そして鬼はいなくなった
【拾漆、魘されたら何度でも起こしてやる】
痛い。体も心も。何もかもが痛い。“
…まだこれは始まりでしかないわ”母は私を動けないよう縛り上げ、私はまるで人形のように成すがまま。それはとても痛くて苦しくて逃げたくて悲しくて…ただ辛かった記憶しかない。どれだけ泣いても母は儀式を止めようとはしなかった。彼女はジッと私の反応を眺めながら望みのモノに仕立てあげるのだ。肉体の開拓が進む度に与えられる快楽に反応してしまう自分が浅ましく、恥じた。儀式の最中、私は全てを呪い。全てを拒絶するしかなかった。
嫌だ!痛い!怖い!早く終れ!
全力で。ただひたすらに私は拒絶した。あの時の母の眼は私を組み敷く風間千景のモノと瓜二つ。“お前の代わりは幾らでもいる”私はもう要らないモノのだろうか。見下ろす紅い瞳はあの男のもの。母の姿はいつの間にか風間千景になっていた。あの男は私の手を強い力で掴み、何かを叫んでいる。嫌だ、と私は夢の中でもあの男を拒絶した。一心不乱に。
「
!落ち着け!」
どんなに拒絶しても敵わない。強く握られた手が痛い。風間千景は何度も私の名を呼ぶ。ずっと、ずっと。噴出した汗と整わない呼吸、狂ったような鼓動、零れた涙。もう何が何かわからない。これが夢なのか現なのかも。極度の興奮状態だった。もう一度、風間が私の名を呼んだ。覚めない夢など無いのだろう。私の肺がただ酸素を求めている。詰まった様に胸が苦しく頭が重い。焦点が合えば見慣れた部屋。そして強く握られた手の感覚。…そこで
はこの世界が夢ではないことを知った。ここは現。妙に現実味を帯びたあの夢との境が、正直わからなかった。
「安心しろ。一体どうした…何があった」
先ほどの呼び立てる様な厳しい声とは打って変わり、優しく風間千景は語りかけた。呼吸の整わない私はゼイゼイと見苦しい呼吸音をどうにか整え口を動かし伝える。嫌な夢を…見るのだと。内容については触れずただ昔の嫌な夢とだけ。これ以上話したら心を保てそうになかった。私は夢について、或いはさっきの行動について風間に問い詰められると思っていた。いきなりあのような様を晒したのだ。誰だって状況くらい把握したくなるだろう。不安に苛まれる
を余所に、風間は女の手を優しく包み込んだ。先ほどの痛いほどの強さは微塵もない。
「案ずるな。夢は只の夢でしかない。お前が魘されたら何度でも起こしてやる」
そう言うと私を握る手に、僅かに力を込めた。夢。また“あの夜”の夢が襲ってくる。助けて…嫌だと、母上に許してと何度叫び続けたのだろうか。私には知る由もない。誰かが私を呼ぶ。それは母のもの?それとも風間のもの?わからない。
「…」
ゆっくりと意識が現実に戻ってきた。汗が滲む額は冷たいが手だけは温かいのだ。視線を向ければ男がいた。
の横たわる夜具には手もかけず、畳の上で胡坐を掻いたまま瞳を閉じている。眠っているのだろうかピクリとも動かない。ただ重なった手だけが繋がっている。正直、驚いた。あの状態のまま眠ってしまったことにも、風間がどこにも行かずにこの部屋に留まったということも。この手を解いてどこか好きなところへ行くことだって、自分の宿に戻り温かい布団で眠ることだって出来たはずだ。或いは眠ったままの私を手籠めにすることだって容易かっただろうに。しかし風間は私の傍にいた。この男の真意が掴めない。
「…起きたか。この汗は…夢に魘されたのか」
「─(大丈夫だ)」
何故私は“大丈夫”と言ったのだろう。無駄な心配をかけさせたくなかった?それともそれ以上深入りされたくなかった?わからない。「
」名を呼ばれて視線が交われば、男の瞳が優しく微笑んだ…ような気がした。それは些細な反応だ。勘違いかもしれないので如何するべきか戸惑ったが、やがて
も静かに眼差しで応じた。
…
‥
唐突に感じた空腹とそれを満たしたいという食欲に
は目覚めた。何故だろうか。今まで食欲なんて消え去ってしまったかのように、何かを食べたいなんて思わなかったのに。相変わらず片手同士繋がったままの風間は胡坐を掻いたまま眠っていた。彼を起こして「腹が減った」なんて言いづらい…というか恥ずかしくてとても言えない。気を紛らわすために天井へと視線を移すが、代わり映えもしない木目はもう散々見つめ続けたせいで見飽きてしまった。と言うか、“腹が減っては戦は出来ぬ”なんて良く言ったものだ。正直言ってじっと天井を見続けるほど落ち着いてはいられないのだ。それもこれも原因は空腹。
