そして鬼はいなくなった
【拾玖、お前が心を差し出す術を知らぬのなら】


体を拭き清めた私は新しく用意された布団に横たわっていた。その傍らには風間千景。雛には少し席を外して貰っている。変わらない部屋なのに今日は一段と空気が重苦しく感じられた。静かな部屋に風間の低く艶やかな声がポツリと零れる。

「俺は…契りを違えたとは思っていない」
「?」

はて、今この男は何と言ったのだろうか。唐突過ぎて意味が理解できなかった。私はまるで豆鉄砲でも食らった鳩のように間抜けな顔をしているのだろう。はジッと風間を見つめる。喜怒哀楽…その全てにも当てはまらない淡々とした男の眼差しには、覚悟だけを宿しているように思えた。「お前の代わりは幾らでもいる。それは事実だ。俺の血を欲する鬼は多い」静かに男は続けた。その言葉はまるで焚かれた香の煙のように、空間に溶け込んでいく。



「心など後から付いてくると思っていた。風間という“家”は絶対的なモノ。お前にはそれを否定する意味も受け入れぬ理由もないのだから。だがお前は俺を…風間を遂には受け入れなかった。…お前が心を差し出す術を知らぬのなら、俺もお前の心を奪う術を知らぬ。これ以上いくら時間を重ねても我らの関係は平行線のまま。だから互いにとって…いやお前にとって最善の道を示したに過ぎぬ」



それは婚姻を白紙に戻してしまうということ。そうなってしまえば私がここ(京)に留まる理由もなくなるのだ。そして…里の鬼が人と隔絶する道を絶たれるということ。と、浮かんだ言葉がが脳内を巡る。不安はどうも表情に出ていたらしい。


「案ずるな。お前の里鬼は全て受け入れる。長として…自治権を認めてやる。妹鬼を預かることもない。どうだ?これで…お前の心に杞憂は無くなっただろう」


そう。里の鬼の受け入れにの自治、妹鬼の安全…条件の全てが揃っている。ここで首を縦に振ればいいのだろうか。最初の交渉でうまく事が運んでいればこうなるはずだった。そして早々に里へ戻り、移住の準備を進めているはずだった。だが、私が受け入れたのは“この選択”ではないはずだ。全てと引き換えに差し出したのは…自分自身。つまりは風間千景との婚姻。それを受け入れきれなかったのも自分だった。なんて罪深きことだろう。風間が示した新たな選択肢は…ただの私への憐みにしか過ぎない。鬼は…約束は必ず守る。こんな結果を私は望んでいたのだろうか。最早わからなくなってしまった。




「少し…考えるがよい。お前自身の意思を俺は尊重する」




無意識に、立ち上がろうとする男にそっと自身の手を伸ばして…触れた。風間は立ち上がるのを止め静かに座り込む。と同時に、細くしなやかな男の手が優しく私の掌を包み込んだ。温かい。

「お前が自ら俺に触れるのも二度目。あれだけお前を欲していたはずなのに…今では壊すのを恐れて、触れるのさえ億劫になる」
「─(婿…殿…)」

包み込まれた手に男の唇が触れ、引かれて頬が触れ再び唇が触れる。かの肌は滑らかな絹織物のように滑らかだった。


「一つだけ答えろ。俺が組み敷いた時…お前の瞳は怯えていた。だがお前の瞳は深く…俺を捉えてはいなかった。あの時お前は何を恐れていたのだ」
「…」


その言葉を聞いて、風間の赤い眼差しを見つめるのが怖かった。私を苛むもの。答えは確かに自分の中にある。それは…あの時の記憶。痛み。恐怖。幼い私はそれらの記憶を心の奥底に閉じ込めて、隠して、見て見ぬふりをした。それが良かったのか悪かったのか…今でも判断は出来ない。このことを風間に伝えるべきなのだろうか。蔑まされたりしないだろうか。存在を否定されたりしないだろうか。それすらも恐怖でしかなかった。繋がれた手の温もりを頼りに、ゆっくりとは口を開いた。



「─(夢を…見るのだ)」



嫌な夢だ。私が元服を迎えた日のこと。母が私を女に仕上げた夜こと。この肉体に刻まれたのは快楽よりも、痛みと恐怖だったこと。私が好きだった母もこの身を捧げるであろう男鬼も、その行為さえも怖くなったこと。心の奥底に隠していたこの記憶が蘇ったのは、あの時の風間があの夜の母の影と重なっていたからだ。組み敷かれ見下ろされる冷たい瞳はそう簡単に忘れられるはずがない。いつかは婿を貰いこの身を許す日がくるはずだった。なのに恐怖を覚えた私は無意識に心を閉ざし恋と言う感情さえも押し殺してしまったのだろう。いつの間にか“恋”というものがどういうものなのか理解できずにここまで来てしまった。今でもわからない。と、声にならない言葉で紡いだ。私を見つめたままピクリとも動かない風間を呼ぶ。


