そして鬼はいなくなった
【弐拾弐話、俺の名を】
天霧殿が案ずるような出来事は行きも帰りも、ありはしない。夜も深まり一段と人気のなくなった道を歩いていると、ふと体があるいは皮膚がピリリとした嫌な気配を感じた。
殺気。
背筋が凍りそうな感覚。それも一つではなく複数…いつの間にか私の足は止まっていた。周囲を伺っていると殺気が感じられる方向はすぐにわかった。胸騒ぎがする。
は帰路から逸れた。少し歩いてたどり着いたのは薄暗い寺。僅かに躊躇した後で私は敷地内へ踏み込んだ。門は開いたまま、境内には所々雑草が伸びていて手入れなどされていない…まるで廃寺かと思わせる雰囲気だった。もちろん人の気配はない。ただ、確かに悍ましい殺気が感じられる。壁に背を預けて顔を覗かせると、見紛うことのない男の姿があった。
風間千景だ。彼の周囲には暗くてよく見えないが、闇に溶け込むような色の殺気を放つ集団。取り囲まれている?闇色の集団が鬼なのは気配でひしひしと伝わってくる。脳裏に浮かんだのは、“遠野の刺客”という言葉だった。風間はまだ刀を抜いていない…と言うことは一触即発の状況でもないのか。
がいる位置からではまだ遠すぎて彼らの声は拾えない。気配を押し殺して、壁沿いに身を隠しながらできる限り近づく。
顔を覗かせて探れば周囲の刺客(とも思われる集団)の中央に一際殺気を放つ男がいた。黒く長い髪を靡かせる端整な顔をした男。美丈夫と言えばそうかもしれないけれど、邪悪な思想を垣間見せる横顔は不信感を抱かせるには十分だった。心臓がバクバクと脈拍を刻み、落ち着く兆しを見せない。「西国の鬼筆頭、風間家当主…風間千景。世間話も終いだ。その命ここで頂戴しよう」男が刀を抜いた。周囲の鬼もそれぞれ武器を構える。
「フン。遠野風情がこの俺の首を取れるとでも思ったか?笑わせるな」
「策は打っているさ。風間よ…私はこの日を待ち望んでいた。貴様の首を刎ね飛ばす瞬間を!!精々足掻くがいい」
このままでは風間が襲われてしまう…だが彼は強い。一見心配は無用に思えるけれど先の刺客の言葉も気になる。ただ確かなのはこの戦闘、何かがあるということだ。早く天霧殿を呼びに行かなければいけない。この場に彼がいたならまだ優位に事が運ぶだろう。茶屋に急いで戻らねば!
が姿勢を起こして動こうとした時だった。「誰だ」別所に向けられていた殺気が突き刺さるようにこちらへと向けられているのがわかる。音は立てていないけれど気配を消し損ねていた。走って逃げれば間に合うだろうか。そう考えるのと、後ろから現れた刺客(手下)が私の腕を掴むのはほぼ同時だった。
「!?」
振り解く間も無く男の力に引かれる。互いに鬼とは言え男女の力の差は歴然だ。相手が人間ならば少しは事情が違っただろう。あっという間に左右の手を捕らえられて遠野の鬼の前へと引きずり出された。笠の隙間から風間の顔が見える。彼も私に気付いたのだろう。だが僅かに目を細めただけでそれ以外には特に反応を見せなかった。
「女?…顔を見せろ」
遠野の鬼は乱暴に私の笠を奪った。纏め上げていた前髪が僅かに乱れる。私は顔を精一杯背けた。「ほう…女鬼か」血の気配を探ったのだろう。男は一目見て私を鬼だと見破った。男の手が私の顎元を掴み、強引に前を、自身の顔の方向へと向かせたのだ。力では男に敵わない…私は成すがまま。「女、名は?」見下ろす眼差しは邪悪そのもの。何を言おうとしたのか、口が小さく動くも声はない。無言なのは恐怖を感じているからだろうと判断したのか遠野の鬼がフンと卑しく笑ったのだ。その時、「…れるな」空気を凍りつけるような風間の怒りの声が届いた。
