そして鬼はいなくなった
 【拾伍、 ─ 】

(※冒頭、微妙に長いトラウマ描写につきご注意を)



私の代わりは幾らでもいる。


 “…貴女は貴い鬼の血と希有の能力を持った特別な存在なの”


なのにどうして私なのですか。


 “その価値は存分に活かさねばなりません”




私はただの女鬼。それ以上の価値なんて。

 “一人前の女になるためにも、先ずは女としての悦びを知らなくてはならないわ”

ただ怖かった。

 “どうしたの?怖がらなくても大丈夫よ”

その表情も声も優しさも何もかも、見知った母のものではなかったから。

 “直ぐに好くなるから”

怖い。怖い。怖い。

 “!待ちなさい!!”

嫌だ!嫌だ!怖い!!怖い!!!

 “掴まえた!全く行儀の成っていない子ね。今は大切な儀式の最中なのですよ”

どうしてこんな、

 “縛っておけば問題ないでしょう。それもこれも逃げようとするからよ”

酷い仕打ちを。

 “まあ貴女の体は十分に仕上がっていますからね。本来は里一番の醜男の役目ですが”

そんなもの私は望みませんでした。

 “今回は私が直々に最初から最後まで仕込んであげるわ”

要らない。要らない!

 “さあ始めましょう”

嫌!痛い!痛い!!痛い!!

 “我慢よ。最初は痛くても直ぐに気持ち良くなる。我慢して”

嘘だ!こんなものが気持ち良いわけない。

 “ほぅら!全部入ったわ。お腹で感じるでしょう?”

痛い。苦しい。辛い。気持ち悪い。早く終れ。終れ。終れ!

 “さて、ここからが本番。貴女が唯一無二の存在に成る為に”

耐えられない。

 “存分に男を愉しませるのよ”

軋んだ体。心も張り裂けそう。

 “その顔!イイわ!!殿方も手放したくは無くなるでしょう。流石よ”

酷い。これではまるで物ではありませんか。

 “さあ、覚えなさい”

この夜を忘れるでしょうか…いえ忘れられるはずがありません。

 “快楽を”

母上。









「─ッ」


はようやく目蓋を開くことができた。途端に涙が零れ落ちる。 呼吸は乱れ、額からは汗が噴き出している。 忌まわしき記憶の数々が現ではなく夢であったことにとりあえず胸を撫で下ろしたが、 狂ったように木霊する心音は脳内に直接響いてきているようだ。 …いつ見ても嫌な夢だ。

あの夜のこと。

肉体は快楽を知っても心は切り刻まれたままだった。 一瞬の悦びなんて私は要らなかった。覚えたのは恐怖と憎悪。 苦しみの果てにしか子が生せないのだと知り、開かれるはずの心も体も一番深いところに閉ざしてしまった。 心を許した相手になら、全てを差し出せるのかも知れないと言う淡い希望の錠をかけて。
そこから動こうとしても叶わない。頭も体も心も、まるで石になってしまったかのように重いのだ。 無理に動かす気力もない。 夜具すら敷かれていない畳の上で、乱れた衣を緩く纏わらせながら横たわったまま。 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。思考も働かない。



あの後…風間千景が去ってからは絶望した。
彼の残した言葉が心を抉った。自分の代わりは幾らでもいるのだ。そうだ。 それは間違いではない。西国の鬼の名家風間家の頭領、風間千景。 利権も関わるとなれば縁談話も後を絶たないだろう。 そして世継ぎを残すと言う面でも周りの者は彼の婚姻に気が気ではないのだろう。 同胞から隠れ住んできた古の悪しき血を継いだ一介の女鬼の存在なんてどうってことがない。 「待って」なんて都合のいい言葉は、恐怖で擦れた喉からは決して出てこなかった。 出てきたのは涙とくぐもった嗚咽だけ。
この血が差し出せないのなら契約は不成立に終わる。 私たちの関係は契約でしかなかった。 約束を違えたということは…つまり北の里鬼の受け入れが叶わないということ。 里で待っている鬼達の未来が絶たれるということ。 私が自らの我儘で血を差し出せなかったことが原因で、だ。 風間は里に帰れと言ったが戻れる訳がないだろう。どんな顔で皆に会えば良いのか。 北の里の長として、私はしてはいけない禁忌を犯してしまった。 縁談を断った報復だって考えられる。考えだしたら限がない。 声を上げて泣いたことなんてあの夜以降なかったのに。は子供の様に、憎悪に苛まれながら声を上げて泣いていた。 結局、覚悟なんて出来ず風間を受け入れられなかった。 私は何の為に存在しているのだろうかと自問自答の繰り返し。永延と。 胸の奥がズキズキと痛み涙が止まらない。低く唸るような嗚咽はまるで醜い獣の様で、胸の奥と腹の底が不快感を示している。 苦しみに耐える為に、自らの腕を強く握った。爪が肌を傷つけることも厭わなかった。は自らの愚かさと醜さに憎悪し耐えきれずに嘔吐した。 極度の興奮と緊張を伴った精神状態には限界が訪れ、ついには意識を手放した。 そして“あの夜”の事を夢に見てしまったのだ。



