そして鬼はいなくなった
【弐拾参話、千景】


今なら何度でも唱えることができる。

「千景」

愛しき鬼の名を。伝えたかった言葉を。思ったように動けずに男の胸元に崩れ落ちるとそのまま子供のように泣きじゃくった。千景が生きていて良かった。「声が戻ったか。慕う女に名を呼ばれるのも悪くはないものだ。この時を…お前に名を呼ばれるのを俺は待ち望んでいた」そう言って男は私の頭を撫でてくれた。どれほど時が経ったのか。月の見えない夜ではわからないが、私が茶屋を離れてから相当な時間が経ったはずだ。やがて横たわった千景がゆっくりと上半身を起こした。


「戻るぞ。奴の仲間が残っているやもしれぬ」
「…ああ」


未だ自由の利かない体を動かし私はやっとその場に立ち上がった。まだ変な感覚が残っているが問題なく歩けるだろう。が、角屋まで相当時間がかかることは予想できる。それにいつの間にか雨が本降りとなっていた。降り注ぐ雨と屋根から伝い落ちる水を眺めながら、どうするべきか呆然と立ち尽くしていた。持ってきた傘は二本あったが、そのうち一本は骨を切られているしおまけに血塗れで使い物にはならない。最初に放っておいた一本は使用には問題ない。


「傘が一本。千景…其方が使え」
「何を言っている。濡れた女を連れる男がどこにいるのだ。傘はお前が持て」
「?」


差し出した傘を受け取らず、千景は私に近づくとそのまま背中と腿裏辺りに手を回した。何事かと構えるも彼が動くのが少し早かった。「なっ何をする!?」途端に体が宙に浮いた。私は千景に横抱きにされていた。上半身が男の胸元に預けられている。目と鼻の先には男の横顔。いつ見ても端整で美しい。頬が熱く感じて視線を下げると血染めの着物が視界に入った。傷口は塞がっているが、破れて血がついた着物があの一撃を物語っている。あの時…心臓を斬られていたらきっと…は雑念を払った。大人しく私は傘を開いた。二人並んで歩くには狭いだろうが、私が千景に抱かれてならどうにか収まるだろうか。いや少し無理があるけれど。



「この雨だ。お前の足を汚す泥が憎い…大人しく俺に抱かれていろ」
「…其方の肩を濡らす雨が許せぬ」



開いた一本の蛇の目傘の下で私と千景は身を寄せ合った。この格好だ。おまけに男が女を横抱きにしているなんて、雨の夜道とは言え目立つだろうか。念のため、人目に付かぬように建屋の屋根の上を通ることにして、二人、ようやく寺を出た。外は雨のおかげか人通りは一段と少ないようだ。屋根の上の世界は誰にも会うこともない。私は千景が濡れないように蛇の目傘を支えていた。と言っても彼の足は跳ね返った雨に濡れているのだろう。それが堪らなく申し訳なく感じた。


「一つだけ聞いておく。遠野がこの俺に毒酒を仕込み倒れた後…何をした」
「…私は、其方を失うことを恐れていた。だから禁忌を使った」
「禁忌だと?」


男が覗き込むように私を見た。そこで私は、誰も知らないであろう自らの一族の呪いを語った。それこそが禁忌の術。

昔むかしの話。その女鬼はある男鬼に出会った。男は情深く多くの鬼に慕われながらも酒を飲めば一変素行が荒かったと言う。女は男に惹かれ、男装をしてまで男鬼の側にいた。やがて京の都で悪名を高めた男鬼は人間によって討ち取られることとなった。女鬼は彼の鬼の言葉に従って戦さ場から逃げた。戦闘の最中で片腕を斬り落とされ、どうにか人間から片腕を奪い返した女鬼は京から北の地へと辿り着いた。その地の鬼に匿われながら、女鬼はやがて一人の女を産んだ。京で討たれた男鬼の子である。子が父に会えぬ世を嘆いた女鬼は、斬り落とされた自らの腕と血を供物にし、幼い娘の血を依り代として禁忌の術を生み出した。邪な力に頼ったという話が伝えられている。供物の血は紅玉に、零れた涙は無色 の歪な玉となり翡翠の勾玉に混ぜて首飾りとした。その石と力を宿した血、呪いにも似た深い願いを以って術式は完成しあらゆる死を消すとかなんとか。愛しき者を失いたくはないというのが先の女鬼の望みだったのか、今となっては知ることも出来ない。その術は女鬼の娘の血に呪いとして受け継がれている。術そのものが穢れでありまた自然の理に反す故、悪しき血を持つ鬼の末裔として同胞からも隠れ住むようになったとか。

