いつか自由な蝶になる
【閑話、女の鬼喰ひ】
時は文久二年。
近づくほどに感じる気配の濃さに、女は笑った。
西国の鬼の、しかも各里の頭領級の会合が行われるという便りが来たのはいつ頃だったであろうか。記憶は曖昧だ。どんな返事をしたかも覚えていない。この件の予定管理はに丸投げしていたから、日程が近づいたことも知らせてくれた。むしろが知らせてくれていなかったらすっぽかしていただろう。それについては感謝しよう。
家の治める里は位置的に言えば、実は日ノ本の東側に属する。が、元々東国の鬼とも距離を置いてきた。京より北にあると言うだけで北の鬼と称して独自の里を築き上げてきたと言ってもいい。 先の鬼狩りによって東の鬼は全滅した。母と祖母はそれはそれは焦ったらしい。これから家を再興させようとしていた矢先に東の鬼がいなくなっては、に迎え入れるはずの鬼が、特に血筋の良い鬼がいなくなったこと意味していたからだ。家は外の鬼には知られていないが、古い鬼の血を守ってきた。その血を途切れさせるわけにはいかない。如何したものかと考え抜いた母は、西の鬼に手を広げた。女鬼を幾人か東の有力な鬼の家へと嫁がせ、着々と名を広めていたからか、西の鬼にもその名を聞いた者がいたらしい。
突然現れた北の里の、正確には東国の“家”に西の鬼は不信感を抱いた。それは当然の事だろう。私が西の鬼だったとしても疑う。今や日ノ本には西国に京…そして我が里、北の鬼しかいない。ちなみに京の鬼は元々東にも西にも属していない。昨今の鬼を取り巻く情勢を考えても西と北の鬼が手を組むのは仕方のないことだと考える。しかし不信感も拭えない我々の扱いは未だ、良くはない。
今回の会合は頭領級が揃う…ということは相当重要な内容だと思われる。会合に呼ばれただけマシだろうか。発言権はほとんど無いだろうが。
鬼の集落は人里離れた奥地にある。今回の会合地は須磨の国。そこは京よりも大坂よりも遠く、は住まう里を発ってから数日かけてやって来た。辿り着くまでに遠いと幾度も漏らしたが、供も付けずに一人で動いているの愚痴を聞く鬼はいない。須磨の地で行われるのも、西国の中では最も東側に譲歩したのだと教えられて渋々納得した経緯がある。
周りは自然豊かな山林が続く。が、そこには隠された境界が確かに存在する。鬼と人。交わることを望まない境が。分かる者にはわかるだろうが、人は恐らく気付かない。境界を過ぎれば自らも鬼の気配を存分に感じることができる。向こうもこちらが踏み入ったことに気付いただろう。しかし、他の鬼より感度の勝るにとっては境界を越える前から疾うに感じ取っていた。
古びた柵と朽ちかけの門が見えてくる。一礼し踏み込めば鬼に取り囲まれていた。
「女。ここはお前が踏み入って良い場ではない。命が惜しくば引き返せ。進むならば殺す」
目の前の幾分か風格のある男が口を開いた。手下と思しき鬼たちもそれぞれ武器を持っている。私から見ればこの男たちはまだまだ下っ端だろう。彼らに怯む理由もないがここは一つ戯れに乗ってやるべきか。いや、そこまでお人よしではない。 は淡々と、しかし礼儀を払いながら答える。
「これは失礼。我が名は。京より北の地で小さな里を治めている。この地で開かれる西国の鬼の会合に参加するために参った。書状もある。通して貰おう」
「北の鬼だァ?お前等知っているか?」
「いや知らん。と言う名も初めて聞いたぞ」
「京より向こうとなれば西国の管轄外ではないのか」
「そもそも女が頭領など収まるはずがない」
言ってくれる。男達の蔑むような高笑いに僅かに眉を顰めた。西国の鬼たちから見て到底、我らは部外者ではあるが、母の頃より便宜をはかってきたことも事実。末端まで知れ渡っているとは思えないが上の鬼ならば名前くらいは聞いたことがあろう。 いきなり現れ自らを鬼里の頭領だと名乗る女鬼に対して、彼らは何を思うのだろう。その答えはいつも同じ。彼らの目を見ればわかる。横暴かつ見下した態度と口調は変わらない。