時は現に戻る。
涙と汗でグジャグジャになった顔に憎悪で潰れそうな心臓、涸れた喉、引っ掻き傷から浸み込んだ血塗れの着物、乱れた髪。 今の自分がどのような醜態を晒しているのか、想像するのは易かった。 使いものにならないなど、存在する意味がない。母だってきっとそう言うだろう。 価値のない物なんて…と。

「(いっそこのまま消えて無くなってしまえばいいのに)」

障子の向こうが随分明るくなっている。廊下から誰かの声が耳に届いた。 この声には覚えが無かったが、恐らく店の者だろう。千姫は用事で角屋を離れていると言っていたから暫く尋ねてくることは無い。 いつも食事を届けてくれる者とはまた別人だろうか。しかし役目は引き継いでいるようで、食事を運び込んでも良いかと声をかけられた。 正直、食欲が無い。一切ない。折角作って頂いたのはありがたいが、今回は断ることにした。しかし…


「─(声が出ない?)」


喉が涸れたからだろうか。私の喉は空気の通り道になるだけで音が出てくることは無かった。 店の者が無断で部屋に押し入ることはない。二、三度名を呼ばれ在室を確認しているのが聞こえたが諦めたのであろう。 遂には足音は遠のいた。一方で、は混乱状態に陥っていた。 あれだけ獣のように泣き喚いていたのに、今は音すら出せはしない。 乾燥や飲み過ぎから喉を潰ししばらく声が出にくかった経験はあったが、一切音が出ない今の状況は初めてだった。 何故声が出ないのだと、働かない頭で考えるが埒は明かない。 動きたくても体も動かない。本当に石になってしまったみたいだった。

「─(誰か!助けを!)」

居た堪れなさで涸れたはずの涙が戻ってきた。ああしかし声は出ない。 静かにみすぼらしくの心が泣いた。



“─


誰かが私を呼んでいるようだ。またあの夢だろうか。嫌だ、もう見たくない。 きっと母が呼んでいるのだろうと思ったが、どうやら違う。 この声は母のものではない。

!お願い、起きて!」
「─ッ!?」

開いた瞳が映し出した世界はずっと眩しかった。 そこには暫く角屋を離れているはずの千姫の姿。何故ここに居るのだろうかという疑問が浮かぶ。 しかし体はまだ重く、殆ど動かない。戸惑いだろうか声を荒げて肩を揺する彼女の様子をただ瞳が見つめる。 心音が大きく呼吸も少し乱れながら。


!…良かった!!目覚めてくれて良かった。一体何があったの!? 貴女ここで倒れていたのよ。それもかなり酷い状態で」
「…」
「とりあえず水を。少なくとも三日は何も口にしていないのよ。 今医者を呼んでいるわ。落ち着いたら、何があったのか話して頂戴」


三日も寝込んでたらしい。起き上がろうとしても叶わず、見かねた姫が身体を抱き起してくれた。 上半身だけ起き上がった体を同じ姿勢に保ち続けるだけの体力は残っておらず、姫は背中を支えながら湯呑みを口元に添えてくれる。 確かに体は水を欲している。が、ごくごくと喉を潤すほどに飲み干すことはなく、僅かに含んだ水が喉を潤すだけに留まった。 何が起こったのか。確か風間が訪ねてきた。そして私は…そうだ。 走馬灯のようにその時の出来事が鮮明に浮かぶ。