─グルグル あ、しまった!と思うのと同時に腹の虫が鳴いた。いや腹が鳴ったと同時に思ったのか。この際どちらでもいい。静かな部屋には良く響く鳴き声だった。一言、恥ずかしいに尽きる。恐る恐るかの男の顔を盗み見ると、目蓋を閉じ穏やかに眠っていた。整った呼吸が肩を揺らしている。…。
はほっと一安心した。
「随分素直な鳴き声だな」
「ッ!?」
声が出たと勘違いしてしまうような、そんな驚きであった。間違いなく風間の声だ。枕元から見上げれば、閉じていたはずの目蓋は確かに開かれて紅玉色の瞳が此方を見つめているではないか。その表情は何処か柔らかくそしてどこか呆れ果てているかのような。あの音で目覚めたのだろうか。というかそんなには大きい音ではなかったはずだ。多分。それか起きていた…??あの音を聞かれた事実に
は居た堪れなくなって夜具で顔を覆った。顔がどうも熱い。羞恥の熱に炙られているかのようだ。きっと耳まで赤くなっているのだろう。ただただ恥ずかしかった。
「食事を取るか。少し待っていろ」
それには何も答えなかった。夜具を被ったままで上手く聞き取れなかったからだ。それに、風間は自分の言いたいことだけ言って部屋から出て行ってしまったのだ。ほとぼりが冷めるのを待って顔を覗かせた時には部屋には私だけ。何だ、と若干ムッとした。そしてしばらくして男の気配が近づいてきたときには再び夜具に頭ごと逃げ込むことにした。「いつまで呆けている。温かいうちに食うがいい」暗闇。正確には被った夜具の中の世界だ。聞き取りにくいながらも風間の声がした。
「早くしろ」
「!」
いきなりに明るみに出されて動けないのは虫も私も同じらしい。籠城していた最後の砦(夜具)を引っぺがされて上半身を盛大に晒された。ただ、余りにその男に似付かず大胆な行為に、動けないのに加えて目を丸くして凝視してしまったではないか。何かの匂いに誘われ、畳の上に視線を寄越せば、蓋付きの汁椀が盆に乗せられちょこんと置かれていた。
風間が背中に手を添える。男の介助で上半身を起こした私はその体を盛大に預けながら胸元で大人しくしていた。抵抗する気も特には起らない。器用に盆を寄せた風間は、徐に汁椀の蓋を取ると箸で中の粥を掴み
の口元へと運んだ。食べろと言うことなのだろう。背に腹は代えられない。何より空腹を訴えていた
は、立ち上がる湯気と香りに誘われそれを一口に頬張った。柔らかく炊き込まれた粥は、米の粒が残っていながらも舌や歯ですり潰せば簡単に飲み込むことが出来た。
「(美味しい…)」
ただただ美味しい。米の味。何処からともなく湧き起こった食欲が私を支配する。そう言えば、里に居た頃は好きなものを好きなだけ食べて飲んで、遊んで、寝てたものだ。すっかり忘れていた。箸の先に乗った次の粥を一思いに口へ。噛めば噛むほど、甘さが出てくるような気がする。
「…フッ。米の味を思い出したか。そう簡単には忘れられまい」
食欲が戻ったことに機嫌が良くなったのか、風間の表情が柔らかくなったような気がする。思い込みかもしれないが。私が粥を飲み込んだのを見計らって次の一口を運ぶ。あっという間に一膳分を平らげてしまった。良く噛んでいたからかあれだけの量でも満腹になった。再び夜具に包まれる。
「この調子で夜も食べろ。先ずは体力を戻すことだ。俺はこれを片付けてくる」
背を向け起き上がろうとする風間の手をそっと掴む。遠ざかる存在を必死に繋ぐ。僅かに手が反応した後に男はゆっくりと振り返った。
「─(戻って、きて)」
「ああ。勿論だ」
本当は引き留めたかったが、行かないでとは言えなかった。風間は優しく微笑む。彼の瞳には今、私が映っているのだ。部屋を離れる男の背中は名残惜しそうに見えた。違う。名残惜しいのは私の方かも知れない。視界には変わらず襖が移っている。満腹になった
は重くなった目蓋を素直に閉じた。
*****
風間が部屋に戻ってくると当の彼女は眠っていた。久々の食事に満足したのだろうか。彼を引き留める為に差し出していた手はそのまま畳の上に残っていた。戻ってきてと言った本人がこの様だ。しかし怒る気なんて毛頭ない。穏やかに眠りにつく女の顔を見ていると怒りすら起こらないのだ。あのまま直ぐ眠ったのだろうか。様々な憶測が飛び交う。彼女の手を夜具の中に戻そうと、風間は指に触れた。
「!」
その瞬間、細く白い女の指が風間の手を僅かに握り返したのだ。まるで赤子のそれのように。意図的なものではなく反射的なものだ。眠る女鬼の顔を窺ってみると起きてはいないらしい。規則的な寝息を立てている。驚きを悟られずには済んだらしい。正直驚いた。取り上げた手指を自らの親指で撫でる。軽く握られた彼女の手が愛おしい。愛おしくて仕方がないのだ。居てもたってもいられなくなって、衝動的にその甲に唇を落とす。秘めやかな戯れ。ただ触れたかった。ただ愛でたかった。
