そして鬼はいなくなった
【拾捌、どうして!】
眠りから覚醒が近づく時、徐々に現実の感覚が重なってくる。音や匂いやら皮膚の感覚に部屋の気配やら。どこか遠くから戻ってくるような浮遊感の後…
は鉛のように重い目蓋を開いた。
夢を見た。
暗く悍ましい過去の記憶なんかではない。ただ何がどうとか内容はイマイチ覚えていないが、明るく温かい印象が残っている。「
様…?」私を呼ぶ声がしたが風間のものではない。子供の…女の声だ。覚えのある声に、寝起きであまり働かないはずの頭が直ぐに答えを導き出す。雛。ついこの前に里からこの京までやって来た鬼だ。
「─(ひ、な?)」
「
様!!」
喉が渇いているからか満足に唇が動かなかった。声が出ないのは相変わらずだが、彼女の名を口で満足に紡げたのかどうかはわからない。言葉は無くとも、視線が彼女を捉えれば私が起きたのはわかったらしい。名を呼び、胸元にギュッと抱きついてくる。が、少し…重い。申し訳ないが重い。しかしそもそもなぜ彼女がここに居るのだろうか。以前、里へ戻るために京を送り出したばかりではなかっただろうか。
「お目覚めで御座いますか!!お久しゅう御座います。雛は里へ戻ってからも
様にお会いしたく思っておりました。
様に近況をお話しし暫く大人しく暮らしていましたら、突然京に向かうように再度密命を受けてここにやってまいりました!!」
返答も聴かずに一思いに喋った雛は、丸く可愛らしい目を向け私の言葉を待っているようだった。期待に満ちた無垢な瞳。
は彼女に何を託けたのか。そして、里には私に起こった事実、声を失った事を未だ知らせてはいない。つまり雛も知らないのだろう。彼女にまずどう告げるべきか。告げるべき声はもう持っていない。
「─(ひな。聞きなさい)」
「
様?」
読唇術を得ていない雛には私の言葉は伝わらない。それは当然だ。菊月と会話する時も掌に文字を書くのだから。雛は何が起こっているのか状況を掴めていないらしく、丸い眼をさらに丸くしている。このままでは埒が明かないと、菊月の時と同じように彼女の手を取るとそこに文字をなぞった。
【こえ を うしなった。ひつだんになる。
はそなたに なに を】
彼女にもわかりやすいようゆっくりと一文字一文字なぞる。雛は首を傾げ固まっていた。慣れていない者は掌に書かれる文字を読み取るのも困難なのだろう。紙に文字を記す本当の意味の筆談なら、見れば一目瞭然。しかし今は起きたばかりで筆も墨も用意がない。どうにか起き上がりは出来そうだが机の位置まで動けるのか、そして起き上がった体勢のまま文字を書けるのか問題は山積みだった。
「
様…雛は京へ行く密命を受けました。何でも体調がよろしくないとのことで身のまわりの世話を任されたのです。その…あの…もう一度私の名を、雛と呼んで下さりますか」
「─(ひな)」
声は出ないが彼女に見える様に唇を動かし彼女の名を紡ぐ。精一杯笑顔で呼んだ。その時の雛の表情は千姫の時と同じだった。何かを悟ったような驚きとそれに次ぐ絶望の顔。千に続き雛にまでそのような表情をさせてしまうなど何と罪深きことだろうか。どうやら事実を悟ったらしい雛は途端に大粒の涙を流し、私の胸元に縋り付いてきた。上半身を起こして抱きしめようと思ったが彼女が乗っかってきているせいで起き上がれない。彼女を抱いたまま起き上がる体力はまだ戻っていなかった。声を上げて雛が泣く。彼女を心配させまいと私は彼女の頭を優しく撫で続けた。
「うぐっ…
さま…これは、あの男が…原因で、御座いましょうか。ひぐっ」
「─(違う。違うんだ)」
雛にも解りやすいように首を振って否定をする。これは風間ではなく自身の弱さが生んだもの。罪には罰を。雛の涙を拭いながら優しく抱きしめる。
「もし…あの鬼が、
