そして鬼はいなくなった
【弐拾壱話、雨が降る……か】
緩く歩みながら我々は嵐山にたどり着いた。人の合間を抜けて歩いていると神社や寺に囲まれた小径へ。二人、山際に抜けると人の気配を感じさせない竹林に迷い込んでいた。しかし誰かが通るのだろう。ひっそりと佇む鮮やかな緑の世界には確かに小さな道が伸びている。外の雑踏とも紅葉の赤の世界とも異なるここは、まるで異世界とでもいうべきだろうか。
美しい。
しかしそこに畏怖のようなものはなく美しさへの感動しか浮かばない。呼ばれた声に応じるかのように足が進む。石畳の小さな道から逸れて奥へ、青々と聳える一本の竹の前に立った
はそっと表面に触れた。生きている。ヒンヤリとした冷たい表面。奥底には水の動きが感じられるのだ。風間にもこの感動を伝えようと思い後ろを振り返ってみてもかの鬼の姿は見えなかった。
「(あれ?一緒に竹林に入ったのに)」
ここに迷い込むまでは確かに隣にいた。それは覚えているのだが、周囲を探ってみても姿が見えない。鬼の気配も竹のそれにかき消されて感じられない。その名を呼びたくても声が出ない。あの男はどこへ行ったのだろうか。緑の世界にただ一人。男の姿を探すために前に進んでいると、通り抜ける風の強さに瞼を閉じた。再び目蓋を開いた先は変わらぬ緑だけ。まさかあの男の身に何かが起こったとでも?いや違う。それはない!そんなことあるはずがない。風間千景は強いのだから。
ここで右往左往していると方向感覚を失うようだ。どこからここに迷い込みどこへ向かえばいいのかわからない。このまま風間と会えなかったら…。まさかここに捨てられたとでも言うのか。それはそれで惨めなものだ。そんなことあるはずがない…とは言えなかった。私はあの男を拒絶した身だ。途端に、不安になった。「おい
!一体どこにいる!」どこか遠くから風間の呼び声が届く。応じたくても音を忘れてしまった。竹林を抜ける風が男の声すらかき消してしまう。聞こえた呼び声はまだ遠かったから近くにはいないのだろう。全身全霊をかけて…周囲の気配を探る。見渡してみても緑しかない。千景!そう心ではずっと叫んでいた。動いた拍子に、近くに生えていた草を踏んだらしい。ガサリと音が響く。
「
」
「!?」
真後ろから声が聞こえた。同時に男の気配も感じられる。振り向いた先には大きく息を乱す風間千景の姿。
「全く…あれほど目の届く範囲居ろと言ったはずだ。余りこの俺を不安にさせるな」
「―(悪かった。私も…心配したぞ)」
「俺も悪かった」
風間が折れて自ら謝るとは思ってもいなかった。その素直さに少しだけ驚いた。そして私はこの竹林に置いていかれたわけではなかったらしい。と、千景は私の前に手を差し出す。…。この手を握れと、言っているのだろうか。何と…恥ずかしい。「手を」追い討ちをかけるように声が届く。顔が熱い。ついでに耳も熱い。どうすべきか迷っていると、騒ぎ立てる心音をかき消すかのように息を深く吸い込み吐き出す。差し出された手に自らの手を重ねる。男の手。女のそれとは違う節ばった、だが女のように綺麗な手が私を包む。
…。
手を握られている。それもまるで壊れ物を扱うかのように、優しく。風間に軽く引かれながら歩いているとようやく正しい道へと導かれた。再び現れた石畳の小径に沿って私たちは竹林を出たのだった。しかしとっくに外の世界に出たと言うのに、男は私の手を放しはしなかった。人通りも多くなればこの行為も浮き出たものになるだろう。男と女が手を繋ぎ、道を歩くなんて!脳内の混乱に乗じてだろうか、顔の熱は消えないまま。今は体すら熱い。
早く手を放さねば。
握られた手を振りほどく…ただそれだけのことなのに、それだけをする勇気が持てない。進む先には行き交う人の気配。心の不安に反応するように、優しく包まれているだけだった手が硬直した。一瞬の偶然が重なってか、前に進む風間の手から自らの手がしゅるりと離れる。「?」男が立ち止まりこちらを振り返る。支えを失った手が自らの元へ返ってくる。その手を反対側の手で抱えて私は、男の隣まで足を進めた。
これで良いのだろう。
