そして鬼はいなくなった
【拾弐、お勤め…ご苦労様】
障子を僅かに開いた部屋に籠り新しく届けられた読み物に目を通す。今日は愛用の小袖を緩く纏い、髪も軽くまとめ上げただけ。あの晩以降、風間千景は顔を見せていない。それだけ怒りを買ったか失望されたか。傲慢、かつ気高い鬼の頭領の尊厳を些か傷つけてしまったのは事実。 後は、時が流れるまま生きるなり死ぬなりどうにでもなろう。諦めたと言えば簡単だが心には暗い墨色が広がっている。それらを見て見ぬふりをして紙を捲った。里からの返事は今朝届けられたばかりだ。騒動があったものの、先遣者を出す旨は一刻も早く伝えなければならなかった。だからあの日に文を書き上げ翌日には飛脚の手に渡した。 返事が書かれた手紙を視界に捉えると無意識に内容が頭を流れる。
時と合流地の了承。そして逆算した出発の目安の日。 合流地の詳細と相手方を統率する鬼の名と紹介状の要請。
は頭を抱えた。彼らから要請された内容は事の運びを良くする上では重要なものだ。 先導してくれる風間一門の属する鬼がどの家の者なのかまだ知らない。 紹介状がなければ信頼されることもないだろう。なのに重要な情報はまだ彼女の下まで降りてきてはいない。全て風間止まり。彼が唯一の接点。里が決めた出発の目安日まで、逆算しても時間に余裕はないだろう。
「(焦りは禁物……か。最悪移住の話が白紙になってしまったら…)」
読み物が頭に入ってこない。
は大きくため息を漏らした。
「(─ッ!?)」
鬼の気配。それも風間千景の。急いで緩んでいた衣紋を繕い戸に向き直った。 男が襖を開く前に頭を下げる。口は開かない。
「お前は何をしている」
何って?見るからに頭を下げている。ただの謝罪だと告げた。 頭を上げろと言われ、その通りにすればようやく彼の全体像が見える。 戸口に立ったままそれ以上踏み込んでいない。改めて謝罪の言葉を述べた。
「先の無礼、詫びても詫びきれん。其方の妻になる身としては軽率過ぎた。処分は私が受ける」
「要らぬ。つまらん面倒をかけるな。今日は様子を見に来ただけだ」
嘘だ。あの時風間千景は確かに怒っていた。 この言葉に裏があるのか。探る様に見つめていても何も読み取れない。 風間は袖口を探ると私の前に白い紙を寄越した。封印がなされた書簡と折られただけの文。
「周防の国で落ち合う場所と此方側の鬼の名を記した。もう一つは俺からの紹介状だ。俺の印を押しておいた。それを先遣の鬼に持たせるが良い。お前が待ち望んでいたものだろう」
「これは! ……忝い」
手を付き深く頭を下げた。これを早く里へ届たい衝動に駆られながらも、同じ失敗は二度繰り返さない。今は未来の夫が訪ねてきているのだ。少しの間だけでも良き妻で在らなければ。 暫しの間、長の仕事には手を付けないでおこう。文を袖に入れ込むと、風間に座る様に促す。しかし今度は彼の方がこちらを探るような表情を見せるではないか。
はただ、この男と話がしたいだけだ。しばらくして動かなかった風間はようやく腰を下ろした。
「主導者としての仕事は」
話題を振ろうと口を開いた所で、押し黙る。別にこの話を聞きたいわけではない。実際の所、進行状況を聞きたいのは勿論だがそれでは里長同士の関係だ。未来の夫婦になる関係ならばどのような話をするのが普通なのだろう。想像もできない。今のところ、それ以外に私達を繋ぐモノは無い。 その事実が重くのしかかる。
「(こんな有様で、夫婦になどなれようか)」
男を見ることが出来ずに逸らした視線が宙を泳ぐ。 沈黙を破ったのは風間だった。
「鬼が人と離れる準備は整いつつある。お前が心配するようなことではない。 西に散り散りとなった鬼の一族が、徐々にではあるが集結している。 我が風間の一族は殆どその身を移し、一門に属する者、新たに加わる者も少しずつ先遣者を出している。 先日その者達と我らを繋ぐ文を出したばかりだ」
