そして鬼はいなくなった
【弐拾、隣に並べ】
角屋の一室では朝から騒動が起こっていた。
「
様!もうちょっとです!!」
「─っ!」
部屋の荷物を端に寄せ、私は再び歩き始める練習をしていた。病床に臥せ少しばかり時間が経ち過ぎた。自分ではそう衰えてはいないと思ったが体は正直で、頭で思い描いている通りにはなかなか動かない。先ずは膝で立つこと、次に両足で立ち上がること。壁に手を添えながら両ひざで体を起こす。ふら付きながらも難なく起き上がれた。次はこのまま足を滑らせ足裏を地に着け両足を踏みしめるのだ。雛が支えになってくれたお蔭で、まるで生まれたての仔馬のように小刻みに震えながら立ち上がった。重い体と力の入らない足腰。壁に手を付き雛に補助してもらいながら踏ん切りをつけて立ち上がったのだ。立てた…と思った矢先、重心が偏り前のめりの体勢になった。普通なら咄嗟にもう一歩踏み込むかして体勢を立て直すだろう。だが体が思う様に動かない。足が縺れてそのまま倒れる…と思った。しかし近づく畳を遮り視界に広がったのは薄い色の着物。鼻腔に届いたのは薫香。感じたのは温もり。
「頭に体がついて行っていないのだ。このままだと何度やっても同じ。先ずは足を意のままに動かす練習をしろ」
いつの間にか部屋に入ってきている風間に抱き留められていた。しかもちゃっかり仔馬姿を見られてしまっていたらしい。ただ恥ずかしくて彼の腕の中俯くしかなかった。顔が熱い。そんな心情を知ってか知らずか風間にゆっくり抱き起された後でいつもの物見場に座らされる。座っているのは楽だ。雛は突然の風間の訪問に驚き、何やら文句を言っていたが肝心の男は彼女の扱い方を覚えたらしくあまり突っかかりはしなかった。雛の方も一通り絡んだ後は大人しく正座し、此方を見つめている。風間は私が座ったままなのを見計らって足袋に手を伸ばし優しく触れる。まさかそこを触られるとは思っていなかったので触れられた瞬間とても驚いた。しかし彼は一体何がしたいのだろうか。足袋越しに足の甲を指でさすり始めた男は、腰を降ろし足が自由になった
の足をまるで歩いているかの様に前後に動かす。
「?」
「
、歩く動作は単純に前後に動かすだけではないが…先ずは足裏で感覚を掴め」
なるほど。座っていると足裏…実際に床と触れ合う部分の感覚が鈍ってくるということだろう。足先に意識を集中させ畳に擦れる刺激を感じていた。足袋越しでは滑りが良いが指がどうも動かしにくい。
は思い立って僅かに屈むと足首に手を伸ばし足袋を閉じている留め具に手を掛けた。片手で紐を器用に外すとしゅるりと音がするように滑らかに外れていく。次は反対側…と、こちらは上手く外れず何度が留め具を触っていると横から手が伸びてきて足袋が外された。大人しくそれを待っていると間髪入れずに足の裏の一点をグッと押してきた。
「ッ!!?」
痛い!と体が反り上がる。反射的に動いた体で思わず蹴り上げるところであった。涙が滲んだ目で風間を睨みつけると「古より経穴を突けば良いと聞く」と言うではないか。経穴の件は私も耳にしたことがるがさっきのは確かに痛かった。確実に“そこ”にあるというのか。さきほどほど強くはないが風間は何度か足裏の点を押さえていた。しばらくすると足の指がさっきより軽く動く様になった気がする。僅かに熱を帯びているようにも感じた。男の手が離れた足を畳に着けば、地を踏みしめているという感覚が強くなったようだ。
「立てるか?」
「─(やってみよう)」
手を引かれ勢いに任せて足に力を込めた。二本足で立ち上がったは良いがやはり勢いが強すぎたようだ。バッと前につんのめったが立ちはだかった風間が身体ごと支えてくれた。私達は正面からお互いに抱きかかえる形で部屋の中で立っているのだ。しかしこのままでは立っているだけ。
「右足だ」
「─(みぎ)」
「次は左足」
「─(ひだり)」
彼に言われた通り右足を、次は左足を、足と足裏の感覚を意識して前に差し出し重心を移動させる。するとどうだろう。さっきよりもずっと足が床を捉えているような気がする。右足、左足。風間の言葉を脳内で反復しながら
は二歩三歩と補助されながら歩き出した。食欲が失せた時と同じように、体が覚えた歩行と言う動作はそう簡単に忘れはしない。感覚さえ取り戻せば、後は体を支え動かす体力があれば問題ないだろうか。
「この調子ならば二、三日続ければ歩けるようになろう」