竹林での一件に風間に手を握られた一件、色々とあったせいか少し疲れが出てしまったようで、歩く速さが落ちてしまった。しばらく歩いていると隣を進む男にも伝わったらしい。紅葉を眺めるのも程々に「帰るぞ」と告げられた。そのままザッと進みだした風間。私はその場に足を止め男の背を眺めた。あの例の事件の後風間に手を握られたことなど幾度となくあったのに…先ほど握られた手の感覚がずっと残っているような気がした。自らの掌を撫でていてもまだ握られているような気さえしてくる。不思議だ。さっき感じた胸騒ぎは一体何だったのだろう。私は…おかしくなってしまったのだろうか。こんな気持ち…初めてだ。
触れられていた手を再び男の背に向かって伸ばす。風間千景に触れていたい。温もりを感じていたい。そう思ったところで腕が止まった。今の私はおかしくなっている。もしやすれば何か別の病でもこじらせてしまったのではあるまいか。きっとそうだろう。こんな状態であの男に触れるなど出来るはずかない。私は静かに手を下ろした。
「
」
「?」
振り返る男が再び呆れた表情を見せてきた。
「お前は先の約束を忘れたか。急に立ち止まるな。俺の隣を歩け。追いつけないのならば俺が歩みを合わせるから心配はいらぬ。足が痛むなら駕籠を使う」
「―(考え事をしていた。私は其方の隣がいい)」
それだけを伝え早足に男に歩み寄った。私が隣に来たのを確認して再び歩み始める。それから通りを二つか三つ超えたところで痛んだ足を見抜かれ、結局駕籠を呼ばれて送り届けられたのはここだけの話だ。
*****
数日後の夜のこと。現在、千姫は京を離れ京の鬼の移住について周辺の鬼と話を詰めているという。彼女なら先日の竹林での出来事と私の変化について的確な答えを導き出せるのではないかと信じてる。つまり早く彼女に会いたいというわけだ。もう少しすればここに戻ってくると菊月に告げられてから、心が浮き足立っているのは言うまでもない。考え事をしていた今宵は寝つきが悪く、布団に入ってからしばらく天井を眺めていた。そんな私もようやく眠る。
夢の中だろうか。まるで鳥か木々になったかのように、私は俯瞰的に夜の京の町を眺めている。見覚えのある風景…ここは三条。江戸からの旅人が流入する場所。橋のところには政府の監視が厳しく通行人の手形を厳しく精査している。それよりもずっと東側。獣だろうか。風のような速さで何かが山道を通り抜けていく。それが通るたび、触れる木々の小枝がガサガサと音を立てていく。この動き…獣ではない。もちろん人間でもない。一人…じゃない複数だ。もしかして…。静かな夜の闇に紛れてその気配が森を抜ける。月明かりに照らされても姿は判別できない。並ぶ寺社仏閣の敷地を越え、長屋の屋根を飛ぶ。―パシャンッ と、それが鴨川の水面にたどり着いた時、水面に映った月が乱れた。その瞬間に全身の毛が逆立つような憎悪感を覚え、目覚めた。
パッチリと開いた目が天井を捉えて離さない。心臓がバクバクと壊れそうなまでに動いていて、息も乱れている。障子から届く明かりは朝の訪れを教えている。あれは、あの夢はいったい何だったのだろうか。見覚えのある風景。その中で異質な存在が…鴨川に。だめだ。それ以上は頭が働かない。重い体を起こして寝間着から普段着へと着替えると、顔を洗うために裏口の井戸へと足を運んだ。秋口の井戸水は水温がちょうど良い。顔にたっぷりと水をかけて、手ぬぐいで拭う。おかしな夢だ。川の水音がひどく現実的で…その中で得体の知れぬ何かが動いていた。手おけに移した水面に自分の顔が映り込んでいる。
「?」
はふと気づいた。角屋の中に鬼の気配を感じる。菊月や不知火でもない。残りは天霧だろうか。一人でここを訪れるのは珍しい。菊月に会いに来た…にしては張り詰めた空気を感じる。彼がここに来る時は大抵は風間千景のことか。だが肝心の風間のものと思われる気配はない。気にはなるがそれ以上の詮索は無意味。私にはその権限がない。櫛で梳かしきった髪をザッとまとめ上げると部屋に戻りがてら角屋中の気配の出処を探った。「失礼致します。
さん今、よろしいでしょうか」外から声がかかったので私は襖まで歩くとそっとそれを開き、声の主を招き入れた。もちろん天霧殿だ。朝感じた気配から彼が角屋にいることは知っていた。私のところに尋ねてくるとは何だろうか。