「お前の言う通り、今日この地で我ら鬼にとって重要な会合が開かれる。自称頭領なのは結構だが、お前のような怪しい輩、一歩たりとも進ませはせん」
「書状は持っていると言ったはずだ。必要なら上に取り次げ」
「断る。話すだけ無駄だ無駄。それとも…一介の女鬼の分際で我らに盾突くか」
「そうだ。我らは風間一門に属する者。徒(ただ)では済まんぞ」
風間と言う名は知っている。西国の名家であり今回の会合の主催だ。まだ本家の鬼には会ったことすらない。その名を語ると言うことは相当の覚悟があるのだろうか。ただの虎の威を借る狐だろうか。この程度の下っ端を相手をするのも面倒になってきた。余裕を持って行動してきたが、そろそろ会合の時間も迫ってきている。僅かな苛立ちが表情に現れながらもは平然を装う。相手は四人。
「…悪いな。私は少し急いでいる。文句は上に言え」
全て仕留めたが勿論殺しはしていない。腹に一撃、少しの間眠っていてもらっただけ。警備を任せるくらいならもっと骨のある者に任せるべきだとも思う。正直期待外れだったのは言うまでもない。転がる鬼に目もくれず奥に聳える屋敷を目指した。
幾つか家を過ぎた先に、一際鬼の気を感じる屋敷を見つけた。ここだろう。 戸口に近づけば勝手に扉は開く。中にいたのは小姓と思しき使いの鬼か。は深く一礼する。
「と申します」
「…」
この鬼も私の名に覚えが無いのか、最初は訝しげな表情を見せていたが書状を見せれば会合の参加者であることは理解してもらえたらしい。途端に頭を下げられた。
「他の里の頭領はもうほとんど集まっております」
「遅かったか」
小さく告げられた事実に溜息が漏れる。遅刻気味に入室すれば印象は余り良くないだろう。廊下の奥から感じる凄まじい鬼の気に眩暈がした。しかしこの会合、名のある有力な鬼が集まるのだ。余所の鬼の情報収集にも自らの名を広めるにも好都合だろう。勿論、何事も無ければの話であるが。 案内された先の襖を一思いに開いた。広い座敷を囲う様に座った鬼の視線がご丁寧に全て向けられた。迫力ある様に一瞬驚いた。しかし怯んではいられないと、は微笑み、座り込むと同時に頭を下げた。
「京より北の地にある鬼里から参りました、家の当主に御座います」
揺らぐ気配と驚きの声、疑いの念を存分に感じながら顔を上げると、案の定、射殺すような鋭い視線がざっと送られる。場違いなのは重々承知だが気にしている暇もない。一通り座敷を見渡すと、年老の鬼から四十路あたりの鬼まで出席者は様々だ。女は勿論私一人しかいない。空いているのは一番奥の上座の位置の二席分と、最も下座の一席。どちらに座るべきかなんて考えるまでもないだろう。手前の席に腰を降ろせば、存在を訝しんでいるのか気にしているのか或いは見物にしているのか、各々の視線が横顔に注がれている。里を治めるほどの鬼。気配が強いのも納得がいく。自らの里では感じることのない強さの気配に肌と言う肌が反応し続ける。居心地は最悪だ。
その後すぐに上座に通じるであろうその奥側から新たな鬼の気配が現れたのを感じた。ご丁寧にこちらに向かってくるではないか。もう襖のすぐ向こう。気配を読んでいると、肌が感じる動きのままに上座側の襖が開く。 現れたのは男鬼。薄い金髪と赤い瞳。体つきはどちらかと言えば細いが鬼の気配は高貴で強い。後ろに続くのは体格の良い鬼。…お付きの鬼だろうか。どちらも目を引く姿だと思う。誰に案内されるわけでもなく、男たちは上座の席に腰を下ろした。あれが噂に聞いていた西の名門、風間本家の鬼だと頭が弾きだしたのは実に早かった。
「皆、遠い所良く集まった。西国の鬼を代表して礼を言う」