次の望月には、我らが北の里鬼の先遣者も移住の地へ向かうため風間の鬼と合流する。 やっとここまで来たのだ。人からも同胞からも隠れ住んでいた我らが、鬼として生きていく道筋が。
彼は風間家の当主として諸一族を繋ぎ、導く存在。私よりもずっと求められる存在だろう。意図せず男に手を伸ばしていた。払われるならそれでも良かった。しかし
の手はそのまま男の頬に触れることを許された。 紅い眼差しは僅かに細められただけでジッと私を捉えたまま逸れない。
「こういう時、夫婦と言うものがどのように接し合うものか私にはわからん。 無論、如何わしい事以外でな」
「……」
長としての仕事に投じる彼の身を案じて労うべきなのだろう。 良くやった、とは上から目線。ご苦労様なんて、言えない。 言うべきなのに口は動かず代わりに手が引けた。 まだまだ彼の妻にはなれないなんて心の中で自嘲しながら、表面的には僅かに微笑む。
「ッ!?」
私の動作を捉え続けた男が、突然動いた。 緊張から全身が強張る。風間は姿勢を崩すと横たわり、徐に頭を正座する
の膝に乗せた。 横を向いていればいいものを、彼は上を、つまりは
の方を見ている。紅い瞳。吸い込まれるように彼を見つめる。 硬直状態。
「嫌なら……」
小さな声で風間が呟く。が、私には聞き取れなかった。急いで尋ねても彼は無言を貫く。 終いには望み通り顔を反らしそのまま横向きになってしまったではないか。 婿殿は何を言いかけたのだろう。もう教えてはくれないだろう。 正直、風間と何を話すべきかわからない。 口を開くのも億劫になって、空いた手で男の髪を撫で、ゆっくりと髪を漉き取る。 光を反射する金色の髪は思ったよりも滑らかで絡むことなどない。 まるで水の様に手をすり抜けた。 彼は無言で私の手を受け入れ、遂には目蓋を閉じたまま動かなくなってしまった。 かの横顔は美しく整い、時折感じさせていた男としての鋭さ或いは恐ろしさは、綺麗さっぱり感じられない。 穏やか…ともいうべきか。大人しければ彼はまるで猫の様だ。 寺に集まるような人馴れした猫…ではなく少し近寄りがたい凛とした猫。 幾ばくか気を許して貰えた頃の。そう考えれば面白味さえ出てくるなと考えながら、
は風間の頭を撫で続けた。
「(何れこの男との間に子を儲けることになるのだろうか)」
この胎を使い強い鬼を産むのだ…と、私はそう言われ続けながら育った。 古の鬼の血を秘かに守り続けた一族は、数代前より多くの強い鬼子を生せる体を持ち、それに目を付けた祖母は実子である母に東の名家より婿を取らせた。 まだ見ぬ父は、次男坊だったらしいけれど。叔母に当たる母の姉妹たちはその殆どが嫁に行き、東の鬼と共に滅んだと言う。 やがて母が私の代わりに死んだ。正確には殺された。
の一族として残ったのは自分と幼い妹と弟達。 次を産む義務は私にあった。 しかし正直なところ、この身体に流れる血が絶えることも薄まることも厭わなかった。 結ばれる相手が混血の鬼だろうと人間だろうと構わなかった。 勿論妹たちにその任を丸投げするつもりもないし、彼女たちが誰と結ばれても良いと考えていた。 昔読んだ物語の恋仲となる男女に憧れたなど口が裂けても言えない。 惹かれた男と添い遂げることが出来たら、それ以上に幸せなことはないだろう。 最後が心中であったとしても。だが実際、長年生きてきて惹かれる存在はいない。 閉塞的な環境では中々恋路には発展しにくいようだ。 むしろ里には年頃の男が少ないくらいだったのだから。 血脈の良さを考慮すれば尚更いない。更に