「遠野の鬼風情がその女に触れるな。我が妻となる鬼だ。それ以上触れてみろ、汚い腕斬り落とすだけでは済まさんぞ」
「ほう。風間が娶る鬼…名はそれで十分だ。男の首が飛ぶ瞬間を見せてやる。女鬼は我ら遠野が貰い受けよう」
「口を慎め、雑魚が」
遠野が手を離す。息が出来なかった私は大きく空気を吸い込んだ。咽ぶような音が喉から発せられる。「女を押さえておけ。逃すな」左右の二人が私の体を後ろに引いた。この刺客は今のところ戦闘には加わらない様子だ。横の二人だけなら…私が仕留めれば何とかなるだろうか。下手に騒いでも分が悪い。機会は必ずやってくる…今は、大人しくしておくことにした。後ろに意識を向けていたその時、風を切る音が聞こえた。慌てて顔を上げると、周囲にいた刺客が数人が斬られて亡骸が転がっていた。手下が殺されても遠野の余裕は崩れない。
「さて風間よ、確かにお前は強い。私が幾ら本気で殺しにかかったところで五分五分に持っていくのがやっとだ。だが…今日は違う」
「聞き飽きた」
「その身で知るがいい。そろそろ感じるだろう?己に起こった変化を」
「!?」
「―(千景!?)」
突如、千景が吐血した。白い着物には赤が広がり滲む。一体彼の身に何が起こったというのか。そして遠野は彼に何をしたのか。私の動揺が体をも震わせている。「効いたか」遠野は吐血し姿勢を崩す風間を見下ろしながら笑った。
知っているか?遠野の鬼は嬉々と語り出した。その昔、ある山に住まう邪悪な鬼が時折京に現れては人を攫い、また配下の鬼を引き連れて傍若無人に暴れまわっていたという。人々は困り果てていたが鬼の力に敵うはずもなく成されるがまま。時の帝は、陰陽師に占わせて討伐隊を設け鬼を討ち取りに行った。いくら手練れとは言え人間四人が真っ向から対峙してもあの悪鬼には敵わない…と、神は“ある酒”を彼ら人間に授けたと言う。その正体は毒酒で、酒好きと噂の彼の鬼も何も疑わずにそれを飲み干した。毒が回り身動きが取れなくなったところで討伐隊は鬼の首を刎ねた。私にとっては、聞き飽きた昔話だった。
「(この話。ならばあの血は…)」
遠野の鬼は何故酒呑童子の話をしたのだろうか。そして風間の突然の吐血…嫌な予感がする。ゼイゼイと苦しそうに息をしながら風間が真っ赤な瞳で男を見上げた。遠野は愉悦で顔を崩す。
「かの伝説の毒酒。茶屋で仕込ませてもらった。風間ァ!悪く思うな!」
「何処までも…外道か。そうでもせんと俺に太刀打ちが出来ぬと」
「言い訳は地獄で聞いてもらえ」
遠野の鬼が刀を振るう。ブンと音が響くも風間は器用に避けていく。右へ左へ。今のままでは防戦一方。「防ぐだけでは勝てぬぞ!!」笑いながら遠野がどんどん風間を追い詰める。「弱きは吠える。まるで犬か」毒の苦しみに顔を歪ませながら千景は言った。それすらも最後の悪あがきと捉えたのだろう。遠野の攻撃の手は緩まない。合間合間に刀を振るう遠野の刺客は一人、また一人と千景が切り捨てていく。だが肝心の遠野自身は無傷のままだ。何とかしなければ!この状況…何とかしなければ!!千景は殺されてしまう。私の隣には刺客が二人。千景に遠野。彼らの周囲には刺客が三人。
―ガキィン
鍔迫り合いの金属音が高く響いた。千景が。このままでは千景が!ギリギリと力の押し合いが続いている。後ろから斬り込む刺客を脚でなぎ倒す。力の均衡が崩れた瞬間、遠野が刀を引き、逆袈裟に一気に振り上げた。
「―(千景!!)」