広い部屋をずらりと取り囲む頭領たちを見渡しながら一言。落ち着いた低い声。男の若さは並んだ頭領の中でも際立っていた。そして粛々と会合は始まる。静かな部屋に男の声は良く通り、隅に居る私の元にも難なく届いた。 最初の議題は西の鬼の直面している問題と各里の現状の確認。どこの里も生まれる鬼の数、とりわけ女鬼が少ないことを危惧していた。人と交わりが進み、鬼の血が薄れる問題も深刻だ。しかし女鬼がまったくいないと言うわけではない。前の方の、上座に近い長達は、風間家頭領に聞こえるように各里が抱える年頃の女鬼の名を次々に挙げていた。渦巻く政治的な思惑には失笑した。西の鬼を統べる風間本家の元へ自らの娘、あるいは里の女鬼を嫁入りさせれば鬼としての地位は安泰だろう。当の風間の鬼は淡々と受け流している。流石だ。ちなみに、周りの頭領たちは風間の鬼の事は既に知っているだろうが、私は亡き母の代わりに初めて会合に参加したし、男は名乗りもしなかったので、風間本家の鬼の名前は知らないままだ。里が抱える問題を話ながら…と言っても上座側がどんどん自らの里について論じているわけで、下座は大人しいまま…案外暇であった。ここで口を開けば冷ややかな目で見られるのだろうか。黙っているのが賢明だろうと、は聞き耳を立てるに留まった。
次の議題は、西国の薩摩藩が徳川幕府を倒す為に鬼に対し協力を仰いで来たというもの。鬼と人間。日ノ本において、人間の勢力争いが起これば間違いなく鬼も巻き込まれる。
「奴らは異人に腑抜けな徳川幕府を見切り、自らがこの国を主導する立場となる為、戦を起こそうとしている。そして我ら鬼に協力を仰いできた。全く人間とは愚かなものだ」
「しかし風間殿!我らが表立って動いては身を滅ぼしかねます」
「元来、人とは交わらぬが吉でありましょうぞ!」
里長たちの厳しい声が響く。鬼は未だ影の存在。表立って動けば、その力を利用され、ただの道具として使い捨てられるだけだ。一昔前、多くの鬼が戦いに駆り出され、駒として使われ死んでいったと聞いたことがある。
「我ら鬼は高貴な存在。人に傅く必要は無い。が、かつて鬼を滅ぼさんとしていた幕府の目から、薩摩の人間は我らを隠してくれた。先祖の恩義は返さねばならん」
皆が押し黙ったままだった。 鬼は一度した約束は必ず守る。受けた恩義も必ず返す。
「東の鬼は倒幕の誘いを断り人間に滅ぼされたと聞く。我らは試されているのだ。しかし、一族を危険に晒すわけにはいかん。前線には俺が出る」
「(他の鬼を危険に晒すより前線に自ら出ることは評価できるな。まだ名は知らないが)」
結局、鬼は薩摩藩が幕府を倒すまで人間に手を貸すことが告げられた。風間の鬼直々に前線に赴くと言う。白熱する議論は反風間を掲げる鬼の存在をどう牽制するかに移っていた。西の鬼を統べる存在ならば、その存在を疎み命を狙われることも少なくないのだ。 静かな…と言うより、風間家との関係性の薄さから殆ど発言権のない、ほぼ出席しているだけの下座側では暇を持て余していた。内容は確かに重要だが、結論さえ覚えておけば後は無意味だと感じたからだ。顔を覗かせて、今一度風間家の鬼を盗み見た。
「(なるほど、顔は整っている。私よりは年上だな)」
一瞬だけ、紅い瞳が此方を捉えたような気がする。
陽が暮れ始めた頃になってやっと話し合いも収束し、運ばれてきた料理と酒が揃ったところで宴が始まった。待ちに待った瞬間。正直、会合など顔見せに過ぎない。つまらなさすぎてうたた寝しかけたのは秘密だ。お目当ては豪華な料理と酒だった言うのもここだけの秘密。静かに両手を合わせた。
「(流石、里長級が集まる宴!料理も期待できる)…頂きます」