「俺はお前を傷つけた…その事実に変わりはない。だが俺にはお前を貶めるつもりは無かった」
「…」
「意も無き女を無理に娶りはしない。俺の意思は、お前が一人の女鬼としてただ笑っていればいいということ。さっきの問いに対するお前の意思は、後日改めて聞く」


そう言い切った男の手を、少し力を込めて握った。



「─(行くな。今は寂しくて…仕方がない)」
「俺が引こうとするのをこうも容易く引き留めるとは。お前は…まったく罪な女だ」



自分の弱さをさらけ出すと途端に不安で仕方がなくなる。誰かに傍に居て欲しかった。誰かに触れていて欲しかった。この不安を拭い安心させられる存在が欲しかった。それが出来るのは今この場所では風間千景だけだったに過ぎない。なのにどうしてだろう。声を失い彼を引き留める手立ては「手を掴むこと」しかないはずなのに…無意識に呼んでいた。引き留める様に彼の名を初めて口にしたのだ。

「─(千景)」
「…?」

他に呼び名はあったはずだが自然に出てきた言葉がそれだった。そして彼の読唇術は私たちの間に何も障害を生み出さなかった。日常会話なんて容易く、時に難しい単語も伝えることが出来ていたのに。たった三文字。風間自身が最も理解している単語なはずだ。なのにそれは彼に届かなかった。伝えられなくてこんなにも焦燥に駆られたのは初めてだった。動揺が胸を打つ。もう一度…呼んでみた。



「─(婿殿)」
「ああ。この俺を呼びたかったのか」


そうだ。風間のことを呼んでいた。伝わらないことを恐れて結局はいつも通り。しかし“婿殿”は安易に理解してもらえるらしい。こういう時に限って大切な言葉は伝わらないというのは、何て苦しいのだろう。再び生じた心のわだかまりを悟られないようは視線を逸らした。


「この時間を無くすのは惜しいが…八瀬の女鬼の従者からこれを預かっている」


風間が手にしていたのは宛の密書であった。何故彼がそれを持っているのか…という疑問の刹那、私は今まで見失っていた“北の鬼里の長”であることを思い出した。咄嗟に体が反応し残った体力を振り絞って起き上がろうとした。同時に意識したのは仕事を怠っていた空白と言う新たな罪だ。体中の力と血がサァーッと抜けていくような感覚をどうにか払い、書状に手を伸ばす。指が震えているようだ。簡単には開けないよう特別な封がされているそれを慣れた様子で開くとそこにはの字が広がっている。




“拝啓 之君
 頼りが途絶えたと思い心配になっていたところ八瀬之千姫より手紙を預かりました。京に長く留まっている理由は一応この私も承知の上ですが、貴女の所労を知らされ居ても立ってもいられなくなりました。里の長であり、之当主である貴女は私と同じ一人の女鬼です。貴女が今、負うべきものが多すぎるのです。風間千景と言う鬼の噂は我らの耳にも入って来ています。我らの受け入れの代わりに、本当にその鬼の元へと嫁ぐつもりでしょうか。もう一度考え直して下さいませ。もし、貴女が真にその鬼の元へ行くとおっしゃるのならば誰も止めはしませぬ。しかし一片の迷いを持っているのならば、その道を歩んではなりません。貴女の決断が何を生もうとも我らはそれに従うしかないのです。どうか後悔なさらぬよう、もう一度考え直して下さいませ。
 我らの鬼達はもう最果ての地に辿り着き、一族の移動を待ちわびていると伺っています。貴女がそのような状態では皆が道を失い迷っていました。それもこれも貴女を慕い頼っていたからなのです。我らは貴女の杞憂を無くすべく、これから我らと彼らがどうするべきか、今後の事を里の皆で話し合いました。勿論、先遣之鬼達にも頼りを送りました。勝手な真似をお許し下さい。責任は私が負います故どうか皆を叱らないで下さい。そこで一つの案が出ました。もうすぐ秋が終わりあっという間に冬がやってきます。冬の雪深い中では一族の移動など出来ません。そこで今年は最後の冬を越し春と共に皆で旅立ちましょう。越冬の準備はまだまだでしたが、この話し合いの後、皆が奮起し早急に冬支度を始めました。今までにない早さで整っています。そして何より、散々我儘に過ごしていた妹君達も、綿入れの手伝いを申し出てくれました。何と言う成長でしょうか。皆が力を合わせれば何だって出来るのです。先遣之鬼達も見ず知らずの地で、余所の鬼と力を合わせ冬を越し、貴女が我らを率いて来るのを待つと言う決意を固めてくれました。後はどうか貴女の決断次第なのです。どうか少しの間、何事にも囚われずにご自身のことをお考え下さいませ。貴女からの返事をお待ちしております。
 本来ならば私が赴き納得するまで話し合いたいところですが、貴女がいないこの地を私まで離れるわけにはいきません。この手紙の後で雛を向かわせることにします。彼女には貴女の身辺の手伝いをするよう申し付けています。何なりと使ってあげてください。
 どうか貴女の御悩が少しでも早く過ぎ去りますように。そして一刻も早く里へ戻られますよう神にでも祈ることにします。
 