「─(努力しよう)」
抱き合わせた状態ながら声の届かぬ今、思いを伝えるには口の動きしかない。顔全体が見える様に少し頭を引いて彼の紅の瞳を見つめた。時に鋭く、時に優しく、一点の曇りも無く…美しい瞳だ。言葉を無くしてもこうして言葉を伝えられることは何と素晴らしくありがたいことなのだろう。しかし彼の瞳を見つめていると何故だろう胸が熱くなる。変な感覚だ。悟られぬようにニコリと笑いながら視線を落とした。
何度か部屋中を歩き回る練習をした後で風間は所用で部屋を後にした。このまま部屋に居たかったらしいのだが頭領としての仕事がまだあるらしい。その名残惜しそうな様。どのように表現できるだろうか。不覚にも笑ってしまった。仕事が終わり次第ここに戻って来るらしいがいつになるやら。残った
は復習とばかりに、再び雛の介助を受けて立ち上がり部屋をゆっくりと歩きまわっていた。
「
様」
呼びかけに首を傾げてみると雛は何やらもったいぶった様子で、おずおずと言葉を探しているようだった。どうしたのだろうか。「
様は変わられました。雛が先日ここに来たときよりもずっと」再び首を傾げる。私の疑問は口の動きで無くとも雛には伝わったらしい。
「どうしてでしょうか、雛にはわかりません。今までよりもずっと優しいお顔をされているような気がするのです」
「…」
それは私自身も意識は無かった。一度、確かに絶望したのだ。過去の記憶が蘇り苦しんだのに優しい顔とはどうもよくわからない。ただ…言葉を無くしてから相手の瞳や表情をジッと見つめるようになった。すると意外と表情の変化に気付くようになる。或いは知らなかった一面を知ることができる。声以外で相手に伝えるには色々と手段が必要だったから。
「風間千景。偉い鬼だと言うことは知っていますが、
様の一件もあり、雛はあの男がどうもいけ好かなかったのです。でも…」
雛はポツリと声を漏らした。
「あの男が何だかんだ絡んできて優しく笑っている
様を見るのも…いいなと、雛は…思います。でもそれは認めたわけでも何でもないのです。雛の気持ちは
様のお気持ち次第なのですよ」
ニコリと笑う少女を愛らしく思った。里の末娘はまるで可愛い小鳥のようではないか。長い言葉は伝えられないので適当な紙に文字を書く。墨は準備がないので水で。書いてしばらくすれば消える代物。滲むので墨ほどは正確には伝わらないかもしれないが。
“外に行ったら雛にも礼をしよう。先ずは練習だ。雛、付き合ってくれるか?今日はこのまま歩き、最後は階段を降りよう”
「はい!喜んでお供致します!」
少女の笑顔が眩しかった。心から私も笑顔になった。それから日が暮れるまで特訓は続いた。部屋中を歩いて遂には廊下に階段。最初は止まった様にゆっくりと、最後にはやっぱり遅いが難なく一人で階段の上り下りが出来るようになった。寝込んでいたままの状態からすれば随分回復したと思う。起き上がってもうどこへでも行けるのだ。特別何処かへ行く気は無いが。日が暮れ風間が再び角屋を訪れた時には、気配を頼りに部屋の入口まで迎えに行ったくらいだ。肝心の鬼は眼を丸くしていた。その様を見て、雛と二人で笑ったくらいだ。
…
‥
数日後のある日。
何事も自分の思い通りにいかないことを思い知りつつ、
は部屋を散らかして焦っていた。動ける様になってから風間と外出の約束をしたのが始まりだった。久々の外出だ少しばかり気合が入るのも無理はない。豪華絢爛に飾ってやろうとかは思っていない。ただ外を歩くならせめて小奇麗な恰好でもしようかと思ったのだ。選ぶほどもない着物を決めるのは早かったが髪留めが中々見つからなかった。髪結いは面倒だからしないのだが、下げ髪のままなのも野暮ったくて落ち着かない。いつも使っていた簪は先日
に贈ったし、引きだしの中にあるものはどうも着物と合わず浮いてしまう。里から持ってきたものが他にあるはずだ、何処かに仕舞っているのだろうと部屋中を探しまわっているのだ。しかし思い当たる場所には見つからなかった。これはもう焦るしかない状況だ。このままでは仕度が整わないまま風間が訪ねてきてしまうではないか。それまでには見つけようと数少ない荷物をひっくり返す。そこにも見当たらない。
「俺だ…入るぞ」
しまった。そう浮かんだのと風間の声がしたのはほぼ同時であった。散らした荷物がまるで鳥の巣の様で、その真ん中で振り返った私は、豆鉄砲を食らった鳩の様に目を丸くした鬼と視線が合う。中々間抜けな展開だがそのまま二人固まってしまった。
