そして鬼はいなくなった
【拾陸、夢でございます】
「お願いです
様。どうか少しでも召し上がり下さい。何も口にせずどれだけの日が経ちましょうか。これでは治るものも治りません。この状況をどう姫様に申し上げたら良いのか」
千が私の部屋を去ってからどれほど時間が経ったのだろう。菊月が届けた膳を前にしても相変わらず食欲は湧かず、形あるものは口に出来ないでいた。摂取するのは白湯か茶。体力は戻らず寝たきりだ。我儘でも意地を張っているのでもない。食欲がないのだ。無理無理に口にすれば、途端に体が拒絶する。食べ物を粗末に扱うなど言語道断。食事の用意すら勿体無いから断ったのに、千姫から託けられているのだろう菊月も譲りはしなかった。
人とは比べ物にならない強い体を持つ鬼。外傷なんて元通りに治るのに、私には医者(勿論、鬼の)が付きっきりだった。結局その医者には体力が戻らないのは十分な食事を取っていないからだと診断された。肝心の声については喉には特に異常もなく、精神的なものが原因の一時的に出にくくなっているのだろうという判断が下った。外傷には強いが心は人間とは変わらないことを思い知った。鬼も人も感受性は変わらないのだろう。医者は漢方だと言って人に勧める用の様々な薬草を置いて、一先ず帰っていったという。
「薬草を煎じましたからお飲み下さい」と、菊月は黒い汁を差し出してきた。見た目と臭いから判断できる…これは不味いと。食欲已然の問題だ。それは表情にも出ていた様で、菊月は今までに見たことのない笑顔(絶対裏がある)を向けてきた。「飲め」と言う無言の圧力だ。無理矢理は飲まさないが、黙っていては私が飲まないのは知っているのだろう。口元に添えられた湯呑みが憎い。このままでは菊月も主人である千姫に顔向けできないのだろう。千は今きっとここ(角屋)を離れている。液体ならば飲み込むことが出来るはずだ。湯呑みから一口分含むと、覚悟を決めて飲み込んだ。黒い液はやっぱり不味かった。口の中に留めたくはないので直ぐに飲み込んだが出来ればもう二度と飲みたくはない。目の前で次の一口を待つ菊月を待たせるわけにはいかない。涙をこらえながらもう一口飲んだ…はずだった。
「ゴホッ…ゴホゴホ」
熱い飲み物に体が慣れていなかったせいだろうか、気管に思いっきり入り盛大に噎せた。口元が汚れてゼイゼイと肺が空気を求める。呼ぶ声と共に素早く口や胸元が拭われる。謝罪と共に肩を落とす菊月に申し訳が無くなって、彼女の掌に伝えた。
「─(すまぬ。そなたの心づかいありがたい)」
上半身を支えられながらも、彼女の瞳に笑いかければ優しく微笑んでくれた。どうにか一杯、薬湯を飲みきると菊月は店の者に茶器を下げる様に頼んでいた。声が発せないと言うことは誰をも呼べないと言うこと。思いを伝えられないと言うこと。動けないまま助けを呼ぶことができない状態では一人には出来ないと医者がいないときは菊月が付きっきりの状態だった。
「─(少し眠るから)」
伝え終えると夜具を引っ張り上げた。眠りについてすぐの少しの間だけ菊月は身のまわりのことが出来るのだ。もっとずっと時間を取ればいいのに、さっと済ませてまた様子を窺いに来ることも私は知っていた。瞳を閉じて呼吸を整える。きっと眠って見えるだろう。そのまましばらくすれば、音も立てずに菊月は部屋を離れた。襖が閉じた音を確認すると
は再び目蓋を開く。天井の木目を視線で追いながら只意味もなく時が過ぎるのを待つだけ。僅かな体力を維持しようとやがて意識は夢うつつの間を彷徨う。しかしその瞬間、いやその時こそ私は嫌いだった。脳裏に焼き付いた悪夢からは逃れられないのだ。
“もっとよ…”畳に押さえつけられた私の上には母の初めて見せた顔。拒絶しても意味を成さず、体には痛みが刻まれる。怖い。“私を抱け/早く終れ”と私の声がする。いつの間にか私の上には母ではなく、深紅の瞳を光らせたあの男がいた。嫌だ。私は!
「
様!