その話を初めて聞いた時…幼いも釈然としなかったのを覚えている。自分の体を流れる血にそんな摩訶不思議な力があるとは信じてもいなかったが、母の顔は真剣そのもの。おまけに他言無用と言い切られた。やがて母の持っていた首飾りを譲られる時まで呪いの事は忘れていた程だ。この禁忌を破ろうとしたのはいつのことであったか。
確か…母が殺された時。私の代わりに盛られた毒を飲んで倒れた時だ。血を吐きながら倒れた母に私は禁忌と呪いを思い出して力を使おうとした。が、彼女はそれを良しとはしなかった。自らの胸元に置いた首飾りを握り、震える手を差し出し私に返してきた。あらゆる死を打ち消すような、まるで神のような力があるのならそれはいつ使うべきなのだろう。あの時はまだまだ半人前でわかりはしなかったが…今ならわかる。この血と禁忌は使うべきではないのだ。この血は我々鬼に争いしか生まない。それを知っていたから母は私に力を使って欲しくなかったのではないか。


「遂に私はその力を使った。其方を生かしたいが為に、其方を失いたくはないが故に!我が血の呪いを知って一族が危険に曝されても、血の為に同胞や人間から斬り刻まれても…ただ生きていて欲しかった」
「随分と無茶をする。お前は八瀬の姫の言う通り己を差し出しすぎだ」
「よく言われる。風間千景は生き延びた。…もう満足だ。其方を邪な血で穢したのだからな。私の呪いを触れ回るも血を使うも好きにしろ」
「邪悪ではない。その体に流れるは紛う事なき高貴な鬼の血だ。疎まずに受け入れろ、そして誇れ。呪いは俺も受け入れる…我々の秘密として」
「?」


どう言う意味だと問おうとしたら、「秘密や苦難を分け合うのもまた…一興。それが鬼の恩義だろう」千景が微かに笑った。恩義も大切だと思うが、まさか先の発言が命を救った事に恩義を感じてのものなのか。は胸が詰まる思いがした。あの時私の感じたそれは、決して“恩義”ではないような気がする。もっと深く、もっと広く、そして簡単なもの。瀕死の千景に向き合った時、私は自らの感情を自覚した。それこそ私が初めて知ったものであり…千姫の言う“心を通わせる”ようなものではないのか。ならば、彼が恩義と捉える“それ”と私が考える“それ”は違うものなのか。この思いを千景に伝えなければ、そして男の“想い”を知らなければ。

“貴女も風間も…ほんの些細なことに目を背けて気付かない。だからすれ違い続ける”

いつか天霧殿が言っていた言葉。ほんの些細な事にも目を背けずに互いに向き合う。どのようなことでも言葉を通じて疎通をしなければ、きっと私達は以前のようにすれ違い続けるだけだ。前よりも一歩踏み込んでみようと、思った。サアサアと降り注ぐ雨は瓦屋根に当たって独特な音を奏でている。秋が深まる季節の雨は冷たく、体温をじわじわと奪っていく。男の首に腕を回して彼の半身に身を預ける今は、一つの温もりを共有しているようにも思えた。二人しかいない今なら伝えることが出来る。



「其方の側にいたい。友としてではなく。その、妻として…共に!」
「…覚悟が決まったか」
「言ったはずだ、この想いを私は初めて知った。これを“愛”と言うのなら、私は其方の妻にでも何でもなれる!このまま友として終わるほど苦しいものはない」
「ああ…俺はこの夜を忘れはしないだろう。愛しき女が自らの名を呼び、心を通わせた日を」
「その、夫婦となった後には望むままに世継ぎを産むから…昔の影が私を襲おうとも」



無理強いはしないと男は言った。ゆっくりでいい…とも。あらゆる世の男女とて誰しもいきなり夫婦となれるわけではない。時を重ねる毎に夫婦になっていくものだ、男は優しい声でそう語った。「だから…今は共に生きてくれ」その望みには「謹んで受けよう」と男の胸元に顔を寄せた。温かくて触れたくて…どうしようもない。







夜の帰路は雨のおかげが足場が悪くいつもよりずっと時間がかかってしまった。宵も深まる中で、かの高名な花街吉原は提灯の灯りを煌々と照らし続け、その存在をありありと示していた。光る町が近づいてきた頃にひょいと男が飛び上がり裏通りに降りた。こちら側は人影もなく、抱き上げられたまま進む。やがて角屋の裏口が見え、すぐ前に来た時には勝手に門口が開いた。鬼の血を引いている者だろうか、遠くから私達が近づく気配を察知したのだろう。こちらの姿を確認するとその血の滲んだ衣服に目を丸く驚かせている。軽く会釈をしておいた。


ー!!風間ー!!」


遠くから雨音にも負けない大きな声がする。顔を上げると裏庭に続く店の裏口から千姫が傘も差さず、なりふり構わずにこちらに走ってくるではないか。彼女の後ろから菊月が「姫様!!傘を!!」と遊女の姿で慌てて追っている。千姫はそのまま飛び石の上を伝い、ビシャビシャと水飛沫を上げながら風間と私の前に駆け寄って来た。


「聞いたわ!遠野の刺客が今宵貴方達を狙っているって。その様子なら大事には至ってない様だけど…血が酷いようね、大丈夫!?」
「大事ない。姫…風邪を召されるぞ。傘を」
…嘘…声が!!!」
「説明は後だ。先ずは我が妻に行水の支度を。天霧と不知火を集めろ」