「貴女のお耳に入れておきたいことがありまして…よろしければこちらにお越し下さい」
改まって言われると反応に困る。世間話ならここでも良いだろうし、風間のことにしても同じだ。ならば何の話だろうか。
は胸にわずかな取っ掛かりを覚えながらも先を行く天霧の後を追った。たどり着いたのはいつぞやの離れ。昼間は営業すらしていない角屋では一際人気のない場所だろう。入った途端に中にいた不知火と菊月と目があったので会釈する。千姫に風間がいなくてもこれだけの鬼が集まるなんて、一体何事だろうか。
「突然呼び出して申し訳ございません」
「―(構わん。して用件は)」
空いた座布団に腰を下せば空気が変わったのを肌が感じた。「東の鬼が滅び、今やこの国には西国の鬼しか残っていない事はご存知の通り」もちろん知っている。しかし話の入り方にしては些か壮大である。私は知らずうちに表情を濁していた。天霧は続ける。
「西国の鬼達は今や風間千景の先導の元、人間と隔絶し身を隠す手立てになっています。言わば風間こそこの国の鬼の要と言っても過言ではない」
「まっ、んな事は言わずともわかるだろうがよ。んでもってこの国に残った鬼の中には、それが気に食わねェって奴もいるのも事実」
「彼らは…いわゆる“反風間”の連中は、今まで表向きは大人しくしていました。しかし風間派の鬼が遂に身を隠す準備が整ったことを知り、此度動きを見せた」
西の鬼の要である風間家当主、風間千景。彼は今まで西国の鬼の先頭に立ち、鬼と人の隔絶を目指し奔走してきた。風間家が先導を取るという事が許せない…“反風間”という存在。菊月の話によると千姫は、京の鬼の移住に加え反風間の鬼の対処についても話し合っているらしい。予定が延びたのもこのためで、そして今宵この角屋に戻ってくるらしい。私の知らぬところで話は思ったよりも広がっているようだ。
「風の噂によれば、反風間の筆頭と言われる遠野家の連中が刺客を送ったと」
遠野家…その名は聞いた事がない。高名ではないのかあるいは土地が遠すぎて知らなかっただけか。恐らくはどちらもだろうが。刺客を送ったという噂が事実だとすれば、風間千景の命が危ないという事だ。彼に危険が迫っている。しかしその事実を知っても、あの男はそう気にも留めず、京にいる配下の鬼と会合しているらしい。
「クックック!アイツらしいじゃねーか」
「風間は強い。あの男に関しては特別心配は要らないでしょう。しかし奴らの標的が風間だけとは限らない今、風間に恭順する京の鬼も…貴女も危険なのです」
「―(私がか?)」
「風間と婚約したと言う事実は公表はしていませんが、事実、
という存在は今や京中の鬼で知らぬ者はいません。貴女の正体について奴らが知るのも時間の問題かと」
「―(肝に免じておこう)」
念のため暫くは一人での外出を控えるように言われ、私もそれに応じた。そこで一先ず解散となった。今日は部屋で書物でも読みあさろうか。角屋には菊月を始め京の鬼達が多く身を潜めている。一人歩きするよりもここにいる方が安全なのは確かだろう。今朝の話を聞いて菊月は千姫の身を案じていたが、そこは不知火が迎えをかって出た。全く頼りになる男だ。
遠野の鬼。
彼らの刺客が京に潜んでいるかもしれない。彼らの標的は風間千景を殺すこと。もし、奴らの殺気を感じることができれば…一網打診にできるのに。勘が鈍ったのかあるいは戻ってきていないのか、最近感度が下がっているのだ。部屋の窓から外を眺めると秋の晴空が広がっていた。雲も見えるが今は晴れ。しかし“女心と秋の空”とはよく言ったものだ。東の空を見て、途端に脳裏に浮かぶ。
「(雨が降る…か)」
我ながらこの勘はなかなか当たる。つまり午後或いは夕方から天気が崩れるだろう。それまでに里に手紙を書こう。つまりは気晴らしだ。遠野の件もここで私がどうこうしていても何も変わらない。今は何事もない事を祈るのみだ。
時折書物を読み進めつつ、滞っていた里への手紙を書き上げた頃。
