いつか自由な蝶になる
【伍、我は一つの牙となりて】
池田屋の事件から少し経った頃。あの夜の出来事が断片的にの耳に届けられる。
長州藩はあの旅籠の一室で「捕らえられた枡屋の男(確か名前は古高)の件」と「御所の焼き討ち」について話し合っていたらしい。襖越しに感じた殺気も今思えば可愛いものに思えてきた。そして、池田屋に踏み込んだ新選組によって、斬り合いに発展し、尊王攘夷派は多くの戦死者と捕縛者を出したという。残念ながら…、求めていた名は挙がらなかった。彼らはことが起こる前に池田屋を去ったのかも知れない。
内容を整理して頭に叩き込む。長州も、一度京を追われ再起を狙い準備を進めていた矢先の改めだ。この有り様では長州勢は怒り心頭。怒りの炎が心の奥底に秘めていた倒幕という念に燃え移るだろう。その炎は何を燃やすのか? 我々はまた炎に巻き込まれる。しかし、里を出た時から覚悟は決めていた。京は戦場となる。今一度、先生か千景に会って情報を得ねばならんな。頭の片隅に置いておこう。
一通り考えを巡らすと、途端に眠気が襲ってくる。そう、今は暁の頃。 夜の帳が薄霞に消える。民は未だ夢の中にいるのだろう、町はひっそりと静かなままだ。そして陽の光を拝む前に、私も眠らねばならない。寝不足は良くないからな。欠伸を漏らすと敷かれた布団に寝そべる。体に纏った夜具を巻き込んで目蓋を閉じれば…温かさがを夢の世界へと誘った。
…なのに畳を小刻みに叩くような足音が響く。枕越しに感じるそれ。ああ、なんて不快だ。寝よう。早く寝よう。の睡眠を遮ったのは勢いよく開かれた襖の音と、高い女の声だった。
「大変!客よ!」
「…」
煩い。は無視を決め込んだ。あとちょっとで向こうの世界に行ける。おやすみ…。しかし今日に限って、もゆっくりは寝させてくれないようだった。思いっきり、これでもかというくらいに体を揺さぶられる。世界が揺れる。
不快感。とも言うべきだろうか。今まさに夢の国への門が開かれようとしていた。私はそこに向かって羽ばたいて行こうとしていたのだ。なのに気だるさと共に目を見開けば視界一杯に広がるの顔。しかも何だ。この世の終わりみたいな顔をしている。地震・雷・火事・親父…良くない事でも起こったのだろうか。
「…何だ」
重い頭を上げた。今寝ようとした瞬間。そんな時に起こされるなど思ってもいなかった。苛立ちが収まらないままを一睨みした。僅かに怯んだ表情を見せた彼女も、用件を思い出したのか両手を畳に叩きつけて言い放った。
「いいから来て!早く!」
「今何時だ?もうすぐ夜が明けるではないか」
「急いで!」
「うわっ!?」
着ていた夜具を引っ張られ無理矢理立たされる。そのまま連れてこられたのは隅の部屋。こんな時間に何だ。私の睡眠を邪魔しようなど誰が思おうか。苛立ちを隠しきれないまま思いっきり襖を開いた。 そしてそこに居たのは…予想もしなかった鬼だった。
「千景…?」
驚いた。私の姿を捉えた瞬間僅かに目を細めた。そんな気がした。いつか会った時のように薄暗い部屋の中で彼の白い肌は目を惹いた。に軽く目配せすると、そこから何かを察したようで、頭を下げて廊下の奥に消えていく。彼女の後姿が闇に紛れたのを確認し、部屋へと踏み入れた。
「こんな時間に何用だ。夜這いにしては、回りくどいな」
「戯言を。それにお前の眠りを邪魔して朝を迎えれられる鬼がいるとは思えんな」
「少なくとも心地よい夜明けではないだろうが。千景…試してみるか?」
売り言葉に買い言葉。さあどう出る?
とは言ったもののやはり答えは期待していない。大人しくその場に座り込むと同時に、彼の赤い瞳が私を捉えたのがわかる。
「フン。不知火を師と呼ぶとは貴様はどうかしている」
「それを言いに来たのか?」
問えば、甲高い金属音が届いた。
千景が彼の目の前に差し出しのは刀だった。風呂敷であろう濃く深い色の布が広げられ、その中央に存在感を示すそれ。見ればそれが何であるのか誰にでもわかるだろう。それほどの存在感。 何故彼が刀を差し出したのか。もちろん“彼の”愛刀ではない。恐らくどこからか調達したのであろう。そして、真新しい品ではないことは見てわかる。随分上等な、良い刀。
何だ?と言わんばかりに訝しげに千景を盗み見れば、楽しげに鼻で笑っていた。
「貴様の刀だ。まさか刀を持たずして里を出たとは。挙句の果て不知火などに頼むとは理解に苦しむ。戦場に手ぶらで現れ餌だけ食わす義理はない」
はて?
