いつか自由な蝶になる
【参、知らぬ仏より馴染みの鬼】
が池田屋を去って程なくして、新選組近藤隊(近藤を始めとして沖田、永倉、藤堂の幹部四人)が池田屋に踏み込んだ。長州勢は直ぐに戦闘態勢を取り、暗闇の中激しい斬り合いが始まる。一階が粗方片付いたところで沖田と藤堂の二名が二階座敷へと上がり、浪士を斬っていく。
暫くして土方隊が池田屋に到着。土方は役人と対峙した。二階にて長州浪士と思われる二人組の男と対峙した沖田と藤堂の斬り合いが始まる。混乱に乗じて、負傷した隊士の手当てを行おうと雪村千鶴も池田屋に踏み込み、二階へと上がった。戦闘中、沖田は喀血し戦闘もままならない事態に陥り、藤堂は人間慣れした男の手刀で額を負傷した。藤堂の額にあった鉢金は砕けていたという。
*****
「先生」
「あぁ?か」
薄々気づいていたであろうに、私の彼を呼ぶ声で不知火は視線をやっと上げてくれた。三条から少し歩いた場所にある、とある借家の一室に彼はいた。お仲間の長州浪士は池田屋で作戦会議真っ最中だと言うのに不知火はそれには参加しないらしい。あれほどの殺気を纏っていた集団だ。一度戦闘となれば死者を出すことも免れないだろう。そして今頃…。
「やはり其方の所が当たりだな。もう腹が減って限界だ。には叩き起こされ茶も飲まぬまま追い出されるわ、千景に呼ばれて池田屋に行ってみれば飯すら出てこぬわ。散々だ」
「って、お前何も食ってないのか」
途端に距離を取られる。ちなみに私は何もしていない。ジロリと睨みつけられるのも気の良いものではないなと思う。ちなみに私は何もしていない。大切だから二度言った。履物を脱ぎ捨てると不知火の隣に座った。
「ふっふっふ。どうした?顔が青いぞ」
「お前本当に何も食っていないのか?」
顔を覗き込みながらこれでもかと見られる。まさに穴が開きそうだ。私が何も食べていないのは事実。起きて直ぐに宿を出た(追い出された)し、後は町を散歩していたし、池田屋に着いても何も口にはしていない。疑心を宿した瞳は何を掬い取る?
「にしては機嫌が良いな。何かあったか?」
「何も。私も無暗に物に当たりはしない」
紅を塗る様に、無意識に人差し指が唇をなぞる。思い当たる節は…ある。眠いながら出てきて正解だった。
確かに今日は機嫌がいい。事実だ。
「だが腹が減って仕方がない。先生…頼んだぞ」
いつものように笑って彼の肩を叩けば不知火は部屋を出て何処かへ行ってしまった。不知火は見た目はあれだが天霧に次ぐぐらい気の利く男だ。暫くして戻ってきた男の手には待ち望んだ料理。並べられたそれからは美味しそうな香りが漂ってくる。注がれる酒が恋しい。
一口それを含む。喉を潤すと同時に焼ける様な熱さを帯びる。ちょっと辛口。
「池田屋には行かぬのか?」
「俺様の出番じゃねーよ」
煮物の芋は味が浸み込んでいて美味しかった。米が進む。次は焼き物に箸を伸ばした。京の料理の味付けは薄い。素材の味を引き立てていると言えばいいのだろうか。もう少し濃い味付けでもいいくらいだ。
並べられた料理は次々にの腹に収められていく。あれほどあった料理も残り僅かだった。空腹のにとっては量は少な目だったがこんな時間だ。豪勢な料理を用意しろというのも難しい。盛られた米を腹に流し込む。瞬く間に出された料理を食べ終わってしまった。
「長州は尊王攘夷を掲げ、京を追われてもなお潜んでいるようだな」
不知火は何も言わない。彼の杯にも酒を注げば一口で煽った。
文久三年 葉月。予てより帝による政治を取り戻そうと企てていた長州藩の動きも会津藩と薩摩藩の両勢力の働きで抑え込まれてしまった。それ以降長州勢は京を追われ、長州の残党狩りにかの壬生浪(しかしその頃に新選組という名を与えられたらしい)も刀を振るっている。長州は御所にある門の守護という重役を解かれ、京を追われはしたが国に帰ったわけではない。僅かな過激派は京に潜み武器や火薬を集め、立て直しをはかっていた。