願わくば、もう一度声が聞きたい。名を呼んで欲しい。何なら“婿殿”でも構わない。ただ声が聴きたい。新たな欲と衝動に苛まれながら、名残惜しくも白い手を温かい夜具の中へと戻す。寝返りをした女の首元から絹糸のような艶髪が滑り落ちる。
「
」
囁きかける様な独り言。彼女の名を呼んだのは何故だろうか。ただ呼びたかったから以外に理由など無い。呼び返してくれるなんて淡い期待などないはずだ。今日の予定は特に無い。このままずっと寝顔を眺めていようと決めた。再び彼女が目覚めるまで、或いは彼女を夢魔から救うまで。それから日が傾くまで目の前の女鬼は静かに眠り続けた。
食事をさせたのが功を奏したのか、彼女の失われていた食欲が戻って来たらしい。
は夜も粥を平らげた。食べる量が徐々に増えてきている。それから二、三日もすれば、起き上がるのには介助を要するものの起こした姿勢を維持できるようになるまで回復していた。
「失礼致します。少しお話が」
或る夜、
が寝静まった後のこと。掛けられた声に誰だと問うことも無い。背後に感じた気配は時折中の気配を伺いに来る女鬼のもの。しかし今日は何やら用事があるらしい。いつもは気配だけで声なんて掛からないのに。眠った女を起こさない様に「今日は何の用だ」と言えば、ゆっくりと開いた襖の向こうから菊月が姿を現す。
「手短にお伝え致します。姫様があと少しで京に戻られます。そしてもう一つは…」
畳の上に差し出されたのは手紙だった。達筆に書かれた文字は、見れば
宛のもの。恐らく里からの手紙か先に派遣した鬼達からだろう。風間がこの部屋を訪れた際には空を眺めているか本を読んでいるか手紙を書いているかしかしていなかったのに、この書状を見れば、彼女も里の長だったのが無理矢理にでも思い出される。今目の前で眠る
は一人の女鬼。そして鬼里の頭領。願わくばあと少しこのまま穏やかに過ごせないものかと考えてしまう。この手紙を渡せば…
は戻ってしまうのだ。
「これをこの俺にどうしろと?まさか読み聞かせろなどと無粋な真似をさせる気ではあるまいな」
「いいえ。お渡し下さればそれで構いません。一応、姫様からの指示ですので」
「あの女が…」
一体何を考えているのだろうか。風間には到底理解できなかった。
「我々がそうこうしている間にも、散り散りになった鬼達は一つになりつつあります。なのに北里の鬼だけが取り残されていては、“今の”彼女にとっても不本意でしょう」
「この女は…怖れている。それが何かは俺には到底計り知れぬこと。この女に無理矢理に長としての立場を自覚させるつもりか。随分荒治療なものだ」
鋭い眼差しで菊月を射抜くが彼女も負けてはいない。
「失礼ながら…原因を作った本人が何を申し上げるつもりか。殻は…外から破れば中まで壊れてしまう。仮に無事に外に出てきても未完全なままでは弱く消え細る。
様には自ら殻を破り立ち上がって頂かなくてはなりません」
「もう…戻ってはこれぬかも知れんな。フン…先の俺への無礼は無かったことにしてやる。手紙の件も受けてやろう」
「?」
それ以上何も言えなかった。無言の背中から何かを感じ取ったのか、菊月は頭を下げると襖を閉じた。遠ざかる鬼の気配。預った手紙は文机の上に置いておく。穏やかに眠る彼女の目尻から零れた一滴の涙に指を添え拭った。魘されている様子でもない
はただ眠っていた。
いつの間にか…彼女に興味を持っていた。最初はそう、ただの古の鬼の血を継いだ女鬼でしかなかったのに。風間という家にも屈せずに、頑なに北の里の長であろうとする姿。そんな彼女を振り向かせてみたいと思うのは風間千景としての自尊心か、あるいは男の性か。欲すれば欲するほど手に入らない事を思い知らされた。どうすればその心を手に入れられるのか、その術さえわからなくなった。そして…いつの間にか彼女の心の深く弱い部分に触れてしまい、罅割れた。取り戻したいと思うのに上手くはいかないのだ。
風間は苛立った。もちろん
に対してではなく自分自身の愚かさと自惚れ、そしてこの状況に、である。気分を落ち着かせる為に外の空気でも吸おうか、あるいは一人…酒を飲んで気を紛らわすのも悪くはない。と、そこで立ち上がりもう一度彼女の寝顔を眺めた後、部屋を出ていく。傍に居たい…ずっと見ていたいのに、心の奥底の感情が制御する。これ以上思いが募ればいつか暴走し、彼女を本当の意味で壊してしまうかもしれない。
久々に。ショック療法(違う)をゆるく。あれ?最初から読み直そう
20170926*星宮はちこ 裏語