か。あるいは嫁入りでも悪くはないな」
の名は今や広く知れ渡っております。まさかこのまま身を固めずに過ごすおつもりですか」
「それは里の者も…いや母や祖母さえも許さんだろう。夢枕で散々に説教されるのは遠慮願いたい」


天霧のお節介さもに似ているかも知れない。


「フン。家は新しくも純血を継ぐ“の女鬼”はよく女児を孕む…か」


私は“それ”を持って生まれた。
私自身、未だそれを発揮、あるいは証明できてはいないがきっとそうだろうと思う。祖母が望み母が証明した、子を…いや“女鬼を産む”力。実際私には七人の妹がいる。母が残した女鬼は私を含めて八人だ。加えて弟も二人いる。他の家で女児を八人も産む女鬼は滅多に、いや殆どいない。妹たちはまだ幼いがいずれ彼女たちの腹にもその能力、あるいは体質が備わっているのが証明されるのだろう。
一般的に女鬼は線が細く体が弱い。多くの子を生すには体力と丈夫な体が必要となる。それが祖母の教育方針である、“よく寝てよく食べてよく遊ぶ”という何とも当たり前だが、家の奥底で大切に大切に育て上げられていた他の家の女鬼にはなかった方法を以てして、母を含め私達は丈夫な体と体力を得た。それが多くの女児を産めることに関係しているとは思えないので、その部分は体質あるいは能力ということにしておこうか。

母と祖母の期待を存分に背負って産まれた純血の女鬼、

現、家の当主であり、家を中心とする小さな鬼の里の長である。それでも西の鬼を統べる風間家とは、比べることもなく家柄は格下である。元は小さな家であったが、祖母が実子(母)に加え養子などで集めた純血の鬼(女鬼も含む)を政略的に動かしたのだ。特に力の弱い家は、存続をかけて純血の鬼が欲しかった。家はそれらの家を取り入れる形で大きくなり、鬼の世界で無名からのし上がったのだ。今のは、混血であろうとも女鬼に対しては彼女たちが望めば里に迎え入れている。故に純血かどうかに関わらず彼女の里にいる女鬼の数は多い。そして皆、長であるを慕っていた。
純血かつ子をよく孕む(であろう)の動向は、鬼の勢力に影響を及ぼしかねない。故にその身の置き方に注目が集まり、故にその存在を迎えることを望む。あるいは、その存在を忌む者もいるだろう。


「確かに私には他の女鬼には無い能力が備わっているのかも知れぬ。だが自身に誓ったことがある…」


この言葉も何度口にしただろう。近郊の里の長同士の集まりで言い放った時の周りの鬼の反応が今でも思い出される。きっと偉いのだろう歳も格も違う各里の長たちが、何とも面白くそれでいて間抜けな表情をしていたことか。戸口から差し込む月明かりを見上げながら思い出した鬼の反応にほくそ笑んだ。滑稽だ。
上半身だけを僅かに捻り、此処から見れば一番奥に居る赤眼の鬼に視線を送る。交わる視線。


「私は強い鬼との子しか産まぬ」


だってそうだろう?
私は私という価値を最大限に利用する。それはきっと鬼だとか家だとかの為ではなく私自身の意思だ。強い鬼と結ばれ次の子を産む。相手が“弱い”鬼だったならば、私の存在する意味が無い。故に、私は強い鬼を望んだだけ。犬も鳥も、草花でさえも…強い者との間に子を残す。それは自然なことに過ぎないのだ。
鬼の世界で、強いと言える男は誰だろうか。

外の気配を探れば、殺気はずいぶん近づいてきている。ここにたどり着くのも時間の問題だ。空腹の身では力も入らないし頭も回らない。さっさとお暇しよう。この町の何処かに居るであろう先生の所で何かご馳走にでもなろうか。彼ならまた面白い話をしてくれるに違いない。


「殺気が随分近くなったな。千景…ご馳走様。天霧は例の件、真剣に考えておいて欲しい。私はそろそろ失礼するぞ」


履物に足を掛け上半身を乗り出すと適当な屋根に向けて飛び立った。
結局、料理にしろ茶にしろ何にももらえなかったではないか。代わりに飛び切り良いモノを貰いはしたが。手にはたちへの土産の包み。結局これだけになったが明日、機会があればもっと良い物を買ってもいいくらいだ。
音を抑えながらしばらく屋根を歩いていると、浅黄色の羽織を纏い殺気をこれでもかと放つ集団が向かってくるのが見えた。京の夜にその姿はあまりにも目立ち過ぎていた。と言っても、辺りには誰もいないので彼らを認識する人間はいないだろう。これが先ほどから殺気を放っていた人間であり、話に聞く壬生の浪士か。額には鉢巻のようなものを巻いている。
男たちの全力疾走の先にはきっとあの男がいる。はニヤリと笑った。先頭を行くは総髪の男だった。浅黄の集団がに気付かずに距離が縮まってくる。これは本気で刀が必要だなと思った。

ふと、集団の中に違和感を感じた。

違和感と言うべきかこの気配は…正しく鬼のものだろう。チラリと集団の中に視線を送る。目に留まったのは集団の後ろを走る浅黄の羽織を纏っていない少年…だ。少年?いや違う。どう見てもあれは女ではないか。それにこの気配は女鬼のものであるし、鬼の気配と血は十分に強い。恐らく…純血の女鬼。冷酷卑劣な壬生の浪士に混じって、どうして純血の女鬼が居るのだろうか。しかも男装をしてまで。考えを巡らせてみたが答えは思いつかなかった。顔を覚える為に、はこれでもかと少年改め女鬼の顔を見つめた。歳はまだまだ若い。精々、十五か十六あたりだろうか。顔には幼さが残る。

これは面白い事になりそうだ。

少女から視線を戻すと、今も京の何処かに居るであろう別の鬼の気配を存分に探った。

 
池田屋にて。その後の、風間と天霧はご察しの通り。

20150117*星宮はちこ   裏語