そんな長州間者の大本締めであり、情報収集と武器調達を行っていたのがかの枡屋の男。本名は古高と言ったはずだ。男が捕縛された今日…薩摩側の千景も探りに池田屋に来た。
長州藩は武器を取り挙兵、上京しようしている。しかし不知火が肩入れする男はそれには反対したらしい。何でも色々と問題を起こして今は獄中に囚われているとか。彼を骨抜きにする男だ、一度会ってみたい気もする。その男の影響だろうか。不知火は長州とはいえ過激派の行動にはあまり首を突っ込まない。藩命となれば腰を上げるが、古高の件は自業自得だとも言っていた。
ちなみに、私にこれら人の世の情勢を色々と教えてくれるのはいつも不知火だったりする。そういう意味も込めて彼を先生と呼んでいた。
鬼の里に籠っていては外の世界を知ることも無かった。千景を追って京に出てきても、将軍がどうとか攘夷がどうとか…と一般的な常識も乏しかったのだ。それでも鬼は不本意ながら人間の世の動きに左右される。もし幕府がもう一度勢力を取り戻したら、肩入れしている不知火から鬼の存在が“危険”なものであると彼らに再認識されるのは避けられないだろう。そしてかつて起こったような鬼狩りが行われるのも目に見えていた。当の不知火を始め風間に天霧と言った強い鬼は問題ない。逃げ切れるだろう。だがが里に残してきたような女子供は犠牲になる。それだけは避けたい。
世の情勢はこれからの我らの身の振り様に関わること必須。京にいる限り、少しでも早く正確に情勢を理解しようと心に誓ったのは記憶に新しい。
日ノ本が変わっていく。
「この国もこのままではいられまい。願わくば、我らにとって良き方向へと進んでもらいたいものだ」
杯の中で揺らぐ水面を飲み干した。今日に限って妙に優しい(?)不知火は、間髪入れずに酒を注ぐ。彼自身も次の一杯を飲み終わっていた。花弁が散る様に静かな部屋に言葉が零れる。
「其方が長州に肩入れする程の男。私にもそんな存在が必要かもな」
「はぁ?お前何でわざわざ京に出てきやがったんだよ」
「千景を追って」
頭を抱えて思いっきりため息をつかれた。一体どうしたと言うのだ。釈然としない態度に苛立って奴の杯には動かせば零れるほどに酒を注いでやった。溢さずに飲むがいい。と、やはりそれを動かした途端に手を汚していた。
「そうだ不知火、其方に頼みがある。刀を誂えてくれ。特別良い物でなくてもよい。丈夫で斬れる刀だ」
「鬼が鍛えたとか言うお前の刀はどうしたんだよ」
「里に忘れた」
再び頭を抱える男に次はどんな悪戯を施してやろうか。考え付くものはちょっとやり過ぎなものばかりである。鬼が鍛えた刀は確かに家に転がっていた。一振りではなく何振りもある。特別上等な銘入りは家宝とか何とか。実際の所、稚児の頃からは振り回して遊んでいた。障子や襖を突き破る度に乳母の青ざめた顔が追ってくるのが楽しかった。里を出て腰に差していないことに気付いた時のの顔も、今思えば乳母のそれに似ていた。
男の腹に鈍く輝く塊が見える。新しいモノ好きの彼が異人と友人伝いで手に入れたと言う。西洋の鉄砲。種子島に入ってきた初期の鉄砲は銃身が長く一発打てば、煤を払い火薬と弾丸を詰めなおさなければならない。手間も時間もかかる。しかし彼の鉄砲(近頃は銃というらしい)は数発の弾を入れておける優れもの。前に一発だけ打たせてもらったが、的には当たらなかった。手が反れる。彼はもちろん外すことなく打ち抜いていた。流石、先生である。
「私も励めば銃も扱えるかもしれん」
「止めとけ。死人が出るだけだ」
「そのための銃ではないか」
武器を使って死人が出て何が悪い。そこまで下手とは思っていないが、素早くかつ正確に当てなければ味方を巻き込むだろう。その域に達するまでにどれほどの鉛を使うだろうか。知ったことではないが、少しばかり無駄だろう。時間の。