様!!如何なされましたか!」
現に意識が引き戻された。心音は荒く大きく息は乱れ、額からは汗が滝のように噴出している。見開いた瞳はギョロギョロとまるで定まらない。まるで今起こった出来事かのように、皮膚が触れられたような感覚さえ残っている…気がする。やがてそれが夢だとわかると、視線は私の名を呼び続ける菊月に注いだ。
「また、その悪い夢をご覧になったのですね。ご安心下さい。姫様が戻られるまで私が
様のお傍にいますので」
強く握りしめられた手を、僅かに握り返す。ああ、彼女をここに留めさせている原因はこれなのだ。脳裏に焼き付いた記憶が私を蝕む度にただ醜くもがき苦しむ。強く握りしめた指先に血が滲んでいることもしばしば。彼女は内容までは尋ねてこなかったがこの有り様だ、悪い夢なのは一目瞭然。菊月がもしここに居なかったら、私は悪夢から抜け出せていないのだろうか。想像すらしたくない。起きている間はそれが夢だと認識できているのに、睡眠中はその境が曖昧になっている。想像以上に現実的。安眠とは程遠い生活は確実に
の体力を奪っていく。
「
様、夢で御座います」
優しく諭す菊月の開いた掌に「ああわかっている」とだけ伝えた。
*****
意識も体力も途切れ途切れであったが恐らく一晩は経ったのだろう。夢に苛まれない時は時の流れが早い気がする。明るい部屋は夜が明けたことを伝える。何故だろう体力が保たない割に、その日は妙に耳が冴えていた。早朝の静かな建屋の中で足袋の擦れる音が響く。いやに速足のそれはわざと煩く鳴らしているわけでもないのだろうが耳に残る。確実に近付いてくるのだ。見えない存在を捉えたかのように視線が襖から離れない。足音はもう襖の向こう側にたどり着こうとしている。入室を伺う声がかかるわけでもなく、乱暴に音を立てて襖は開かれた。
「!」
炎の様な深紅の双眸が私を見下ろしていた。物ばかり溢れた部屋の真ん中に敷かれた布団の上で、時が止まったかのような。心臓を掴まれたような衝撃。その男の視線がとても恐ろしかった。あの夢の、或いはあの時が思い起こされるような。しかしすぐに
は自分を取り戻す。「婿殿」と声を上げようとしても言葉にならず、起き上がろうとしても中途半端に肩が揺れるだけ。何とも無様だろうか。もし彼がこの首を取りに来たというのなら、無駄な抵抗をせずに素直に差し出せるだろう。最後にこの首の代わりに里の鬼達には手を出さず、できれば最果ての地に受け入れては貰えぬだろうかと、我儘極まりない願いを伝えたくも声は無い。獲る者と獲られるモノの様な構図だ。
「あの女が狂ったように騒ぎ立てていたが…声を失くしたか。俺の居ぬ間に何があった」
高々数日。されど悪夢に魘されたこの数日は
にはとても長く感じられた。あの日風間から告げられた言葉は里の長としての約束を違えた証なのだ。苦悶したのは自業自得でしかない。そんなこと告げられるはずもなく。
「─(何も、ない)」
「何もないだと?その有り様で何も無いとはふざけるな」
「!?」
は驚いた。それは小さな反応だった。声も出ていないただ唇が動いただけのもの。しかし風間は確かに彼女の呟きに反応した。それも正確に。千姫でさえ簡単な単語は読み取れるものの筆談が主な手段だったのに。菊月に至ってはほぼ筆談であったのに。
「この俺を誰だと思っている。読唇術など容易いもの。侮るな」
「…」
瞳を見開き、私は男をただ見つめていた。
「言え。何があった」
「─(何も。ただ…)」
「ただ何だ」
これはさながら奉行所の尋問のよう。今は私が罪人だ。
「─(其方と…契りを…違えた)」
考えるだけで涙が止まらなくなった。目元に溜まった溢れんばかりの涙は目尻から静かに零れていく。それから事実を全て風間に告白した。約束を違えた事。里の長としての役割を放棄してしまったこと。自分の命はどうなっても構わないから、どうか最果ての地へ、里の鬼達だけは迎え入れて欲しいと言うこと。
「─(今なら…体を、差し出せるな)」
