そして鬼はいなくなった
 【捌、引いて駄目なら押してみる】


あれから、私は外に出るのを止めた。
必要なものは店の者に頼んで買ってきてもらうようにした。外を出歩くことは皆無。部屋に籠って書物を読んだり、空を眺めたり、毎日を特に意味なく過ごす様になった。理由は簡単。風間千景が会いに来た時、私が居なかったら周りの人に迷惑がかかることが判明したからだ。先の買い物と雛の件で私は外出をしていた。店の者に聞けばその後、角屋を訪れた風間は私の不在を知り、機嫌を損ねて色々と難癖を付けたらしい。戻った時に感じた店の混乱も今思えばそれだったのだろう。今は角屋(千姫)に身を置いて貰っているのに、あの男関連で他者に迷惑をかけたくはない。あの男がいつここに現れるのかはわからない。が、もし訪ねてきた時に私が居ないという状態は無くすべきなのだろう。だから私は部屋に籠ることにした。いつ男が現れても対応できるように。しかし一言暇である。することも限られている。ぼーっと空を見ながら、今日も一日を過ごした。



ある日廊下を歩いていると禿だろうか、庭先に可愛らしい少女が居るのが見えた。 熱心に何かをしているのが見て取れる。今頃、姉達は稽古に励んでいるだろう。禿の少女もまた同じ。稽古を積んで一人前になるのが仕事だ。稽古を抜け出ているのがバレれば怒られる。は少女の元に歩み寄った。

「其方、何をしている?」

いきなり叱りつける趣味は無い。何か頼みごとをされてそれを全うしているかも知れない。とりあえず何をしているのか確認することが第一だ。


「!?」

可愛らしい少女の驚いた表情が私を迎えてくれた。先の雛のものにも似ているなとふと考えていると、少女の手元に視線を注いだ。

「(人形……)」

禿の腕の中には日本人形が握られているではないか。しかも布や紙で手作りされるようなものでない、一目見ただけでもわかるどこかの店で買ったような上等なもの。どうやらその人形で遊んでいるらしい。腰を下ろすと、大切に人形を抱え直す少女の目線で話かける。

「その子の名は?」
「お市」
「そうか。お市と申すのか。私はな……だ」
「うちは小松」

小松と名乗った禿の少女は、お市という日本人形について語ってくれた。設定は色々あるらしく、一度語り出せば止まらないほど。相槌を打ちながら少女の語りに耳を傾ける。彼女は人形を連れて庭を散歩していたらしい。

「あー! おったおった! 小松! あんたこんな所で何しとんの」
「市松姐さん」

小松が話を続けていると後ろから呼び声が掛かった。どうやら姐さんに見つかったらしい。衣の擦れる音と共に、髪をピシッと結い上げた女が姿を現す。彼女が小松の姐だろう。

「今から踊り稽古始まる言うとんのに。あんたはまた、お客さんにもろた人形連れ出して。壊したらどないすんの。人形は早う片して稽古部屋に行きなはれ」
「姐さんすんません。でも、飾っとくだけ見とくだけはこの子も可哀想や。遊んであげな」
「人形は飾り立てて観てもらって何ぼや。それはうちらも一緒。綺麗に飾り立てて、お客さんの前で踊って唄って楽しませてお代落として貰って生活しとる。さ、行くで。……あらはんやないの。これは見苦しいとこお見せしまして、ほな」

市松はに一礼すると小松の手を取り、廊下をずんずん進んでいく。自然とその姿を目で追っていた。奥の暗がりに消えていく少女と人形。ここの女たちと人形は変わりのないモノなのか。

“飾っとくだけ見とくだけはこの子も可哀想”
“人形は飾り立てて観てもらって何ぼ”