広い座敷の中で近隣に座る長同士の会話は政治的なやり取りと交流が半々だ。 ここぞとばかりに着飾った女鬼が後ろに付いて里長に酌をし時に話に相槌を打つ。上等な接待だが、女鬼の私にとっては無意味。私を見た女鬼の戸惑い様は面白いくらいだった。一杯、酒を注いでもらってから後は手酌で飲む旨を伝え、周りの長に付いて接待という仕事を全うするように言った。周りも女鬼を専有できる機会が増えて良いだろう。私も食事に専念できる。ちなみに、家格によって接待度合いも異なるようで、下座の我々周辺は数人に対し女鬼が一人だったが、上座の、風間家の鬼の周りには女鬼が四~五人も取り囲んでいた。当の男は満更でも無いようで、黙って差し出した杯に酒が並々と注がれると淡々と口を付けていた。政治的戦略はまだまだ続いているようで、長たちは風間を誉め讃え、女鬼達もここぞとばかりに自分たちを売り出していた。
「(滑稽だな)」
含み笑いに顔が歪む。接待度合いは料理にも影響しているようで上座側の豪華絢爛ぶりが多少羨ましく感じた。が、末席あるここでさえ里でも滅多に頂けないような品数だ。酒もさぞかし美味しいのだろうと、女鬼に注いで貰った最初の酒を一息に飲み干した。
「薄い」
最悪だ。酒は本来、樽の中で濃くなり過ぎた場合は良い塩梅になる様に水で味を加減されるが、これはわざと薄められているような味だ。むしろこんなもの酒ではない。というより味がほとんど感じないので、幾ら飲んでも酔えないだろう。最悪だ。料理の質は仕方がないにしても、これは私と酒に対する冒涜だ。 生まれた苛立ちを紛らわそうと周りを見渡せば、男の視線がチラチラと寄せられているではないか。気持ち悪い。見なかったことにしておこうと思った矢先、三つ隣の長が口を開いた。
「お前は北の地のと言ったな」
「そうだが」
男に興味なさ気に返しながら、肝心の頭の中は焼き物の事しか考えていない。 口に含めば、塩加減が絶妙。ふっくらした焼き上がりが堪らない。
「と言う名に覚えはないな。しかも女が頭領とは。里には女鬼が多いのか」
「かつて母がこの会合に参加していたはずだが。しかし、まだまだ西の国に名が広まっていないのも仕方がない。我が里も女は多くはないが…危惧するほど少なくもない」
自然と周りの視線が集まっていた。水味の酒を一口。やっぱり薄い。
隣の長が覗き込むように私を見てくる。何だ気持ちの悪い、と眉間に僅かに皺を寄せながら睨み返す。次は主菜を食べたいのに。不可解な彼らの興味は私の食欲を失わせるだけだ。
「いやァーしかし、中々の上玉じゃねぇーか。この時勢に名の無い鬼の頭領は辛かろう。女鬼は貴重だしな。鬼の血はそこそこ強いのか?何なら里ごと俺の里に迎えてやってもいいぞォ」
「お前にその気があるなら我が一族も名乗りを上げようぞ。俺の倅は中々の男だ」
彼らの思惑に吐き気がする。 折角美味い料理を食べているのだから出させないようにしてもらいたいところだ。ほぼ無表情、と言うか淡々と外界を遮断していた私が一瞬私を取り戻す。
「断る」と一言。下座側が瞬時凍りついたような気がした。が、そんなことは気にしない。
酒をもう一口飲んでも、やっぱりこの味には酔えない。周りの鬼達は若干酔いが回ったのか上機嫌に自慢話を語り出している。特に私に絡んできた頭領達は赤い顔を崩し、だらしのない目で私を値踏みしているようだった。素面の私にはどうも辛い。というより、あんなに薄い酒でよくも酔えたものだ。私だけ水味にされているのか。それはそれで腹が立つ。少しずつ身体を寄せられてもうすぐ隣に来た或る頭領は、乱暴に空の杯を差し出す。
「…酒だ。だんまりもいいけどよォ…女なら身体使って酌の一つくらいできんと一人前じゃあねぇなァ。小娘は我ら“男”にご奉仕せねば。ガハハ」
