そして鬼はいなくなった
 【伍、指切りげんまん、嘘ついたら針千本】


「貴女はそれでよろしいのですか?」

この部屋にはもう一人鬼がいることをすっかり忘れていた。天霧九寿。風間に仕える男鬼で菊月の旦那となる鬼。風間よりも年上の……彼の方が話は通じるだろう。

「頭領には、まんまとしてやられた。あの男は策士だな。 愚かな鬼の元へ嫁がずに済んだと言うのは唯一の救いだ」
「風間家は頭領の風間千景との婚姻を歓迎致します。勿論この私も。しかし今一度お聞かせ下さい。貴女はこれで良かったのですか?」

正直聞き飽きた。今更どうこう言っても事実は変わらないのだ。変えられるものなら変えてみたい。でもどうにもならない。鬼は一度交わした約束は必ず守る。女に二言は無い。私はあの男の元へ嫁ぐ。

「今更だ。どう足掻こうと変わりはせん。其方なら何とか出来るとでも?」
「……」

無言の鬼に、何故だろう私は笑った。自嘲の意味も込めて。

「案ずるな。其方が散々頭を抱えた存在だ。多方面から色々聞いているぞ。主人の御守が無くなって喜ぶべきだろう。それに今は他に考えることがある……違うか?」
「全く。千姫もお怒りになる理由がわかりました。貴女は優しすぎる」

「優しい? 愚かの間違いではないのか。どちらにしろ、里の鬼と我が妹弟がこの身一つで守られるのなら安いものさ。何れ私も婿を貰うか嫁入りするかの問題は存在していた。血筋も良く賢い鬼の元へ嫁げて、私はまだ幸せ者だ」

私は幸せ者だ。そう思うことにした。呆れた様子の天霧殿を尻目に、はこの話題を頭から追いやった。


「其方とは一度じっくり話し合いをしてみたい。頭領殿の扱いでも教えてくれ。今日は折角暇を貰ったんだ……自由に過ごせ。目当ての鬼は近くにいるだろう」


男の返事を聞くことなく、も足を動かし部屋を出る。行くところも無い。部屋に帰ると、文机の上に置かれた里からの手紙が目に入った。ああ忘れていた。返事を書かねばならない。今日の会合で決まったことを里に伝えなければならないのだ。今はしばらく字を書き起こす気にはなれないと、文を卓上に広げたまま里から持ってきた書物を読むことにした。全てを忘れ去り読み物の世界に入り浸る。こういう日もあっていいじゃないか。蝋燭に火を灯すまで私はそれを手放さなかった。



薄暗い部屋の中で女の唸り声が零れた。ようやく書き起こしたは良いが、どう書けばよいものかと頭を抱えること半刻ばかり。最初に書き始めた文も早々に書き損じた。勿体無いとそのまま下書き用とし、文章を進めるが……言葉が続かない。北の里が自治を認められた事は早々に書いた。しかし自身が嫁ぐことを書くべきか書かないべきか迷っていた。風間家に入ってしまえば北の里の自治には口出し出来ない。つまりは自分の代わりに里を治める者を指名しなければならない。となれば、自らが里を抜けることを書かねばならない。その繰り返し。
問題がある。大きな問題だ。今回の嫁入りは私が自分で勝手に決めた。 誰からの意見も聞いていない。特にあの状況で里からの意見なんて聞いてる暇などない。 相手は西国の名家風間家だ。皮肉にもこの婚姻に家や血の問題は存在しない。意思さえ関係なければ、互いにとって利点しかなかった。さてどうしたものか……と乾かぬ前に筆を墨に浸す。里の話を書き連ね、最後の最後に一言“嫁に行く”旨を後付けした。詳しいことは返事が来てから考えよう。自分が居なくなった後の里の統括を誰に任せるか、妹達にはきっとまだ早い。弟も同じだ。形式的に彼らが継ぐにしても段階は踏まねばならない。ああ、やはり行動は早々に起こすべきだろうか。には色々協力をしてもらわねば。下書きの紙の適当な場所にそれらを書いておく。ちなみに清書は未だしてない。