なるほど。贖っても変えられぬものではあるが、二人の真理を突いた言葉たちには心を震わした。



引き籠り生活も最初は日にちを数えてはいたが、数日もすれば感覚が無くなってくる。人伝いに貸本屋で本を借りれば、店先まで届けてくれる。本を読み漁ればいくらだって退屈しのぎにはなった。店の者と挨拶程度に会話を交わして、食事を取り一日が終わる。時おり風間が訪ねてくることがあるが、姿を見に来るのが大半で、何をするわけでもなく帰っていく。面倒を起こされるより、また特別相手をしなくてもよいので、気にもせずに本を読み進めることができた。
里に送った手紙の件については、渋々ではあるが、側も事を起こさずに止まった。 千姫と二人、急いで手紙を認め雛に託しただけある。 その後里から送られてきた手紙には、勝手に婚姻を結んだ私へのの愚痴が半分と、里の体制の話が半分ずつ記されるようになった。前の半分は読み飛ばし、後半の部分について返事を認める。が、返ってくるのは先の手紙と同じく半分はの愚痴だったりする。余りにこの話題について触れないでいると、愚痴部分が長くなるので二回に一回はその部分に触れて返事をする。我ながら学んだ。


。今いいかしら」


襖の向こうから姫の声がする。今はいつだろうかと外の明りを確認するが、本に熱中していた余り昼過ぎであること以外読み取れはしない。入室を促せば顔を見るのはいつ振りだろうか、衣を変えた千の姿。

「最近どうしたの? 外……出てないみたいだけど。こんな部屋に閉じこもっていたら気分も滅入るわ」
「いやしかし、読み物は面白い」

文机の上に置きっぱなしの貸本を見る。当たりはずれもあるがこの本はなかなか面白いと思う。

「まあ貴女がそれでいいなら何も言わないけど。たまには気分転換も悪くないわよ」
「お気遣いに感謝しよう。しかしその姿……見違えるな」
「うふふ。そう?」

いつもとは打って変わり、柄の映えた単衣を纏う姫。如何したのかと尋ねればなんと、不知火殿が贈ったらしい。袖を広げ一通り見せてくれた。愛らしい姫の人柄に相まってとても似合っている。それをそのまま告げれば照れながら礼を言われた。 しかしまあ、不知火殿も何だかんだ言いながら姫に物を贈る趣味があるのだと、失礼ながら考えてしまう。あの見た目からすればすこし考えられないなあと、やっぱり失礼ながら思った。

「それでね。昨日風間がここに来たのだけど……、貴女と夕餉を共にしたいから用意するよう言ってきたの」
「ほう」

ちなみに昨日婿殿はこの部屋には来ていない。となれば姫の所に直接赴きそのまま帰ったのだろうか。珍しいこともあるものだ。

「まあ、私は変わらず突っぱねたんだけど。叶わないならを連れ帰るって聞かないの」
「それで」
「一回ぐらいなら仕方がないかってその場は流しておいたんだけど」

つまりはあれだ。あの男が駄々を捏ねるから仕方がなしに適当に返事をしておいたが、意外と男はノリノリでそれを肯定と捉えたらしい。まあ、あの思考の持ち主だ。無理もない。

「一回くらいは様子見ってことで、不本意かも知れないけれど相手してあげてくれないかしら」
「構わん。店の者には迷惑をかけたな。申し訳ない旨伝えてくれ」

きっといつも通り、難癖を付けてきたのであろう。一晩宴に付き合ってやるくらいどうってことはないと姫に伝えた。

「流石! ありがとう。大丈夫よこっちも色々注文を出しておいたから」
「注文?」

聞き返せば色々と教えてくれた。何でもこの部屋での食事は禁止。一応、置屋の客として一般の座敷を使用し代を払って飲食をするなら認めると言った所、 風間は二つ返事で了承したらしい。さてはてどこから突っ込めばよいのやら。


「(中々商売上手だな)」


うっかり感心してしまったくらいだ。私の了承を得て、風間との会食は明日の夜に決まった。と言っても盛大に宴を催すわけではない。いつもの食事を座敷で二人取るに過ぎない。酌でもしてあの男を満足させれば問題ない。きっと、嫁いだらその仕事が永延待ち構えているのだろうが。此処は島原。近くの座敷では男達が芸妓に舞妓を囲い同じことをしているのだ。少し、面白い事を思いついた。