無言を貫き通す。が、この侮辱は酔っていても酔っていなくても、拳の一つ出しても文句は言えない。と言うより、酔って理性が保てていなかったら今頃大乱闘だ。腹立たしい。しかしこの状況で下手に手を出すのは良くない。自らの立場を不利にする。
「…」
本当の私が男を睨みつけた。
怖気付くかと思ったが向こうも鬼の頭領。一筋縄では行かない。
「なんだァその目は。女のクセに男一人満足に接待できんのか。使い物にならんな」
「(ここが会合の宴で無かったら殺す。間違いなく殺している)」
硬直状態。下手側の長たちも空気を察知したのかチラチラとこちらを窺っていた。 「糞餓鬼が」と捨て台詞を吐き、例の頭領は手酌で満たした酒を飲み干した。殺さずに済んだことを喜ぶべきだろうか。しかしこの男の顔は覚えておいてやろう。 酒とも言えない水を口に含む。
「(…?)」
ふと視線が前を捉えた。襖の向こうから新しい女鬼が入室したようだ。追加の酒を持ってきたのであろう。手にした盆には銚子がいくつか乗っている。女の登場について特に今更どうこう言うつもりもないが、その女の笑顔が気になって仕方がない。変な胸騒ぎともいうべきか。心が落ち着かない。どうしてだろう。私はその理由を知っているような気がする。 腰を下ろした女は他の女に溶け込んでいく。が、私にはその女だけがどうも浮かんで見えた。
「そこの女。初めて見る顔だな…何者だ。何故影のように振る舞う」
投げかけられた声はそう大きいものではなかったが、何故かはっきりと耳に届いた。周りで騒いでいた頭領達もいつの間にか口を閉ざしていた。彼らの視線が幾度目だろう自分に向けられているのに気付いたのはその後だ。それにこの低い声には聞き覚えがある。前に座っているあの鬼だ。
「…」
奥を覗けば彼の紅い瞳とその視線が存分に向けられているではないか。お付きの鬼の青い瞳だって同じ。時が止まったような感覚さえ覚える。先ほどまでの宴の世界は何処へ行ったのやら。
「女。丁度良い…酌をしろ」
「断る。隣の女鬼に頼め」
私は彼の横で接待をしている女鬼とはここにいる存在理由が異なる。頭領として呼ばれたからには敬意は払うが媚びるつもりはない。男に聞こえる様にはっきりと拒否を示すと、辺りの鬼から人一倍厳しい視線を受ける。全ての視線が私に。
「ほう…逆らうのか。初見の鬼だ名くらい聞いてやってもいいと思っていたが、俺の誘いを断るとは…覚悟はできているのだろうな」
つまり風間は私を殺すと言っているのだ。 鬼は争いを好まない。しかし統率には反乱分子を始末することも必要だ。接待の拒否が反乱扱いされてしまうとは腑に落ちないが、断れば間違いなくここであるいは里に帰ること叶わずに私の命はないだろう。死ぬわけにはいかない。里に残してきた鬼たちにも迷惑がかかる。 今一度男を見据える。風間の鬼は選べと言わんばかりの愉快気な表情。周りの鬼たちは視界に入らないが、緊張している様子が肌に伝わる。男と私の無言の空間なのに、私の感心は直ぐに男の隣の女鬼に注がれる。先ほどから気になっていた鬼だ。周りを囲う数人の女鬼と姿は変わらないのに、何故か胸騒ぎがする。その女鬼は風間に酌をしようとしているが男が手で制止していた。
「(私に注がせる気か、いいだろう)」
傍に行けば、あの女鬼をよく観察することができよう。何処かで会ったわけでもないし見覚えも無い。この変な胸騒ぎを解消させるためには、近付いて観察してみるのが一番だ。 そうと覚悟すれば行動は早い。末席から立ち上がると、外側の衣を引きずりながら上座へとゆっくり歩み寄る。並んだ頭領達の後ろを通るたびに彼らの緊張を帯びた眼差しが私を追う。一歩一歩、確かに近づいた。男の隣まで来ると腰を下ろすと、細められた紅い瞳が構えている。まあ、今の私にはどうだっていい。その向こうの女鬼だ。彼女は私をジッと見つめている。特段変わった様子は見受けられない。あの胸騒ぎは…気のせい?