様に酷いことをしたのなら…雛は、雛はもうあの男を許しません」
唇で言葉を紡いでも今は彼女に伝わらないのだろう。興奮状態の彼女を落ち着かせるために、私には抱きしめてあげるしか術が無かった。優しい言葉をかけてやることも出来ない。言葉が伝わらないとはどうしてこうももどかしいのか。少女の頭越しに見えた天井を眺めながら、
はずっと心の何処かに抱えた虚空を感じていた。
─スッ
雛に気を取られていたからか或いはしばらく横になって感覚が鈍ったからか、気配を感じることも無しに突然部屋の襖が開いた。天井を見ていた
は咄嗟に気配がした襖の方向に視線を移した。
「
…所用でしばらく席を外した間に起きていたか。お前は…」
風間千景。そう言えば彼はずっと枕元に居たはずだった。しかし今日は代わりに雛がいた。胸元で泣いていた雛は男の声を聞くと、グッと苦虫を噛んだ表情で男を見上げた。私の瞳に映ったのは雛の憎しみと怒りに満ちた…夜叉の表情だ。
「西国の鬼の筆頭…風間千景!どうして!どうして貴方は私達の大切な方をこうも苦しめるのですか!どうして!どうして酷いことをするのですか!」
止めろ。止めてくれ。少女の悲痛な叫びに浮かんだ言葉はそれだった。それ以上風間に手を出したら…雛が死ぬ。私の首を以てしても罪は償えない。私の胸元から起き上がった雛は怒りに任せて、今にも風間に襲いかかろうとしている。彼女の手元には鋭い輝きがある。里の女に持たせることになっている護身用の匕首は、
が託したものだろうか。
は鉄砲の様な勢いで向かう雛の手を必死に、縋る思いで掴んだ。彼女の進行する勢いによって横たわった
の上半身が起き上がる。
の掴んだ手と彼女が起き上がった反動で、雛は後ろに引かれ体勢が崩れる。全ての出来事は一瞬だった。
私は、起き上がった勢いで体勢を崩した雛を必死に抱きすくめ彼女の行為を止めた。肉に何かが刺さる鈍い音と裂ける痛みが広がるが気にしてなんていられない。どうやら匕首が私の脇腹に刺さったらしいが傷なんて直ぐに塞がる。寝ていた布団には赤い染みが広がっていく。腕の中でもがき暴れていた雛も私を刺したことに気付いて動揺し、途端に脱力すると声を震わせていた。風間を襲おうとしたことは大問題だが、私を刺したことに対しては雛を怒る気は無い。
「うっ…
さ…ま?どうして…止めるのですか。はっ!?これは…雛が…あっ…雛が…。
さ…ま…ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…」
壊れた絡繰りのように同じ言葉を唱えながら嗚咽を繰り返し、雛は泣いていた。此処で見捨ててしまえば本当の意味で彼女は壊れてしまう。脇腹に手を添えれば疾うに傷は塞がり噴き出た血が指先を汚した。布団はもう使い物にならないだろう。血で汚れた指先をぼーっと眺めた後に、力なく胸元で泣きじゃくる少女の掌にこう書いた。
【すまない。これでいいのだ】
その字を見て一層少女の嗚咽が大きくなる。掌に書く場所がなくなってどうしたものかと考えた後、彼女の袖を捲って現れた腕の内側にこう書き足した。
【大丈夫。ありがとう。ひな】
彼女の背を撫でながら落ち着かせる。視線を見上げれば紅い双眸と交差した。雛は未遂とは言えついに風間を襲った。これは重い罪だ。本来ならば雛はその場で斬首。私も責任を取って首を差し出さねばならないだろう。後は告げられるまま罪を償うだけだ。
「小娘…気が済んだか。これ以上、身勝手な行動でこの女と里の鬼を追いこむのは止めろ。今回の件…本来ならば許されるはずもなく斬首。だが特別に目を瞑る。言っておくが次は無い。俺が憎いのなら本気で殺しに来い」
見下ろす瞳は笑ってなどいない。抜身の刃が雛の首元に突き付けられている。泣き顔の少女は静かにそれを受け入れ頭を垂れた。両手を畳に着け土下座をする。