「まぁ伝手使って考えといてやるよ」
物分りの良い男は違う。懐から金(きん)の入った包みを取り出すと、不知火の前に差し出した。何だと言わんばかりの表情にくすりと笑ってしまった。
「手間賃と飯代と酌代に、噺の余興代も含めた刀の代金だ。受け取るといい」
「おい。安すぎるだろ」
十分だ、と言い捨てると酒を煽った。帳の降りぬ酒宴はまだまだこれからだ。
「…」
ふらりふらりと視界が揺れているような気がする。そうでない気もする。辺りに転がる徳利の数を数える余裕もない。ちと飲み過ぎたか。いや、いつもならまだまだ飲めるはずだろう。身体が暖かくて何だかとても…気持ちいい。
「!お前ェこんな所で寝てんじゃねぇよ」
「寝ては…おらぬ。酔ってもおらぬ…ぞぅ」
酔っていない。ただ温かくて気持ちいいだけ。目蓋が重くて視界が暗転しそうだ。夜のような闇の中で不知火の声が聞こえる。でも何を言っているのかまではわからなかった。
不知火がゆっくりと体を起こせば、眠りこける女の体勢が崩れる。体を畳に打ち付けても起きないほど深く眠っているらしい。襖を開けた先には布団。多少強引に引っ張りながら布団に転がすと、僅かに声を上げながら寝返りを打ったのが分かる。
彼の思考に彼女の使いの女鬼の顔が浮かんだ。名前は何と言ったか。忘れた。 前に一度だけ二人のやり取りを見たことがあるが、“寄り道せずに早く帰ってこい”だの“着物を汚すな”だの“忘れ物は?”だの、母親かと思える発言が多かったように記憶する。
は一つの里の長であり、家の当主でもあるが、時おり見せる仕種や行動は子供と見紛うほど。が、本人にはあまり自覚がない。その使いの女鬼もこの姿を見たらまた怒るのであろうか。
“!そんなところで寝ていたら駄目!布団はこっち!ああ、着物が皺になっちゃう!早く脱いで!”
男は、気持ちよく眠る女鬼を見下ろしながら仕方ないと諦めた。こいつは手がかかる。器用に女の帯を解き外の上等な衣を脱がすと、皺にならない様に広げておいた。襲う気は無いし起こりもしない。何より後が怖い。楽になったのか、は気持ち良さそうに寝息を立てている。 「千景…」零れた声は聞こえなかったことにした。
*****
“…”
誰かが呼んでいる。微睡に浮かぶ意識が現に戻ってくるように感じた。
目蓋が僅かに動くと途端に全てが覚醒を迎える。瞳が映したのは…天井だ。それも随分見慣れた天井。見渡しても人の気配はない。呼び声は夢だったのだろうかと考えながら重い体をようやく起こす。昨日の記憶は曖昧だった。先生の所でご飯を食べ酒を飲んで、何をした?
まさか暴れてはいないと思うが、そこからの記憶が見事に無い。此処は旅籠の部屋…ということは彼の元から無事に帰ってきたのだろう。
耳に届いたのは、まるで廊下を叩くような足音。は眉間を寄せた。
「今起きたのね!もう心配したのよ。朝になっても帰って来てないし。昼前になっても帰ってこないし…。まさか屋根の上で野垂れ死んでいるのではないかと心配で心配で」
「にしては嬉しそうだな」
「まあ!冗談を!」
障子越しの外は稀にみるくらい明るかった。時を尋ねれば昼八ツ過ぎらしい。こんな時間に起きたのはいつ振りだろう。首を伸ばすと関節が高く鳴った。差し出された茶器に手が触れれば、手先だけの感覚でわかる。良い塩梅。もちろん温度と言う意味でだ。温い茶を口に含めば青さの中に甘さと香ばしさを感じた。体に染み渡っていくような。の淹れたお茶は美味しい。
「それで私はどのようにして帰ったのだ」
半分程中身を飲んだ器を降ろしに尋ねた。足元も覚束無い様子で彷徨っていたのなら居たたまれない。もう一息ついて再び茶を口に含んだ時だった。
「不知火が抱えてきた」
「ぅぶっ。ゴホッ」
どんなに考えても想像できなかった。思わず噎せてしまった。