「注げ」
「(風間の鬼はさぞ良い酒でも飲んでいるのだろう。少なくとも私の水味とは違って)」
今は大人しくしておこう。宴会は騒ぐのもいいが静かに飲む方が性に合っている。例の女鬼に一言断りを入れると、彼女の手から銚子を借り男の杯に注いだ。清明な水面が揺らめき、映り込んだ行燈の明りも揺らぐ。女鬼は「追加の酒をお持ちします」と告げると立ち上がった。 ふと…自然に銚子に顔を近づけていた。そこから直接味見してやろうとか、飲んでやろうとかは思っていない。ただ、酒の匂いもしないほど薄まった私の水酒と比べてどれほど良い香りがするのだろうと気になっただけだ。鼻腔をくすぐる甘い酒の香り。その奥に潜んだ僅かな違和感。
私はそれが何かを覚えていた。
「飲むな!」
咄嗟に体が動いていた。制止と共に手で男の杯を払う。 彼の手から離れた杯は音を立てて畳を転がり、酒は彼の着物を汚した。座敷の空間が凍りつく。誰も動かず息をするのも躊躇うほどだろう。風間の鮮血色の瞳が怒りを示し私を捉えていた。お付きの鬼は片膝を立てていつでも臨戦態勢。だが戦う相手は私ではない。
「毒入りだ。飲めば死ぬ」
猜疑心を宿した深紅の瞳が一層細められる。私が嗅ぎ取ったのは確かな毒の匂い。人はもちろん、鬼でも気付かないような微量の、しかし確かに殺害することが出来る猛毒。余所の鬼より、は五感の感覚が優れていた。そして嗅いだことのある毒の匂いに体が反応したのだ。
「其方が持ってきた酒だな」
「いえっ…私は酒を運ぶだけ。毒など入れれるはずがありません!」
襖に手を掛けようとしていたのはあの女鬼。が入室から気になっていた存在。私はその鬼のことは知らないが彼女の表情に覚えがあったのだ。覚悟を決めた女という顔に。
「俺を殺そうとは浅はかなものだ。丁度良い。そこの女、毒が無いと言うのならお前が飲め」
「風間様の食事に手を付けるなど私には!」
「構わん。飲め。それによってどちらの女を始末するかがかかっている」
命を救ってやったのに私も始末対象なのが驚きだ。普通、礼くらい言うものだろう。 襖に手を掛けていた女鬼が静かに向き合う。その瞳はもう、夜叉のそれ。女鬼の多い里に身を置いているからわかる。それに私自身が女ということもあるだろう。鬼を狂わせる怒りの念は、同性から見ても何とも恐ろしい。
「私は…飲めません。だって鬼ですら一溜りも無い猛毒ですもの。風間家頭領…風間千景。我は風間に一族を殺された家の生き残り。今宵その命、頂戴する!」
隠していた小刀を抜くと、一目散に男に間合いを詰める。が、少し距離が遠い。青目の鬼が立ち上がろうとしている。体格差はもちろんだが戦闘経験も異なるこの勝負の結果は始まる前から明らかだ。下座に続く頭領達の顔は、驚きに続き緊迫を見せていた。一斉に、こちらを向いて。他の女鬼たちは悲鳴を上げて我先にと顔を覆い逃げようとしている。 さっきも言ったが、どちらかと言えば私は静かに酒を飲むのが好きだ。この混乱極まる状況は、一言でいえば不快。立ち上がりながら、引きずるほど長く重く邪魔な外の衣を脱ぐと女に投げかけて視界を奪った。
─ドンッ
「悪いが静かにしてくれ。今は少し虫の居所が悪い」