の予想通りに天気が暗転の兆しを見せていた。早まった暮れを感じることもなく空は曇天。昼までの晴天とは打って変わり、厚い雲の奥底から今にも唸り声のような雷が響きそう。だがしかし薄暗い空はまだ少しの間大人しくいてくれているようだ。風間が参加した会合は昼に始まり暮れに終わる。彼自身も夜までに戻ることになっている。本来ならば宴でも開かれるはずだったのだが、反風間勢力を警戒して無くなったらしい。…空が機嫌を損ねて泣き喚き始めるかもしれない。風間は出先で傘を借りてくるだろうか。いや、旅籠への帰路を急ぎ途中で雨に降られるだろうか。ならばきっとどこかで雨宿りをすることになる。そうなる前に迎えに行こう。決めたのは私の独断で、誰にも相談などしていなかった。
“傘を借りたい”
書いた紙を店の者に見せれば、上等な蛇の目傘を二つ貸してくれた。置屋に見知った鬼の気配(菊月や天霧殿、それに不知火殿も)は感じられない。身振り手振りで菊月の所在を尋ねてみると、今宵千姫が戻ることになっているのでその迎えに行ったと言う。彼女には菊月がいるから大丈夫だ。店の者には少し出るとだけ書いて伝えて、裏口から外へと抜け出る。念のためと菅笠を被り着物も周囲に溶け込める程度のものにした。千景の会合先として教えられていたのは、島原以外にも花街として有名な祇園…ではなく御所よりも北にある茶屋だった。先の戦で協力していた藩の関係者とは利用せず、鬼同士だけで利用していた馴染みというわけだ。さすがに人目は忍んでいると言うことか。見せてもらった地図を頭に叩き込み、彼の男が通るだろう道も推測しておいた。薄暗い夜道には提灯(これも借りた)の灯りさえも眩く感じる。家路を急ぐ京の人々が、いつ降り出すかもわからない雨を恐れて小走りで通り過ぎて行く。千景なら…一目見ただけでわかるだろう。
例の花街まで歩いても私の心配に反して雨はまだ降る気配が感じられなかった。だがいつ降り出してもおかしくはない空だ。表通りを歩く勇気はない、むしろ表を歩いていたら馴染めずに浮くと思われるので裏通りから鬼の気配を探る。連なる茶屋には人の気はするものの、目当ての鬼の気配は感じられないのだ。「?」これは一体どうしたものか。まさかすれ違ったとでも?いや。千景どころか他の鬼の気配とも出会わなかったはずだ。四半刻ほど待っていても状況は変わらない。茶屋の入り口に影が揺らぐのを捉えて顔を上げる。あれは…天霧殿?待ちぼうけをくらっていた手前、見知った後ろ姿に居ても立っても居られなくなって、裏通りから飛び出ていた。人の疎らな通りに馴染んだ男は、前に立ちはだかる私の姿を見て目を見開く。「貴女は!」突然の無礼に頭を下げた後で少しだけ笠をズラした。
「どうして貴女がここにいらっしゃるのですか」
「―(すまぬ。雨が降るから…あの男の迎えに)」
傘を見せながら正直に伝える。と、「こんな時なのです。供も付けずに一人で夜歩きなど…貴女にもしもの事があれば風間に何と申すればいいか」静かに諭すように怒られた。天霧殿の言い分ごもっとも。もう一度素直に謝る。
「残念ですが風間は少し前に帰られました。道中…すれ違いになられたのでしょう」
「―(帰った?会わなかったが)」
「そんなはずは…」
「?」
「いや…角屋まで私が送りましょう。所用があります故、少しお待ち下さい」
まだ他に仕事が残っているのですぐには離れられないらしい。ならば私が天霧殿の仕事の邪魔になってしまうのではないか。そう考えて一人で帰れると伝えても「お一人には出来ません」と承諾はしてくれないのだ。こんな所で荷物になってしまっては本末転倒…どうにか彼に迷惑をかけずに角屋に戻らなくては。風間に恭順する者だろうか。茶屋の中から別の鬼の気配が現れたと思うと一瞬だけ彼の気が削がれたのがわかる。その隙をついて私は体を翻す。
「―(先に戻る。案ずるな、自分の身は自分で守る)」
後ろから制止を促す声が追ってくるけれど私は足を止めはしない。何もないだろう…という安易な考えだった。それに先の天霧殿の表情も気になっていた。…思い当たるものがあるのだろうか。風間は角屋に顔を出すはずだ。私よりも早く着くのは明白。急ぎ戻らなければまた店の者に迷惑がかかる。唸り始めた雷雲を見上げると
は足を速めた。
動き出す闇。そして最終局面へ。
20171108*星宮はちこ 裏語