「ねえ。もしかして…風間が」
「!?」


違う。あの男は関係ない。まるで駄々を捏ねる子供の様に必死に首を振った。 それが伝わったのか伝わっていないのか、千の顔はこちらをジッと見つめながらも険しいままだ。 伝えたくてもきっと声は…。試しに腹に力を入れても声は響かない。 声を失ったことを出来れば知られたくはない、が押し黙ったままで隠し通せるのも時間の問題だろう。 何故そうなってしまったのか、彼女なら真っ先に原因が浮かぶのではないだろうか。 何よりこの有り様だ。いつもなら問いただすほどに理由を聞いてくるだろう。 しかし私の身を案じてか、千姫はゆっくりと私を夜具に横たわらせた。 数日も倒れていたのだから今日のところは休むように言われ、そのまま彼女は部屋を出て行った。
声が出なくなったこと。里の鬼の受け入れが叶わないこと。 一体、私はどうするべきなのだろう。背負った罪の重さに押しつぶされてしまいそうだった。 何もかも投げ出せたらいいのに。深い木目の天井を眺めながら、一雫、涙がこぼれる。





不安そうな少女の声が私を呼んだ。 自分の名を呼ぶ声に反応してようやくは重い目蓋を開く。変わりなき天井。変わりなき日常。声を失った私。

「良かった…。昨日みたいに起きてくれないと思ったじゃない。心配だったのよ」
「(そんなわけ…ないだろう)」

何と目蓋を閉じている間に翌日になってしまったらしい。 事実に驚きつつも姫の姿を捉えて精一杯微笑んだ。 涙で張り付いた顔がどんなに醜いのかはわからない。 せめて不安にさせないようには優しく微笑む。 私の反応を見て千姫も笑うと後ろに控えた膳をゆっくりと持ち出した。

「何も食べてないでしょう?随分、痩せちゃって。 食べないと元気になんてならないんだから」

漆塗りの椀には、一握りの粥が盛られていた。 寝込んだ体を案じてくれているのはとてもありがたいこと。 遠慮なく頂戴するべきなのだろう。だが実際は胸が重く、何か嫌なモノが詰まっているようで、何も食べたくはなかった。 体が受け入れないのだ。要らないことを伝えようとしても声は出ない。 箸を使って私に食べさせようとしている千の手に自らの手を伸ばし、ゆっくり触れた。

「何、如何したの?」
「─(ひめ)」

音は無いが唇を動かして、二文字を伝える。 簡単な言葉だったからかそれは彼女に伝わったらしい。 勿論、普段では到底在り得ない違和感を残して。彼女も勘が良いのだろう。 違和感の正体には直ぐに気付いたようだ。



…貴女…」



愛らしい千姫からは想像もし得ない、絶望を知ったような表情。見開いた瞳。 緩んだ彼女の手からは箸が滑り落ちる。精一杯、私は笑顔になる様に表情を作る。 不安にさせたいわけではない。ただ事実だけ知ってもらえればいいだけだった。

「─(こえ、が、でない)」

ゆっくりと唇を動かせば千姫が私の唇の動きの通りに音を発する。 「声」は難なく通じたが「出ない」がどうにも伝わらず、指を彼女の掌に当て文字をなぞった。


「声が…出ない…。、どうして…」
「(私の罪に対する罰なのかも知れんな)」


口にすることも掌に伝えることも無く胸の奥で呟いた。 俯いたままの千は身体を僅かに震わしながらも、その場にザッと立ち上がると自らの掌を固く握る。 彼女が何を考えているのか、心の内なんてわからない。 でも彼女の纏った“殺気”が鈍く渦巻いているのはひしひしと伝わってきた。

「風間」

今までに聞いたこともない低い声。それ以外は何も言わず千は背を向ける。 彼女を呼び止めようにも術を持たず、起き上がろうにも力がないは心の中で「待て!」と叫びながら弱々しく手を伸ばした。 勿論、彼女を止めることなんて出来ない。伸ばした手は空しく宙を掴んだ。 襖の向こうから荒々しく医者を呼び立てる声が響く。 ああ何てことだろう。私の甲斐性が無いばかりに周りが巻き込まれ、均衡が静かに確実に崩れていく。



トラウマ発動。しかしここから長いです。声という手段を断たれて、溝、を埋める術はあるのかないのか。
20160402*星宮はちこ   裏語