襖を突き破った向こうの柱には衣で覆われた女の亡骸。身動きも痙攣さえも許さないまま。心臓の位置にはの鉄扇が深々と刺さっていた。噴出した血が覆う着物の柄を赤黒く染めるが壁は血しぶきもなく綺麗なまま。 真の力を出す為に鬼の姿に戻ったの額には左右対なる二本と、真ん中に一本、計三つの角が生えている。長い降ろし髪は銀色に輝き、薄い色だった瞳は深い金色。
「女…お前は純血だな」
姿勢一つ変えずに優雅に座ったままのかの鬼が私を見上げている。 鬼の姿に戻れば鬼の気の強さも分かるのだろうか。言い当てられた通り私は間違いなく純血の鬼。 男の向こうで同じく立ち上がったままの青い瞳と目が合った。何だか気まずい。
「ああ、そうだが」
「名を聞いてやる」
「だ」
男が私の名を静かに繰り返した。この男なら母とは面識があるだろうか。
「以前と名乗る女鬼に会った」
「私の母だな」
「とりあえず座れ」
言われるがまま男の隣に腰を下ろした。お付きの鬼も戦闘態勢から脱して腰を下ろす。座敷の静寂は変わらず、皆の意識が前いる私達に向けられていた。
「あの女はどうした」
「母は、私の代わりに毒を飲んで死んだ。さっきと同じ鴆毒(ちんどく)だった」
「犬並みに鼻は利くようだな」
「私は鬼だ。犬扱いするな。余所の鬼より感覚が鋭いだけに過ぎない」
「フン。続きだ…酒を」
さっきの女鬼が持ってきた数本の銚子に鼻を近づけて嗅ぐと、どれも甘い酒の香りの中に澱みが感じられた。つまり全部毒入り。
「其方、相当恨まれているな。全部外れだ」
「下賤だ。同胞とも呼べぬ愚かな。おい、早くアレを処理しろ」
遠くで固まったままの女鬼達に追加の酒を持ってくるよう頼んだ。風間は遺体の後始末を配下の鬼に命じていた。そそくさと片付けが始まる。暫く血の匂いが消えないだろうか。柱と女の間に押し付けられていた襖は歪み大きな血の染みが広がっていた。もう使えないだろう。向こうの柱には僅かな血と鉄扇が刺さった跡。
「上等な襖一枚と柱の染みと傷は、私の一張羅と特注鉄扇に加え、其方の命を救ったことで差引無しだ。請求するな。ああ、そうだ。直ぐに酒が欲しいなら私のを注いでやるぞ」
「要らん。あのような水では酔えるはずもない」
「気付いているなら改善しろ。そう言う所が見えぬ恨みを買うかもしれんぞ」
女が運び込んだ新たな銚子を貰い、一嗅ぎ。甘い酒の香りが鼻腔を満たす。これは大丈夫と確信してから並々と男の杯に注いでやった。風間は静かに口を付ける。
「疑いもせず飲むのだな。私があの女鬼の仲間かも知れんのに」
「貴様があの鬼の仲間なら、妨害などせずに堂々と飲ましていただろう。まさかそこまでお前が愚かだとは踏んでいない」
「一応褒められているのか」
褒めているのか馬鹿にしているのか。まあ、どっちでもいい。
「念の為だ。料理も毒見しろ」
「鬼喰いか。まあ…良いだろう」
箸を取り一品一品、綺麗に盛られた料理を口に運ぶ。 毒の類が盛られていたら口に含むまでに気付くだろう。は全て咀嚼し飲み込んでうんうんと頷きながら、次の料理へと箸を伸ばす。普通に美味しい。
「こっちにも毒が入っているかもしれんな。うん流石だ」
「普通に食べているように見えるが」
「そんなことはない。立派な毒見だ。あ、天麩羅美味しい」
うっかり零れた本音。無かったことにしておこう。呆れた表情を見せながらも私が彼の料理を平らげていくことお咎めはないようだ。いつの間にか空になった皿もあったりする。毒見の配分を間違えたか。彼のお付きの鬼も、普通に食事を進める私に軽くため息をついたようだが、どうこう口を出すつもりはないらしい。