店の者が夕餉を届けてくれたが手を付ける暇はなかった。あと四半刻……と思う度に後回し。構成を考え、清書に取り掛かったのはどれくらい後だろう。墨で黒く塗りつぶされたと言っても過言ではない下書きの紙を見ながら、丁寧に文字を写す。結びの言葉を書き終わる頃には灯篭の火が小さくなっていた。そこで確かに筆を置いた記憶がある……がそれからはない。
身体が揺れるように動いた。

「……うっ」

どうも肩の辺りが重い気がする。身体を起こせば布団の上ではなく、手紙を清書した文机に突っ伏していたようだ。首を回すと鈍い音が響く……寝起きは最悪だ。町が息づくには少し早い時間のようで、障子は薄明るいが朝鳴き鳥の声も聞こえてはこない。
墨が乾いた紙を折り畳む。と、隅に乾いた水の跡。上から零れた一滴。考えたくもないがこの染みを見れば何か別の物と勘違いされそうだ。破かぬように、しかし出来る限りの力を以って擦りあげ、擦れ皺のように見せかける。……一体何がしたいのかと、自嘲した。



日が昇り、町が活気を取り戻す。 店の者が朝餉を届けてくれたが、昨日の食事にも手を付けぬまま眠ってしまった。冷めた料理が綺麗に残っている。飯を粗末にするわけにはいかないと、それを朝餉にした。 気を利かした料理人は温かい汁を届けてくれた。明けの四つを過ぎた頃、の国にある人里に住まう鬼への文を飛脚に渡した。彼らは人と共に生きる。が、我らが完全に人と縁切りをするまではこれまで通り、私のような外に出た鬼、 或いは人と里とを結ぶ役割を負ってくれているのだ。里に文が届くには数日かかるだろう。

「ちょっといいか?」

僅かに開く襖の間から不知火が顔を覗かせた。彼が姿を見せた……と言うことは、彼女と面と向かって女同士の話をするのだろう。案の定、彼は私を連れ出した。店の奥にある離れの部屋。入室すれば彼女は既にそこに居た。今は姫と一介の女鬼。深く一礼して姫と向かい合う。不知火は部屋には入らないらしい。が、ここを離れるわけでも無いようで、 部屋の外には男鬼の気配が留まったままなのを感じた。


「昨日は御免なさい。取り乱してしまったわ」
「姫。私の我儘に付き合っていただきお礼申し上げる」

「いいわよ。今は女同士、気兼ねなく……話したいから」
「お気遣い頂きありがたい」


そうして私たちは素に戻るのだ。形式上のこの関係も……何だか可笑しいものだ。

「で、何であんな理不尽で利も何もない要求を受け入れたの」
「まんまと乗せられたな。だが、後悔はない」
「……嘘付き」

零れたのは彼女の本音だろうか。昨日は感情的な音だったが幾分か和らいだような気もしなくもない。言の葉の痛みは……変わらないが。

「やっぱり受け入れられないって言っちゃいなさいよ。私も力を貸すわ」
「それこそ里がどうなることやら。大丈夫。女に二言はない」

襖が開いた。丁寧さに欠けた動作に、視線が釘付けになったのは言うまでもない。いつもならそこにいるのは、千姫のお付きの鬼である菊月だろう。だが今日は違う。色黒の……逞しい筋肉と長髪。つまりは不知火である。ちょっと凝視してしまったではないか。彼の手には盆が握られ、茶器がそのまま乗っていた。私と姫の間に盆を置くと、大雑把に茶瓶から注ぎ始める。

「匡。外で待っててって言ったわよ」
「女同士の乱闘なんざ御免だからよ。他言はしねぇし、特別口も出さねぇから安心しろ」
「私も構わん」

そうして彼も部屋に留まることになった。まあ、外と中の違いだ。何を話そうと彼は聞いているだろう。


「何れ……私にも婚姻の問題が起こっていた。かの鬼は有能で血脈も良い。皮肉だが何も問題はない」
の気持ちはどうなるのよ。貴女が一番大切にしてたことよ」
「それはもう良い。これだけ生きてきてどの男にも惹かれもせなんだ。誰だろうと変わらん」
「そんなこと無いわ。今は未だ出会えていないだけよ」