「姫、良いか?」
「何?」

そこで私は千にある提案をした。最初は両目を見開いたものの、直ぐに愉しいことを思い立ったようで了承してくれた。まあ最後の戯れ……と言うかお遊びくらいにはなるのではないだろうか。最終的には何故か瞳を之でもかというほど輝かせた姫の姿。意気揚々と用意はこちらに任せる様にと言われ、千はニコニコと笑顔のまま部屋を去る。明日の夜は一仕事入ったなと思いながらも、再びは机の上にある書物に手を伸ばした。



翌日の夕方。
は千姫の部屋に来ていた。夕方より夜の会食の準備をすると予め言われていたのだが、部屋に入ってまず驚く。そこには千姫と菊月が二人並んで待ち構えているではないか。私を捉えた瞬間、菊月に目で合図する。菊月も何やら頷いている。

「!?」

私の手を取った姫は軽く引き寄せて部屋の中央に座らせた。すかさず手が私の帯に添えられる。


「ちょっと待て待て。いきなり過ぎんか!?」
「あらやだ。夜まで時間が無いわよ。それまでに化粧と着替えと髪結いを終えなきゃ」
様。準備を急ぎましょう。姫様。着物はこちら、飾りはこちらが!」
「良いじゃない。さあ、大人しくしててね」


有無を言わせず、帯を解かれて衣が剥がされた。身ぐるみを剥がされるってこのことだろう。着ていた物は全て無くなり新たな肌襦袢を纏う。しかも長くて紅いやつ。そこで姫は手にした白粉を筆に乗せ私の肌に伸ばした。冷たい感覚に肌が震える。が、そんなことはお構いなしに白地は塗り広げられていく。前が終われば次は項だ。綺麗に角を作る。体を塗り終わると、すかさずに衣を持った菊月が前に立ち、着物を広げる。 仕方がなしには袖を通した。瞬く間に帯が結われていく。着物が終われば次は髪。こればかりは髪結いが呼ばれ、自分でも驚くくらいの立派な立兵庫に結い上げられる。結われた髪にビラビラ簪や鼈甲の簪がこれでもかと突き刺さるのを髪越しに感じた。正直重い。首が痛いくらいだ。頭を動かせば銀色のビラビラ簪が揺れて光を反射する。同時に音もした。最後に白粉に埋もれた唇に紅を乗せていく。あれよあれよと任せているとあっという間に準備は整ったらしい。


「素敵!の太夫姿が見れるなんて!」
「畏れ多い。私はただの偽物だ。にしても頭が随分重いな」


首を振れば金属同士がぶつかる高い音が響く。障子越しに感じるのは日暮れの闇。部屋の行燈に火が灯された。きっと店の提灯にも明りが灯る頃だろう。
私が千姫に提案した戯れとは、そのまま風間と夕餉を共にするのは色々と間が持たないと感じたので、島原らしく太夫姿で持て成してやろうというものだ。我ながら大々的な持て成しだと思う。普段ならこのようなことはしないだろうが、適度に酌でもして気持ちよく酔ってもらい、とっととお暇してもらうのが目的だったりする。勿論酌をするだけでそれ以上の事はしない。要求してきたら突っぱねる。普段は絶対しないであろう私が偽太夫として色々と着飾るということで、千姫も首を縦に振ったというわけだ。


太夫のお出ましでありんす……と、少し違うか。廓言葉は難しいな」

「良いじゃない“偽”太夫なんだから。それに無理に使わないでも問題ないわ」
「何とお似合いですよ。店に出しても勿体無いほど。直ぐに客が付きましょうに」
「菊月……煽てても何も出んぞ」


手鏡で自らの姿を確認する。が、そこに居たのは自分でも見紛うほどの島原の女太夫だ。化粧とは何と恐ろしい……と、改めて思い知った。太夫としての作法を色々と聞いていると、背中が例の気配を感じる。

「(来たか)」

それには千姫も何か感じたようで二人で襖の方を見やる。人の気配が近づくと同時に室内に向けて声が掛けられた。千姫が応じ、僅かに開いた襖の向こうから禿の少女が何やら耳打ちをする。が、それが何を意味しているのかなんて疾うに解っている。