いつ私が“刀を里に忘れた”事を千景に言ったであろうか。それに、以前池田屋で会った時は、何だかんだ言って「まあいい」とか言っていたような気もするが。加えて今日は面倒極まりないくらいに、…機嫌が悪い。 怒られるようなことは思い当たらない。千景は無言のまま。まったく何だ。
このままでは埒が明かないと半ば諦め、置かれた鞘に触れる。見た目は質素。流行の絢爛豪華な装飾はほとんどない。重みを感じながらも柄に手を掛けた。 現れた刃の美しいこと。刀身に移り込む自らの姿。まるで鏡でもみているような錯覚すら覚える。手にしたそれを僅かに逸らせば、紅眼の鬼が此方を見ていた。
「良い品だ。これは?」
「貴様の刀と言っているだろう」
どうやら武器としてくれるらしい。前に不知火に頼んだのが無駄になってしまうだろうか。
「不知火の方は手を打った」
そこまで顔に出ていたのか彼の言葉は案ずるなと言う意味だろう。肺に溜まった息を盛大に吐き出した。「礼を言う」刀を用意しろと言っておきながら、何だかんだ言って用意しているとは。過保護か。
「其方も随分…いやいい。不知火には礼をした。其方にも…」
彼を更に逆撫でしそうな先ほどの単語。うっかり口を滑らせそうになったのを必死に飲み込む。 今は持ち合わせがないが刀の礼はしなければ。いや、どこかに金を仕舞っていたような。とは言ってみたものの直ぐには場所が思い出せない。部屋に戻って探してみるかと腰を上げようとした。
「千景?」
だが伸びてきた白い手がそれを許してはくれなかった。 彼の手は私の頬、あるいは顎のあたりに添えられ、少しばかり強い力で押さえられている。強引に。顔を上げられ視界一杯に整った顔が映る。想定外の動きだからか、素肌に纏う薄い肌襦袢が、肩から滑り落ちそうなのを感じたがどうにか一点で止まっている。夜具はもう腰辺りに落ちていた。
「。戦場での活躍に期待してやろう」
随分な要求。と言っても、元はそれが目的だ。為さねば里から出てきた意味は無いのだから。それこそが彼が求める刀の見返りということか。上出来。
「それなら釣りを用意して貰おうではないか」勿論、期待以上には働くつもりだ。
そう続けようとした。開く口を塞いだのは、男の唇。啄む様な口付け。釣りにしては貰いすぎたか、あるいは代が安すぎたのか。は考えることを止めた。
男が去り静けさを取り戻した寝室の布団の上にようやくは横たわる。 目も頭も冴えてしまった。しばらくは寝つけないであろう。障子越しに僅かな外の明りを感じながら。
千景からもたらされたのは“長州の武装上洛”の話。
と言っても、長州藩内で燻っていた“武力による京都制圧”論が、先の池田屋襲撃によって一気に炎上しただけで、特別焦るような事態ではなかった。元は攘夷浪士の過激派も京に潜んで武器弾薬の調達をしていたくらいだから。つまり、来たるべき時が来ただけ。その証拠に、池田屋襲撃の一報が届いた後、藩論は急激に“武装上洛”に傾いた。そして既に武装した兵は故郷を発ち、一部はもう京の町に布陣しているらしい。 この広く美しい京の町に息を殺し彼らは潜んでいる。恐らく、町を歩きながら時おり感じる殺気はそれなのだろう。
不知火が伝手を使ってどこまで武器を調達してくれる、あるいはしてくれていたかはわからないが、戦がいつ始まるかもわからない切迫した状況で、武器を持たないと言うのは流石に無謀過ぎた。 にしても、適当に距離を取っているらしいが長州に手を貸しているのだから上洛は知っていたはずだ。なのに、それに対する話は一切出てこなかった。先生め。
此処は城や禁裏からは少し離れているが、市中が戦となればどこに飛び火するかはわからない。表だってが出るだろうが、は雛はここあるいはもっと安全な場所にて待機させる必要があるのだ。準備は早い方がいい。それに…。 横たわりながら視線だけを上げれば、鞘の半分ほどを布に覆われたあの刀。本当に久しく振っていなかった。手だけを伸ばしそれを掴み取ると上半身だけを起こす。
人と鬼では“力”の差は歴然だが、念には念を入れて…。は起き上がると夜具を脱ぎ捨て、鞘から抜き出した白刃を振った。虚空を斬るような風音が部屋に木霊する。適度な重さで振りやすい。
明るくなった部屋の中、外が賑わうまで女は眠らなかった。
その牙毀れるまで、貴方と
20150919*星宮はちこ 裏語