「(抱えてきた!?)」
その後のの一言一句が見えない杭のようにに突き刺さった。
*****
の回想。
朝五ツから半刻ほど経った頃…京の町は一気に活気付く。いつもの朝だ。
は既に帰って来て寝ているはず。着物は脱いで皺にならない様に掛けているだろうかとか、夜具から抜け出ていないかとか浮かぶのはそればかり。心配になって覗いた主人の部屋に残っていたのは、皺一つない敷いたままのそれ。鬼の姿はない。
一瞬、何が起こっているのかわからなかったので、襖を元通りに閉めてしまったではないか。再び開いても彼女はいない。その事実はを一瞬にして混乱に導いた。辺りを探し回っても、屋根を見渡しても姿がない。何かあったのではないか。開いたままの障子を閉めもせずに、は考え抜いた。
差し込む明りを遮る影に気付いたのは暫く経った頃。
振り返れば鬼がいた。顔見知り程度の…男鬼。名前は度々から聞いていた、確か名を不知火という。上は腹掛けのような姿で腕には刺青も彫り込まれている。刀の類を持たずに西洋物の銃を持ち歩く様は異様だ。何でも新しいモノに目がないらしく、そこを気に入ったが“先生”だとか“師”とか呼んでいる。世事に疎い彼女に色々と教え込んでくれるのはありがたいが、飄々と、時に軽率な男の存在がは苦手だった。
「此処がお前ェ等の隠れ家か。ったく遠すぎるだろ!」
会って早々何を言い出したのかと、表情を作るのも忘れて男を見つめていた。ふと視線が捉えた大きな物。男の肩には俵担ぎされた恐らく鬼。しかも先ほどまで姿が見えないと心を砕いていた存在。
だ。足が手前に垂れていて、男の背には頭があるのだろう。長い彼女の髪が床に着いていた。怪我でもしたのではないかと目を見開き立ち上がった。
「一体何が!」
「安心しな。飲み過ぎて寝てるだけだからよ」
不知火は女を受け取ろうとしたを制止し隣の寝間へと案内させる。敷かれた布団に女を転がすと男は今一度に向き合った。
「何も食ってない割に機嫌が良かったコイツを初めて見た。明日は雪でも降るんじゃねーか?」
「機嫌が良い…?」
「ああ」
池田屋で何かがあったのだろう。昨日の今日だ、情報は一切入って来ていない。起きたら彼女に色々と問い詰めねばいけないだろうか。下手な聞き方をすれば機嫌が悪くなるのは目に見えている。
「俺様はもう行くぜ。ああ、こいつの持ってたお前ェ等への土産だ」
包みを受け取れば少し甘い香りがする。奮発すると言っていた例の土産だろう。いつもは同じことを言っても、なんだかんだ忘れるのが大半だったが今日はちゃんと買ってきてくれたらしい。早くこれを広げたい衝動に駆られながらも客の前だ。手元を見つめていたが再び上を見上げた時、何も言わずに男は消えていた。
主人を運んでくれたお礼も言えなかった。は少しだけこの不知火という鬼を見直した。
「…」
時は昼過ぎに戻る。
飲み過ぎた挙句に担がれて来たとなれば、迷惑をかけただろう。不知火も長州に属する者として役割や仕事もあるはずだ。今度会った時は礼を言わねば。
「お土産ありがとう。お八つに頂きます。雛も目を丸くして喜んでいるみたいよ」
「そうか…」
それは良かった。
もう一度眠ってもいいが今日は風呂に入りたい気分だ。茶は温いのが良いが風呂は熱いのに限る。に湯の用意を頼んで(実際に湯の支度をするのは旅籠の人間だが)、自分は文机の上の手文庫から硯と墨を取り出すと、要領良く澄明な水を黒く変えていく。
久方ぶりに、ある御方に謁見の約束を取り付ける文を認める。今日出せば近いうちに返事が来るだろう。準備は早いうちに終わらせねばいけないなあと、その日着る着物や土産を頭に浮かべながら、墨色の文字を滲ませていく。
風呂の用意が出来たとが告げた時には、墨が乾いた文を綺麗に折り終わっていた。
ぬい様の飄々とした感じと透き通った声が堪らん。
20150301*星宮はちこ 裏語