「風間が来たわ」
「精々驚かせてやろうか。煽てて酒を鱈腹飲ませれば此処(揚屋)にも利となろう」
「あら? 協力的ね」
「世話になっているからな。飯代くらい稼がぬと」
「頑張って! 太夫」

先に風間は座敷に通されたらしい。料理も直に運ばれるだろう。 は慣れぬ大きな抱え帯を持ち上げ、お引きずりに苦戦しながら廊下を進んだ。頭だって重い。見た目は豪華絢爛。町娘も、或いは男たちも憧れる存在。でも実際は動きにくいの一言に尽きる。お洒落は我慢だ。宛がわれた禿の少女が、裾を持ったり手で支えてくれたりしてどうにか進む。後で礼を言おう。

廊下から見れば、早くも明りが灯った座敷が幾つもある。皆通い詰めているのだろうか。行動が速い。島原も営業開始というわけだ。二階にある廊下の中ほど、ある座敷の前では足を止めた。鬼の気が存分に漏れてくる。ここに男はいるのだ。


「婿殿」
「妻よ。待ちわびたぞ……入れ」


入室の声が掛かり、は障子の襖の前で正座した。ここで襖を開き深々と礼をする。そして名乗るのが作法……とさっき聞いた。忘れない様に頭で整理し、心を落ち着かせるために深呼吸を一つ。意を決して手を掛けた。僅かに開き手を下げる。反対側の手でゆっくり最後まで開けば手を突き頭を深々と下げた。


「新参、太夫にござんす。婿殿」


やっぱり廓言葉は難しい。変な京言葉も無理があろう。後は自分の舌に任せるだけだ。頭を上げれば、紅い瞳が此方を映したまま固まっているようだ。はて。瞬きもない。この反応は何とも滑稽だな、と笑いそうになるのを必死で抑える。私は太夫。客の反応で笑ってはならないのだ。

「……」
「(しかし反応は薄いな)」

両手を使い身体を座敷に滑り込ませると、襖を閉める 立ち上がりゆっくりと男の元へと歩み寄った。

「お前は一体何をしている」

ようやく男は口を開いた。紅い瞳は私から逸らされることはない。男の隣に座り込むと、弱くしていた眼差しに光と強さを灯す。


「如何かな? 太夫のお出ましだ。婿殿の持て成しに意を凝らしてみようと思ってな。千も私を使って遊びたいらしく二つ返事をしてくれた。本家の君菊のお墨付きだ。酌ぐらいしてやる」
「……」

外から声がかかったのと同時に座敷に入ってきた他の舞妓たちが膳を二つ並べてくれた。温められた銚子もある。二人だけ。こじんまりした宴会だがまあいいだろう。 今回の目的はとっとと気持ちよくなってもらいお暇してもらうこと。ついでに鱈腹飲み食いしてくれれば一石二鳥。
風間は無言で杯を差し出してくる。それに酒を注ぐと間髪入れず「お前も飲め」と言われた。太夫は客をもてなすことが仕事であって、自ら飲み食いはしない。さてどうしたものかと考えていたが、男の機嫌を損ねるのも何だと自らの杯にも酒を注いだ。
最初は会話など殆どない。が、男の視線は確かに私を追っている。上から下まで。 確実に。静かな食事も悪くない。箸を器用に使い美しく料理を食べ進める姿を見ていると、流石風間家当主。小さい頃から教育を受けていたのであろうと感心させられる。そして私は風間が差し出す杯に淡々と酒を注ぐだけ。話しかけられれば応じなくはない。が、最初に言葉は発さない。


「その姿……俺を持て成す為だと言ったな」


唐突に会話は始まる。

「そうだが。お気に召さなかったか」
「いや。構わん。もっと寄れ」

お気には召したのだろうか。は言われた通りに風間の真横まで身体を寄せた。突き出される杯に並々と注いでやる。この男鬼は中々の酒豪だと感じた。食事が始まってからそんなに時間は経っていないが、もう銚子を三つも空けている。