も里鬼の無礼を詫びる意味で頭を垂らそうとするが「お前はいらぬ。関係ない」と突きつけられてしまった。
「風間様。此度の無礼…本来ならばこの命を以って償う所、お許し頂き感謝至極に存じます」
「フン。いついかなる時に俺を殺そうとしてもその前に俺が殺す。力の差は見極めておけ」
そう言うと風間は半身を起こした
の背後に回り込みその肌着に触れると斬られた傷を確認した。男の指が肌を掠める。脇腹と言う位置も相まって、どうも恥ずかしく感じた私は身を捩った。しかし男はそれを許さず「大人しくしていろ」と言った。鬼の傷は直ぐ塞がるその事実は彼も知っていよう。なのにどうして彼はそこを確認しようとしたのか。不信感丸出しの視線で男を見つめれば一言。
「確認だ。傷が残ってしまっては大問題だからな」
「へっ…変態!声も出せない
様のお体を弄ぼうなど言語道断!」
「おい小娘。貴様…俺は先ほど次は無いと言ったはずだが」
「言っときますが、雛も貴方と
様の関係を認めたわけではないです!これは
様が仕方なしに受け入れて、何も言うなと雛におっしゃったから…今のところは黙っているのです」
夜具に包まれる私を挟んで風間と雛が言い合っている。しかしそのどれもが先ほどのように緊急性のあるものではない。どちらかと言えば掛け合いのようになってしまっていた。一体何なんだこれは。
「口の減らぬ小娘が。何ならここで仲睦まじい姿見せつけてやらんこともない」
「これ以上触れないでください。見ないでください。
様のお世話はこの私が仰せつかっているのです。これ以上見るなら…
様がへっ…減っちゃいます!」
「鬼が減るなど有りもせん。そこまで愚かとは…北の里の学も知れたものだ」
「雛には学ぶべき事が残っているだけです!時々寺子屋サボっているだけで…里の皆は才女ばかり。
様に
様…燦様に琴音様に瑠璃様に!竹姉に志乃姉に、雲雀(ひばり)ちゃん鶫(つぐみ)ちゃんに椋(むく)ちゃんに駒(こま)ちゃんも!」
「お前と話していると疲れる。これ以上喋るな」
「うっ…」
どうしてだろう。この風景が面白くて…おかしくて仕方がないのだ。雛が風間に対して失礼なことを言っているのは解っているが怒る気にもなれない。それほど低次元の話。まさか風間がこのような子供染みた喧嘩をするとは思わなかった。気が付けば私は笑っていた。微笑ではなくクスクスと。声を上げることも出来ないが、喉の奥、腹の底を震わせて。生理的に零れる涙を目尻に溜めて。
「「…」」
四つの瞳が私を見ているのは知っていた。しかしどうにも止まらない。ばつが悪くなった風間は、フンと鼻で笑いながらもどこか優しい眼差しで
を眺めていた。雛は「
様!」と名を呼び再びその胸元に飛び込みニコニコ笑っている。風間にとって
が自然に笑っているの見たのは初めてだった。これまでに会う時はずっと風間家当主と北の里の長。また今日は良きものを知った。その笑顔が欲しかった。そしてそれが自分に向けられるようになって欲しいと…少しばかりの欲が生まれる。彼女がどのような選択をするのか。道は準備した。選ぶのは彼女自身だ。
「ところで
様、床に伏されてからどれほど時間が経ちましょうか。よろしければ雛がお体を清めさせて頂きます」
「丁度いい。布団も着物も代えさせよう」
ふらりと立ち上がると男は襖の前に立った。
「身を清めたら俺を呼べ。少し話がある」
彼の瞳からは何も読み取れない。こくりと頷けば男は部屋を出て行ってしまった。私はその時忘れていたのだ。大切な事実と犯した過ちそして使命を。雛が嬉々として体を拭う準備をし始める。どうしてだろうか、
は風間の横顔が気になって脳裏から離れなかった。
鬼娘は将来大物になりそうだ。里の鬼さんの名前は色々な響きから。幼い子たちは鳥の名前から。
20171008*星宮はちこ 裏語