所狭しとこう書かれていた。
私が己の仕事を投げ出していた間に、彼女たちは自分たちの歩むべき道を選び出したのだ。自らの何と浅はかなことだろうか。恥ずべきことだろう。彼女たちの出した答えに私がとやかく口出しをするつもりはない。何より良案だとも思う。出来る限り早く…私は自分の気持ちに整理をつけて風間との関係に決着をつけなければならない。今は未だ答えに辿り着ける見込みはないが。そしてどの選択をしても里へと戻るのだ。彼女たちを安住の地に導くために。
不安と恐怖が続いた後に訪れた少しの安堵からか、今度は本当に体中の力が抜けそうになった。起こした上半身を支えられなくなって後ろに倒れそうになる。が、訪れるべき衝撃とは別の感覚が背中に走った。包み込む様な温もりに顔を上げれば風間と目が合う。どうやら後ろに倒れ込む私を受け止めたらしく、今は男に抱き留められていた。振り払う気も何もない。はそのまま大人しく男に体を預けることにした。

「お前の密書を盗み見る気は無いが…」

耳元で男の声がする。甘く低くどこくすぐったいような。
盗み見る気はないといっているが、風間はどうやら手紙の内容が気になるようでジッと私の目を見て放さない。里の事、自身の事…重要であるが隠し立てするようなことでもないと、彼の目を見ながら口を開いた。


「─(皆に心配をかけてしまった。しかし、私がいない間に里の皆は彼ら自身の道を導き出した)」


これからやって来る一冬の間…時間を貰い来春に一族の移動を行うという選択肢を貰ったこと。も彼ら自身の選択を尊重したいという意思も口にしていた。彼らは良くやってくれたのだ。しかし…

「─(踏み出せてないのが私自身だけとは)」

踏ん切りのつかない自分にまた嫌気がさした。自分を変えられるのは自分しかしない。それは解っている。このまま風間に嫁ぐかどうか。一冬の期間は長いのだろうか短いのだろうか。春を迎える頃…私は答えを出せているのだろうか。全部わからない。



「お前の里の鬼達は賢明だったようだな。里長が機能しなくなった後に愚かな抗争を生み自滅する者も少なくはない。窮地に立たされた時にこそ伸びるものもあろう。皆、お前の決断と帰りを待ちわびている。一冬の猶予があるなら…その喉を養生させ、先の問いに対する答えも出せるだろう」
「…」



男の瞳を見ながら静かに頷いた。抜けた力がゆっくりと戻ってきたことに気付いたは、早急に里と先遣の鬼達に手紙を書こうと思った。それにはまず墨と筆の用意をしなくてはいけない。机の近くに文箱があったはずだ。勘のいい風間は私が文を書こうとしているのを悟ったのだろう。何も言わなくても手際よく準備を整えている。あっという間に紙が広げられた。「内容は見ぬ。見たとしても口外はしない」と言い張った風間は相変わらず私の姿勢を支えてくれていた。重要であるが機密事項などは勿論書いていない。手紙には先ずは詫びと里の選択に対する私の意思、最後に礼を書き連ねた。


「あの、様…」
「!?」


しまった。彼女の存在を忘れていた。申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも振り返る。呼び入れようにも声が出ない。私の反応を見ていた風間が入室を促した。雛が手紙を書く私とそれを支える風間の構図を見て一悶着あったのだが、今は私達の後ろで大人しく座って待っていてくれている。書き終わった紙を綺麗に折り閉じると、雛に鏡台の引きだしから物を取ってくれるように頼んだ。快く応じた彼女はそう物のない引きだしから小箱を取り出すと私の手元に運んでくれる。中身を確認すれば暫く必要の無かった綺麗な簪が一つ。珊瑚の玉飾りが付いたそれは里から持ってきたものだ。

「…簪か」
「─(里の皆に詫びと礼がしたいのだが。今の手持ちはこれしか。とりあえずに…な)」

いつか雛にも贈るという約束をして手紙と小箱を風呂敷で包む。風間が信頼のおける京の鬼を呼んでくれたのでその鬼に頼むことにした。手紙を里まで運ぶと言い張っていた雛のご機嫌は余り良くないようで、ふて腐れた様子でジッと風間を見ている…いや睨みつけている。


「部屋に籠っていても気分は晴れんだろう。遠出は出来んかも知れぬが…外に出るか」
「─(外?)」
「先ずは食事を十分に摂り体力を戻し、歩けるようになってからだが」


この部屋に籠ってどれほど経ったであろうか。最早覚えていないくらいだ。起き上がりは出来るが立ち上がるには力が足りない。風間は意気揚々と“明日からの特訓”を言い放つとすかさず雛が「私が世話をする」と言い張る。少しの間睨みあっていた二人であったが、風間も意見を突き通さず折れることを覚えたらしくそこでようやく収まるのだった。


ちーたんの譲歩と主人公の曖昧さ。
20171014*星宮はちこ   裏語