「お前は飲めないのか」
「いや。そう言うわけではないが。……頂こう」

自らの膳に置いたままの、先ほどから殆ど口を付けていない酒を持ってくると、一息で飲もうとした。が、手首に強い力を感じる。男の手が私の手の動きを封じている。そのまま男の力の為すがまま。私の手とそれに握られた杯は男の元へ。私の手首を器用に操り、私の杯から酒を飲んでいるではないか。
一体何だ、と半ば混乱に陥っている私の手を引くと、男はよろけた体を抱き寄せ自らの口で私の口を塞いだ。同時に温かい酒が口伝いに入れられる。隅からは零れた雫が一筋、顎を伝った。閉じかけだった瞳だが、私を見下ろす紅い瞳を捉えて閉じれない。 名残惜しそうに下唇を吸われると、艶やかな音が耳はおろか、部屋に響いた。


「……何を」
「遠慮しがちな妻に夫が酒を飲ませてやったのだ。感謝するが良い」


満足したのか、男は自らの酒を口に含んだ。感謝するような展開は一切無い。逆に思い余って手が出そうになった事実は秘めておこう。そのまま食事が再開されるものと思っていたが男の手が再び私に添えられた。身構えるが男はそれを許さない。片手で私の手を取り体を寄せ、もう一方の手を顎に添え固定する。私の視界には男の端麗な顔と紅い瞳。


「美しい。その姿、正に我が妻に相応しい。惚れ直したぞ」
「婿殿……止めっ……」
「このままここで手籠めにしてやる。いずれ我が物になるのだ。それが今か後かの問題に過ぎん」

「離せ」

「お前もそろそろ諦めるが良い。決心はもうついただろう。この俺に身を捧げる覚悟が。余所の家の鬼なら泣いて喜ぶ縁談だ。何を躊躇う必要がある」
「私はまだ……私だ。誰にも身も心も許さん!」


マズい。面倒に巻き込まれないよう人払いをしていたからか、声を上げても助かる可能性は低い。このまま押し倒されれば間違いなく男の思うがままだ。如何すればこの状況を打破できるか……考えを巡らせるほど、頭に余裕はない。嫌だと脳内で私が叫び続けている。“押して駄目なら引いてみろ” と、昔誰かに言われた気がする。今は 逆か。

「(引いて駄目なら……押してみる!)……婿殿!」

男の存在を呼び立てると同時に身体を寄せる。 床に倒そうと押されていた私は自ら風間の胸元に飛び込んでみた。本心は此処から逃げたいのが一番だったが背に腹は代えられないし、何事も順序が肝心だ。彼の頬に手を添える。途端に手は攫われ、指の一本一本にまで唇が這わされた。“その時”を見誤れば確実に手籠めにされる。男の愛撫が手先から腕を伝ってくる。“その時”はまだか。緊張とこれからの展開に心臓は張り裂けんばかりにざわめき立っている。



溶けそうな艶声で名を呼ばれる。次の行為に及ぼうとしたのか男の拘束が僅かに緩む……私はその時を待ち望んでいた! は一思いに立ち上がった。
チラリと下をのぞき見れば紅い瞳を之でもかと言わんばかりに見開いた姿。また面白いものを見たなと考えながらも、先ほどの行為一切とは無縁の素面な私が現れる。足元には彼の男。クスリと微笑みながらは出口に向かって一歩踏み出した。

「おい待て」

風間が私に手を伸ばしてきたが、絹同士が滑り落ちるように、男の手は私の衣を捕らえることはない。そのままゆっくりと進む。が、何かが引かれた。頭だけ振り返ってみると外側の上等な染めの衣が男に捕まっているではないか。

「逃がしはせんぞ」

黒く笑う婿殿を目の当たりにしても、心の余裕は崩れない。男が座り、私が距離を取って立ち上がっている今は先ほどとは状況が違うのだ。私は柔らかく、そして余裕を持って笑った。纏っていた衣を一枚脱ぐ。外側の、男に捕らわれているもの。 絢爛な衣を脱ぎ捨てれば体は軽く自由だ。室外に出れば一言。