声なき声で叫んでいた。彼の名を。私は気が気ではなかった。遠野の剣筋は高さが足りずに首を飛ばすには至らず彼の胸を大きく斬るにとどまったのだが、おびただしい量の血が噴き出ている。心臓には到達していないのか傷はあっという間に塞がった。それでも相当の血を失ったのは事実。身体が思うように動いていないのが見てとれる。次は危ない。
「あっ…あぁ…」
名前すら出ずに無意味な音が喉から溢れる。胸が掴まれるように酷く痛む。千景に駆け寄ろうとしても左右の腕を押さえ込まれて動けない。血が!千景が!!耳に残るような遠野の高笑いが響いた。遠野には風間しか見えていない。相当の興奮状態か。幸いなことに外野のこちらの動きには気付いていない。遠野の鬼の気を逸らせることができれば…まだ千景に反撃の機会があるだろう。行動するなら今だ。今しかないのだ。胸元には護身用の匕首が一振りだけ。足元には転がった蛇の目傘。横には刺客が二人。「残念だったな風間。次は外さんぞ…その首貰った!!」男が刀を構える。やめろ!!やめてくれ!!このままでは千景が!!!
「…ろ!やっ…めろ…!ちかげ…!!!!…放せ!!!!!」
腕を振りほどかんばかりに強く引いた。拍子で鋭い爪が左右どちらかの刺客の一人を掻き、拘束は容易に解けた。足元に転がっている蛇の目傘を手に取る。このままでは千景が!考える間も無く、男に向かって傘を投げた。それは刀を構える男へ一直線に飛ぶ。男には千景しか見えていない。留め具の支えを失った傘が千景と遠野の間で開き、蛇の目が男を睨みつける。まさに止めを刺さんとしていた遠野の反応が一瞬…遅れた。
「千景!!!!」―ザンッ
私は力の限り叫んだ。被さるように肉と骨が絶たれる音。噴き出した血が飛び散る音。投げた傘が転がり落ちる音。雨が降り始めた音。黒い髪をした頭が転がった音。一振りの刃の軌跡が目に焼き付いたように残っている。私の瞳が映し出す世界には、満足に動かない身体で愛刀を振り切った千景がいた。立ち続ける力も残っていないのか、途端に体勢が崩れ片膝をつく。「千…景…」出した声がただ震えていた。「頭が殺られた!!」「何としてでも我らで風間の首を獲れ!!」「奴は虫の息ぞ!!」残党が武器構えてそう叫んだ。私の体を支配したのは深い憎しみか怒りだっただろうか。蹲る男の元に駆け寄る。首のない亡骸の手に握られた刀を借りて、切っ先を刺客に向けて翳す。
「毒を盛るとは横道め!鬼の風上にも置けぬ貴様等…この私、
が討ち取ってやる!!」
「ただの女に何が出来ようか!」「まとめて殺せ!」届いた言葉に、取り囲む刺客を睨みあげる。それに怯んだのかは定かではないが、奴らの剣筋には迷いが生まれたように感じる。そうなら好都合。
私は…北の里の頭領。一族をまとめ上げる鬼。
時に外部の敵を、時に里の鬼を躊躇なく殺してきた。蝶よ花よと囃し立てられるだけではこの世界を生き残れはしない。女は、弱さを演じられるほどに強く賢くなければ。全身の感覚が研ぎ澄まされていく。この男風間千景を…殺させはしない。
刺客が叫びながら刀を手に向かってくる。そのどれもが酷く遅く感じた。振り下ろされる刃の軌道も読み取れるくらいに。刺客が攻撃を仕掛けてくる前に、私は素早く刀を振り上げた。生暖かい赤が噴き上がる。前の二人も、後ろの二人も。断末魔の声さえ許さない。
「…っ」
気づいたら…一人で立ち尽くしていた。振り返ると蹲ったはずの男が倒れている。刀を投げ捨てて彼の半身を抱き起こした。…酷い有様だ。遠野の言う毒酒の影響か、全身から血の気が引いている。名を呼びながら肩を揺らしても反応は返ってこない。僅かに動く肩だけが彼が呼吸を失っていないことを告げている。でも、その反応すらいつまで保つのか。そんな…千景が!!