傘を千姫に差し出している間に菊月が追いついた。彼女も私達の姿に驚いている。姫は私の声が戻っている事に大層驚きながらも、「よかった…」と胸を撫で下している様子だった。千景の言葉を聞いた菊月が慌てて建屋に戻り、行水の支度を手配してくれているようだった。建屋に戻った時には噂を聞きつけたのだろう店の鬼が慌てて手拭いや桶を用意して千景と私の足を洗ってくれた。「一刻も早く行水にて我が妻の体を温めるように」との千景からの御達しがあって、店の者に案内されるまま内風呂に突っ込まれた。ご丁寧に湯帷子まで用意されているのだが、一人だしそもそも湯帷子のまとわりつくのが苦手だから使わない。
五右衛門風呂の中で沸き立つ湯気をぼんやりと眺めていると、遠野の襲撃から角屋に戻ってくるまで…随分と時間が経ったようにも思える。手桶で湯を一掬いすると、全てを洗い流すように頭から被った。



*****



が風呂に引っ張られていった後、風間は不快感の残る着物を脱ぎ捨てる訳でもなく角屋の一室に集った。京の姫も他人事ではないので耳に入れておいて損はないと誘えば、彼の後ろを大人しく付いて来ている。先の言葉の通り、通された部屋には天霧と不知火が既に揃っている。彼らは風間の有様を見た途端に目を見開き驚いていた。


「風間、無事でしたか。彼女も帰って無かったので酷く心配をしました」
「ありゃりゃ。下から上にバッサリやられてんな。一応心臓は外れたか」
「無論。遠野如きに俺の首は獲れぬ」


その場に座り込むと状況の共有が行われる。風間は先ず、茶屋を出た後に遠野の刺客に襲われた事を告げた。その後、が寺に現れて人質となったこと、女の機転で遠野の意識を削ぎ、そのまま遠野家当主の首を刎ねた事。これから天霧には配下の鬼を連れて例の廃寺に向かい後の処理を任せることにした。不知火には京の鬼、強いて言うならこの角屋の守りを任せる。ここには八瀬の姫もいるのだから用心に越したことはないはずだ。二人の鬼は頷いた。ついでに、の声が戻ったことも告げる。だが彼女の…呪いについてはこの二人には知らせるべきではないだろう。八瀬の姫がその呪いの事実を知っているか定かではないが、伝えるならこの女だけで良い。



「天霧、追加だ。遠野本家には事態の責任を取ってもらう。風間千景の名前で当主以下三名の首級を差し出せと伝えろ」
「承知しました。私は角屋を離れますが、お気をつけください」
「まあまあ天霧の旦那!ここは俺に任せとけって。向かって来たら…手加減なんていらねーだろ?」



二人が殺気立つ背を向けて静かに部屋を出ていくと風間と千姫だけが残った。どちらともなく口を開かないまま、その合間に菊月が「体を温め下さい」と熱い茶を持ってくる。毒酒の手前…飲み物を口に含む事にも僅かに躊躇してしまう自分がいる。勿論、この女の従者の茶だから毒など入っていないだろうが。

「此度の騒動…遠野家当主直々に来たみたいね」
「フン。雑魚が集まったところで代わり映えはせぬ」
「とりあえず、随分と酷くやられちゃった様子だけど…返り討ちに出来たならアッパレかしら」
「酒に毒を盛られ、満足に体が動かない状態での対峙だった」
「えっ…そんな!?」

八瀬の姫の動揺が見て取れる。風間は全てを語った。遠野の一撃は風間の胸部を抉ったが心臓までは達しなかった事、薄れゆく意識の中での投げた傘が視界を遮った事、相手の反応が遅れた最中風間は刀を振り切り遠野の首を獲った事。目も耳も皮膚の感覚さえも失った頃、闇の中で燦々と輝く光に包まれの呼び声が聞こえた。風間自身の記憶はその程度であったが、の記憶はまた異なるのだろう。


「あの時俺は死にかけていたのだろう。そして、我が妻は俺の命を繋ぎ止めるために古の秘術を使ったと言っていた。血が伝える呪いともな」
「…そう。あの子は禁忌に手を出したのね」
「鬼の血にそのような力があるとは思えぬが、身を以て思い知らされた。あの血は危険だ。同胞ましてや人が知れば、死よりも辛い未来しかないだろう」
「馬鹿ね。禁忌を破ってまでそんな。それ程までに貴方の事…真実を知ってあの子をどうするつもり」
「どうもしない。ただあの女の意思を尊重するだけだ。生憎、俺は呪いには興味はないがな」


階段を上がる気配と足音が近づいてくる。彼女のものだろう。その気配が襖の向こうにまで迫った時「入れ」と先手を打った。


降り注ぐ雨、一つ傘の下…男に抱かれて睦み合う。そんな情景を書きたかった…だけですが睦み合ってねぇぇ。
20171126*星宮はちこ   裏語