「向こうの食事も平らげているようだが、どれほど食う気だ」
「あ、ああ。“よく食べてよく寝てよく遊ぶ”は私の座右の銘だ。日々の食事が私の体を保つ、何れ子を生す時も丈夫な体は必要だからな」
男が飲み干した杯を差し出される。自然な動作で、はそれを新たな酒で満たした。相手に気を配り酌をする癖は子供のころから身に沁みついてしまっているらしい。癖はそうそう変えられない。
「純血の女鬼と言っていたが、嫁ぐ相手は決まっているのか」
「残念だが里には女が多いからな。彼女達の婚姻を考える方が先だ。それに…」
政治的戦略か。風間が切り出した婚姻の話に私が乗っかってきたのを見て、座敷を囲う頭領達が身を乗り出して聞き耳を立てている。そんなに気になることだろうか。野生のような荒々しい眼差しが向けられている。
「残念だが、私は強い鬼との子しか産まん。少なくとも私より強い鬼のな」
歳も家格も違う里の頭領達が、口を開き間抜けな顔で迎えてくれた。ああ滑稽だ。今日一番に面白いかもしれない。そして馬鹿らしい。残念だが彼らの名前一切知らない。別に知ったところでどうもないが。 私は純血の女鬼。次の世を生きる強い鬼の子を産める存在。強い男鬼と結ばれるのは当然のことだ。そして…私の胎は男も女関係なく、いや危惧されている女鬼を、多く孕めるだろう。一族に入れば少なからず滅亡からは逃れられるわけだ。
「フフフ…ハハハ!。実に小気味良い。今日の俺は実に機嫌が良い。特別だ、俺が酌をしてやる。ありがたく飲むが良い」
「ん?そうか。ならお言葉に甘えて」
手にした杯に並々と酒を注がれる。ちょっと豪快。待ち望んだ極上の味に、喉は熱を帯び、頬も幾分か綻んだ気がする。風間から直々に酌をされるとは思ってもいなかった。むしろさっきまで存在すら知らなかったくらいなのに。
「あ、そうだ。其方、風間本家の鬼だろう。名は?」
「この会合に出席していて名を知らんとは。餌に毒を仕込まれても文句は言わせぬぞ」
「さっきまで下賤だ何だ言っていたクセに。それに其方とは今日が初見ではないか」
「風間家頭領、風間千景。忘れずに覚えておけ」
「千景か。良い名だ」
“千”字を名乗れるとは流石西の名家。それはもちろん純血を意味する。 男がお付きの鬼に目配せすると、正しい所作で一礼し名乗ってくれた。
「私は風間に仕える、天霧九寿と申します」
「北の小さな里を治めると申します。以後お見知りおきを」
それから鬼の集まりでは千景の隣が私の指定席になった。
千景自身が命令したわけではないと思う。それに私が望んだわけでもない。ただ案内されるままに彼の隣に腰を下ろす。毒見と称して彼の料理と酒に手を出すこともしばしば。
風間千景が本格的に薩摩藩に顔を出すようになって会合に参加できなくなる事が続くまで、集まりの内容は適当に聞き流していた気がする。顔を合わせなくなってやっと、余所の鬼に風間の所在を聞き、私は先祖の恩返しに精を出す男鬼の存在を追いだした。
そして不在の間の里の体制を整え、「私も千景の手助けをする」という手紙を一方的に送り付けて、京に向けて出発したのだ。
鬼食いとは毒見のことです。
20150422*星宮はちこ 裏語