“
、貴女に伝えないといけないことがあるの。私達が受け継いだ呪い…”
記憶の中にある母の声が浮かんだ。あの業なら千景を救えるだろうか。強まりを見せる雨を嫌い、男の体を抱えると屋根のあるところに運んだ。その時にはもう絶え絶えの息以外には“生”を感じられるものはなかった。乱れた髪を掻き上げ現れた白い頬を撫でる。閉じた瞼の奥に眠る、紅色の美しさを私は知っている。
「其方を失いたくない…だから、力を貸せ。古の鬼よ」
代々に伝わる首飾りを引きちぎる。中央には翡翠の勾玉そして歪な紅と水晶の玉で飾られたそれ。使い方を知っているのは現世には私一人だけだ。男の胸元に置くと護身用に隠していた匕首を取り出す。白刃には金色の目をした鬼が映っている。
迷うな。私はこの男を、風間千景を救いたい。
手にした刃を自らの手に当てがうと躊躇なく引いた。赤い血が流れて手から零れ落ちる。その血は横たわる男の上に置かれた玉を汚した。私の血と宝玉、呪い。「好きなだけ持っていけ」私の命でも身体でも何でも。そう願った途端に身体中から力が抜けた。耳に届いたのは“生きよ”と強く語りかけるいつかの母の声だった。目蓋の奥か向こうか、今までに見たことがない眩い光を感じたような気がした。
…。
身体半分に地べたが触れている感覚がする。どうやら倒れたようだ。倒れた上半身をゆっくりと起こすも身体の自由が利かない。声も…出なかった。私は声を永遠に失ったか。禁忌を犯した身だ、命までは持っていかれなかっただけありがたいと思うべきか。横たわった男は変わらず目覚める様子がない。だが彼の頬には血の気が戻り穏やかに眠っているようにも見えた。とりあえず危機的状況は去ったらしい。深く息を吐き出すとどっと疲れに襲われ、項垂れた。「
」そう私の名を呼ぶ声が聞こえて重い瞼を上げる。紅玉のような柔らかな眼差しが私を捉えて放さない。千景が目を覚ましたのだ。
「俺は…生きているのか。夢の中でお前の声を聞いた。俺の名を呼び続けるお前が…愛おしかった。どうにか足掻いて光の中に飛び込んだ」
伸びてきた手が私の頬に触れる。男の温もりを確かめるように自らの手を重ねて頬ずった。この男を失えば日ノ本に住まう鬼が迷うことになる。風間千景だけは失うことが許されなかった。だから、生きていて良かったと切に思う。
「いつの世も切望とは縁きれぬ、か。
…俺はお前の夫になれなくとも共に生きることは出来る。だから夫婦ではなく友として生き、いずれ声が戻ったらもう一度呼んでくれ。その唇とその声で、俺の名を」
「…其方を…失いたくはなかった。こんな想いを知ったのは生まれて初めてだ。こんなにも愛おしく、こんなにも苦しく、こんなにも温かい想いを!だから其方が望むなら何度でも呼ぼう…」
声が出ないと思っていたけれど、感情のままに喉が息を通し舌が音を綴る。 留まることを知らないのは声だけではない。涙が溢れて頬を流れた。
呪われた血と首飾りの秘密。
20171119*星宮はちこ 裏語