は鬼里の頭領として皆を統括し、導かなくてはならない立場。 自身の婚姻よりも里鬼の身を案じ続けてきた。 近くの藩の目から隠れ、先の戦の火から逃れるのに必死だったことは言うまでもない。
思い起こせば、恋という感情を持ったことは無い。
勿論慈しみの感情はある。妹に弟は可愛いし里に生まれた赤子を抱かせてもらった時は興奮した。 読み物にあるように、歌や文を交わし逢瀬を重ねて、駆け落ちやはたまた心中などを起こそうと思えるような想いとは無縁だ。 風間は私の心を求めた。血を差し出せ…と言っていた男が突然だ。 彼に何があったのかは解らない。それから風間からの接触が大胆かつ可笑しなモノへと変わっていった。 急に物を贈ってきたりインチキな薬を食わされたり。まったく、一体何がしたいのだか。
“余所の家の鬼なら泣いて喜ぶ縁談だ。何を躊躇う必要がある”
記憶の中で風間の言葉が木霊する。男の言葉は偽りなく事実そうなのだろう。 普通の鬼ならば泣いて喜ぶのに何故私は泣いて喜べないのだ。 泣かずとも喜べず、悲しみの涙すら出ていない。 私は強い鬼の血を引き、多くの子を生せる存在。 祝言を挙げればこの男のモノ。その時、北の里としての私は死に、風間の妻としての自分を偽る。 怖い。私が私で無くなってしまうことが、とてつもなく恐ろしい。 抑制された自身を保てる自信はない。押しつぶされそうな恐怖。怖い。 自ら血を差し出した私がそんなこと言えるはずもない。
は滲んだ目元をそっと拭った。
膝の上には未来の夫。風間家当主として、彼もまた里の鬼を導く存在。 散り散りとなった同胞を繋ぐ為、文を書き指示を出し身を挺し勤しんでいるのは想像に易い。
の里に限らず、日ノ本に住まう鬼の移住の礎を築くには相当に気を払い、忙しく、休息を取っている暇など無いのだろう。 瞳を閉じたまま穏やかに寝息を立てる男の頭を撫で続けながら、空いた片手は手繰り寄せた団扇で緩やかに風を送った。 暫く続けていると彼を起こさぬ様に撫でていた手を止め、卓上に開いたままの書物に手を伸ばした。
「お勤め……ご苦労様」
今なら言えるのに。
近付く気配を気にもしなかったのはそれが誰だかわかっていたからか、或いは読み物が面白かったからか。 どちらもだろう。
「突然ながら失礼します。風間が訪ねてきていると伺ったのですが」
開いた襖の向こうには想像通り、天霧殿だ。 顔だけを向ければ、青い瞳が見開かれ僅かに…いや盛大に隙を見せて固まっているではないか。
「如何……されたか。天霧殿」
彼と会うのは二度目だろうか。 初顔合わせの時はもっと冷静沈着な印象を受けたのだが、 今はその面影は見受けられない。 いや、今も彼は冷静沈着な鬼なのだ。 ただその視線は私ではなくもっと下の方を捉えて離れず、石の様に動かないだけ。 天霧殿がこの男に用があるとすれば、頭領としての仕事について。 重要な内容だろう。早く起こすべきだと思うのだが、何故だろう彼の眠りを妨げることに気が引ける。 否、あと少しだけでもこの穏やかな時間が続けばいいと思ってしまった。
「急ぎの用事か?」
そう尋ねれば、「いいえ」と天霧殿は漸く反応を見せた。
「しかし一体。これはどうしたものかと」
それを問いたいのは私の方だ。続いた言葉に心の中で答えておいた。 どうしていきなり婿殿はこのような行動を起こしたのであろう。 そしてさっきの言葉は一体、何を言おうとしていたのだろう。 考えても埒が明かない。
「この男は西の鬼の頭領、風間千景。だが今は……ただの男鬼だな」
今私の膝上に眠っている鬼はただの男でしかない。 だが次に彼が目覚めた時は、西の鬼の頭領、風間千景だ。
「天霧殿。時間が許すなら婿殿はこのままで良いか。 それに少し其方と話がしたい」
そう私は切り出した。
すれ違って、時に近づいて、また離れて。
20151123*星宮はちこ 裏語