「あい、おさらばえ」



そうして襖を閉める。廊下の先々は宴会真っ盛りだろうか。聞こえてくる笑い声や唄に耳を傾けながらも、部屋へと帰った。


*****


静まり返った部屋には誰もいない。ただ、女が残していった絹衣からは、粉っぽさの残る妖艶な香が存在を之でもかと示してる。それを片手に絡めながら風間は静かに自嘲した。

西の名門、風間家頭領、貴き純血種、追随を許さない圧倒的な力

血も家も、肉体ですら非の打ちどころの無き存在。それが自分。それが風間千景という鬼。今まで、多くの羨望と嫉妬の眼差しを受けてきたのも事実。里……或いは外からも縁談は後を絶たなかった。なのにこの結果はどうしたものか。理解できない。

。古く悪しき鬼の末裔であり、北の小さな里の長。そして自らの妻となる女鬼。
先祖の名も悪行も鬼の中では広く知れ渡っているが、その真偽は定かではない。酒呑童子は普段から暴れ者と言うわけではなく、義理堅く一族や配下の鬼から慕われていたという話もある。その末裔。彼女の古き鬼の血筋を欲した。そして女も示した条件を受け入れ、その血を差し出すと言った。もうあの女鬼は自分のモノ。祝言を挙げた後には世継ぎを産ませるのだ。が、受け入れた肝心の女は、祝言を挙げるまでは風間という存在に屈せず北の里の長であろうとする。俺が領域に踏み込めば拒絶を示す。それが果たして祝言と言う事実を以って変わるのだろうか、計れない。
風間は、一思いに酒を飲み干した。喉は焼けんばかりに熱い。

「様子を見に来たわよ。……って、あれ? は?」

開いた襖から現れた千姫に、風間は紅い瞳を一瞬だけ向ける。しかし直ぐに興味なさ気に伏せた。薄暗い部屋には男一人しかいない。状況を把握しきれていない彼女はゆっくり室内に入ると前を陣取った。探るような視線を注ぐ。いつしか彼女の瞳が彼の手元から離れなくなっていた。

「彼女はどこに行ったの」
「気恥ずかしいのか席を外した」

「そんなわけないわ。まさか変な事してないでしょうね」
「夫婦となる間柄ならば“変”ではあるまい」
「本当に学習しないわね。千鶴ちゃんの時と何ら変わってないじゃない」
「……」

雪村千鶴。東の名門雪村家の生き残り。自らを鬼と知らずに生きてきた女。
久々に興味を持った人間、新選組に手を出す口実として接触していた。雪村千鶴は自らを鬼として受け入れてからも、人と、新選組と共にあろうとした。残念ながら、伏見の戦の混乱で新選組とは離れ離れとなり、後は彼らの軌跡を辿ることとなったのだが。思い起こせば彼女も、口実としてではあるが追い回していた頃は決して風間を受け入れたりはしなかった。


「何故この俺を受け入れぬ」


口にしてしまった言葉。この独り言は静かな部屋には不似合いだったろうか。いつもは何かと突っかかってくる女鬼が、今日は珍しく黙ったまま。 余所から漏れる笑い声が憎らしい。

「心を……許してないから。だから彼女たちは……」
「フン。心など後から付いて来よう。あの女には風間に嫁ぐ覚悟がないだけだ」
「覚悟ね……それも必要かも知れないわ。でも、心を許した相手になら何だって出来るし全てを捧げられる。は心を許していない。だから貴方を受け入れると同時に拒んでいるの。その事実を理解出来たなら、彼女を解き放ってあげて」
「下らん。お前の話で興が冷めた」

女の呼び声に耳も貸さず風間は座敷を出た。外に面している長い廊下をずんずんと進みながらも、夜風に気は紛れず、表情には苛立ちが宿ったまま。

「(心など……)」

見上げた先の月は、いつの世も変わらず全てを照らし出している。


詰め込みすぎた。偽太夫イベントです。
20150823*星宮はちこ   裏語