「何をしている」
「─(…髪留めを)」
探しているのだ。散らかった荷物と私の顔を交互に眺め、何も言わずにスタスタと男が部屋に入ってきた。私の隣まで歩み寄ると腰を降ろし手つかずの包みに手を伸ばした。布包みを開くと小さな木箱が姿を現す。その中に入っていたのは漆塗りに金の蒔絵が描かれた櫛だった。男が手に取ったそれを背越しに見ていると、突然男が振り返る。何も言わずに男が玉結びの結び目にそれを差したのだ。
「これで良い。俺と同じ薄い色なら濃い飾りが生える」
「…」
「行くぞ」
その場に立ち上がった男の優しい目が私を捉えた。
部屋に籠ってから幾ばくの時が経ったのであろうか。相変わらず京の町は活気豊かで、通り過ぎる人々の表情も明るい。私が置いて行かれただけか或いは忘れていただけか。しかしそれは変わらずここに存在していたのだ。
風間千景は飄々と先を歩きその後ろを私が追っている。歩けるようになって数日しか経っておらず、足の動きも遅いので思い描く速さで進めないのだが、私の前には必ず男の背があった。普段はもっと速いだろうに。恐らく気を配ってかわざと速度を落としているようにも思える。私だって、頭の中では馬のように駆けることすら容易いのに実際は牛の歩み。しかし焦りが生じないのは確かな背を追っているからだろう。「幕府が倒れても京の人間は相変わらず剽軽なものだ」その言葉と共に男が足を止めた。道の真ん中で何だろうか。それに続き
も足を止める。
「隣に並べ」
「?」
「今のお前は危なっかしいことこの上ない。それに顔が見たい」
そう言われたら仕方がない。私はそっと男の隣に歩み寄り風間と肩を並べた。
が隣に辿り着くと男は表情を僅かに和らげ、二人、ゆっくりと歩み出した。
「今日は少し足を伸ばし嵐山まで行く。歩けるか」
「─(大事無い)」
「慣れぬ道だ。疲れたら言え。駕籠を使う」
「─(ああ)」
隣に並べば男の表情を覗くことが出来る。意思を伝える手段として口の動きと視線を使っていた私は自然と風間の顔を見上げていた。向こうだって同じ。風間も私の顔を見ながら会話を進める。私たちの間には、秋の深まりと冬の訪れの話題が行き交う。いわば仕事の話は挙がってこなかった。正直なところ、その話題が出てしまえばそれまでで、その話が進んでいたであろう。しかし互いに触れることはない。蒸し暑い夏が過ぎ、生い茂った緑の山々は衣替えをして黄や橙や紅に着飾っているのだろう。今日の目的地の嵐山は紅葉の名所。この時期は遠くから足を運ぶものも多いと聞く。街道の活気も相まって気分が高揚してくる。久しぶりの外の世界にしては十分いや十二分も楽しんでいるだろう。
寺や神社の土壁沿いを抜けると川に出てきた。空に抜ける山際は色取り取りに美しく、なだらかに広がる桂川に掛かる橋はかの有名な渡月橋だろうか。足を進めるごとに肌で感じる空気が心地よい。
は胸に詰まった空気を入れ替える。隣に並んだ千景がポツリと漏らした。
「人間の世はかくも愚かで浅ましいと思ってきたが、この風景を愛でる感性は悪いモノではない」
「─(婿殿)」
横顔を覗き込んでみると、その視線は遥か彼方色づいた山々に注がれているようだった。目を細め風を受ける男鬼の様は一言で言うならば美しく、付け加えるなら儚く、凛々しく。それ以上は言葉に詰まってしまった。
「おい。聞いているのか」
意識を飛ばしている間にどうやら話しかけられていたらしい。肩をビクリと震わせて視線を合わせれば、呆れた様子で軽く笑われた。
「言葉は交わせずとも反応がないと不安になる。この俺を…このような有り様にさせる女など」
「?」
「先も言ったが今のお前は危なっかしいことこの上ない。故に、俺の目の届く範囲に居ろ」
「─(わかっているさ)」
心配して貰えるのはありがたいことだ。そう心に留めて、再び歩み始めたのだが隣の気配が遠のいたような気がした。気になって後ろを振り返ってみると風間が立ち止まっているではないか。何かあったのだろうか。それも片手を僅かに上げ前に出しているようにも見える。
「やはりあの髪飾りはお前の髪に映える。俺の感性も悪くはない」
固まっていた男は暫しの沈黙の後、頭を振り、いつもの調子で口を開いた。
触れたい男、気づかぬ女。
20171025*星宮はちこ 裏語