「このような婚姻は……私で最後だ。だから許してくれ」


私の言葉に姫が目を細めた。僅かだが彼女の顔には泣いた痕跡がある。きっと昨日の晩は人知れず泣いていたのだろう。その隣には……この男鬼がいたのだろうか。不知火にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。婚姻は、個人同士の感情だけで決められるものではない。そんなことはわかっている。家や村、或いは町規模の連帯責任の社会では、一族の婚姻は一大事である。だからこそ“家”や“血”が重んじられるのだ。

「いっそ、行儀作法の成ってない女演じて、“三行半”早々に受け取ってやるってのもありね」
「それはそれで里に迷惑がかかる。故に却下だ」
「口……挟んでもいいか」
「何?」

胡坐を掻いたまま男は気怠そうに口を開く。

「俺が言うのもアレだけどよ……風間はこれでもかってくらい自分勝手で傲慢な野郎だ。けど、アイツにだって真面な部分くらいあるんじゃねーの。仮にも里背負った頭領だぜ」

不知火の言葉に千姫がそれは何処かと問いただす。しかし肝心の答えは男の口からは出てこなかった。唸り声を上げてどうにか絞り出しているようだが、思いつかないらしい。人も鬼も、秀でる才の一つや二つあるだろう。彼が言った通り、風間は一つの里を治める頭領。光るものが無ければ誰もついて行きはしない。それは自身も身に染みてわかっていた。一息付こうと不知火が淹れた茶を一口頂く。

「苦っ!?」

思わず言葉に出てしまった。今まで飲んだ茶の中でも……最低の味。よくよく匂ってみると、香りも何だかおかしい気がする。

「匡。……これ何茶?」
「適当なの幾つかぶっこんだ」

姫の扇子が不知火に振り下ろされるのを視界の隅で捉えながら、口いっぱいに広がる苦味に耐える。ちなみに不知火は扇子を器用に避けていた。流石だ。後々判明したことだが、不知火が混ぜた茶葉の中に、生薬としても使われる薬草が入っていたらしい。身体には問題ないとのことなので一応安心した。私の口も治まったところで改めて話し合い再開だ。

「私は後悔はせん。だから心配は無用だ」
がそう言うなら……もう口出しはしない。でも恋路の相談も……離縁の相談も受け付けるから」

千姫にそう言われると心強いものだ。風間家に嫁いでもきっと周りは見知らぬ鬼ばかり。仮にも頭領の妻ではあろうが、風当たりは良いとは言い切れない。不安や悩みを相談できる相手がいてくれるだけで幾分か気持ちは楽になる。そして一つだけ……彼女に確かめておきたかったことがある。

「千。私が風間に嫁いでも……」
「私達は変わらないわ」

最後まで告げないまま千姫は答えた。私が風間に嫁ごうがどうしようが、私達は今までもこれからも“友人”なのだ。その言葉を聞いて……安堵した。

「ありがとう」

部屋に戻った後はずっと考え事ばかり。勿論里の事についてだ。長の後任は誰にするかや家督は誰に譲るか。里の決まりも変える必要があるだろう。そしてこれらを私が風間に嫁ぐまでに、私が長である内に決めて、遂行させる必要がある。
適当な紙を広げ懸念事項を箇条に書いていく。先の手紙の下書きに書き残した事項も参考に。 時に書き損じ、時に書き足した紙は一見何が書かれているのかわからないくらいに黒く染まっていた。



振り向けば千姫が顔を覗かせている。昼に話し合ってからそう時間は経っていないはずだ。千姫の手には何やら包みが見受けられる。聞けばまた供もつけずに京の町を散策したらしい。その際に幾つか甘味を土産に買ってきたとのこと。時はもう明けの八つを過ぎた頃。千姫曰く、こんな部屋に籠っていては気分も晴れなくなるらしい。それはその通りだ。次は店の者に淹れてもらった茶。それと菓子を並べ、ひと時の休息を楽しんだ。

「さっき言い忘れてたけどね、私…の味方だから。貴女を泣かしたら風間を許さないわ」
「私は千の味方だ。不知火が其方を泣かせることはないだろうが……な」

「ねえ、約束の証。指切りしましょ。絶対に幸せになるって」

二人で小指を結び合う。


「「指切りげんまん、嘘ついたら針千本、飲ましましょう」」



千、其方は既に幸せ者だ。私はそう信じている。


本当は鏡を使って金打にするべきでした。指切りのがわかりやすいですが。
20150607*星宮はちこ   裏語