最後にそう告げる。抵抗も出来ない声も出せないただの傀儡人形。それでもまだ女としての肉体は機能している。抱くには好都合だろう。そして精一杯取り繕った笑顔で男を見上げた。隣に腰を下ろした風間は静かに私を見下ろしている。表情には喜びも、悲しみも、怒りさえも感じられない。
「鬼は高潔な存在。故に俺には無抵抗な女を襲う趣味は無い」
男が閉じた目蓋をゆっくりと開けば、再び紅い瞳が私を見下ろす。その眼差しを受けて、弱く怯えた眼差しで応じることしかできなかった。徐に風間は手を伸ばすと私の頬に触れた。
「随分…痩せたな。我が同胞ともあろうものが目も当てられん。先ずは満足に動けるまでに回復しろ。あれから何も口にしていない…違いないか?」
「─(要らぬ)」
きっと喉を通らない。私の答えを聞いて風間は僅かに眉を顰めた。何を考えているのだろうか。心境を読み取ることは出来ないが不機嫌になったということは目に見てわかる。間違った答えなどしていないと思うが。突然、風間は
に向けていた視線だけを逸らし背後に意識を集中させた。
「聞いているのだろう。さっきからコソコソと鼠の様に目障りな」
突然、独り言のように…しかし強い口調で男が話し出した。
に対してではない。もっと遠く、彼が意識を向けている襖の外だろう。体力の戻らぬ
はそこに誰が居るのか気配を感じ取ることが出来なかった。少しの間は音もなく静かで、まるで誰もいないかのようであったがやがて観念したように静かに襖が動く。ゆっくりと。人ひとり分開ききった先には、見知った鬼の存在があった。菊月だ。今朝はまだ顔を見ていなかったが。
「
様の身をお守りするのも、姫様の言いつけの一つでして」
「フン。あの女め…わざわざ俺の部屋まで乗り込んで狂ったように喚き立てていった。しかし、あの煩さも少しは役に立つこともあるものだ。それだけは唯一称賛してやろう」
そう言えばあれから千姫には会っていない。風間の名を、低く恨めしい声で呼び部屋を出て行ったまま。二人の間に一体何があったのだろうか。千が風間の元へ行ったのはこれで確かになった。
が回らない頭をどうにか働かせて、二人の間に起こったであろう出来事を整理している時だった。
「今すぐ重湯を仕度しろ。白湯はただの水に過ぎん」
静かな部屋に男の声が響く。菊月は最初こそは風間の動きを牽制しているようであったが、その言葉を聞いて目が覚めた様に驚き、僅かに頭を下げると襖を閉じてしまった。
「(おもゆ?)」
白湯以上、粥未満。確かそんなものだったような気がする。ああ、頭が働かない。
暫くして部屋に椀が一つ届けられた。盆に乗ったそれは、漆塗りの器で同じ装飾の蓋がなされている。風間は私の枕元にお盆を置くと、布団と肩の後ろの間辺りに手を差し入れ、力を込めて上半身を抱き起した。上半身を起こしたままの姿勢を保つ体力は
には残っていない。そのまま風間の肩に頭を、胸に体を預けるような形でどうにか落ち着いた。蓋が開かれた椀が目の前に差し出される。中には僅かに白濁した液体。液面の自分と目が合った。
「先ずは食え。食わねば力は戻らん」
この状況だ。食べなければ男は引かないだろう。菊月は無言の圧力だったのに彼は些か直接的だ。食欲の無かった
は早々に諦め、近づく縁に唇を付ける。傾いた椀とは対照的に液面はいつだって地面と水平。流れ込んでくる液体はゴクリと飲み込むほどではなく、口に広がる程度の僅かな量だ。
「(久方ぶりに米の味がする…)」
重湯には固形物は一切入っていないのだが、口に広がったそれからは忘れかけていた米の味がした。もう一口含みゆっくり飲み込む。どれだけ時間がかかっても風間は決して急かしたりはしなかった。私が食べるのを確認するようにただ見つめ、飲み込んだら次を流し込む。どれほど時間が経ったのであろう。覚えてはいない。食べ進めるうちに体が温もりを帯びたような気がした。ただ温かくて、そして少し眠いのだ。
「(婿殿…)」
と、呼びかけたつもりであった。しかし
はいつの間にか眠ってしまっていた。包み込まれるような温もりの中で、確かに、そっと眠っていた。
とりあえずどん底まで落ちる。ザクッと深い傷を負い、これからゆっくり埋めていきます。
20161204*星宮はちこ 裏語