櫻色ノ薔薇
【弐、交差】
校舎裏から中庭へと続く道を走る。ここには彼らの気配は感じられない。 恐らくまだ現れてはいないのだろう。私は全神経を“彼ら”の気配に集中させる。 薄桜学園は今日初めて来た学校だ。校舎がいくつか並んでいるが、 どこに何があるのかどうやって行けばいいのかわからない。 ぐるりとそれらを見渡してみる。 校舎の向こうには体育館のような建物も見える。一体どこだ。
「 」
どこか遠くで、叫び声が聞こえたような気がした。 とても小さく弱弱しいものだった。急いで振り返る。 鼓動がドクドクと高鳴るけれど指先は冷たいままだ。 は一目散に走った。
全力で駆けてみても息はまだまだ上がらなかった。 気配を頼りにたどり着いたのは一番奥にある校舎。 特別教室棟と掲げられているそこは、理科室や音楽室といった一般教室以外の 教室が集められている棟だ。 入口に駆け込むと階段を上る。幸いなことに人の気配がない。 そこに存在したのは異形ともいえる“彼らの”気配だけ。 コの時に曲がった廊下を進むと視聴覚室に突き当たった。 両開きの大きな扉だ。ここにいる。彼らが。 そっと、扉のノブに手を添えてみるがびくともしない。 どうやら鍵がかかっているらしい。いや施錠されている状態は正解だ。開いていたら逆におかしい。 人が全くいない夜だったら蹴り破ってもいい。しかし今は下手なことはできない。は思い出したように胸ポケットから細い針金を取り出すと器用に折り曲げた。それは銀色のクリップだ。 何を隠そう…鍵破りは得意だ。特技としても誰にも言うことができないだろうが。 いくつか折り曲げたそれを鍵穴に差し込み左右上下に小刻みに動かす。 一つ一つカチャカチャと小さな音が聞こえる。60秒ほど続けているとガチャリと今までと比べ物にならない開錠の大きな音がした。 少し手が震えて手間取った。ギイ音を立てながら開いた扉の隙間から身体を滑り込ませるとすぐに閉じる。 姿こそ見えないものの“彼ら”は気配は消せないようだ。
「あら、かくれんぼかしら?私、まどろっこしいのは嫌いよ。 早く出てきて遊びましょう。勿論消えてもらうけど」
他に誰もいないはずの教室に、彼女の声が消えていく。 視聴覚室は一つ下の階まで打ち抜いた傾斜構造で普通の教室よりもとても広く感じられた。 黒板のある奥側が下の階でそこから椅子と机が段々に高くなるように作りつけられている。 上の階から入ると視聴覚室の後ろ側、一番高い位置になる。規則正しく並んだ長机の間にある通路を、 一段また一段とゆっくり降りていく。“彼ら”はまだまだ姿を見せてくれないらしい。 先の返事も帰ってこない。の靴音だけが響く。 気配を探れば、どうやらこの空間には一体しかいないようだ。 複数相手よりはやりやすいだろう。最も、今回も早く終わらせるつもりだ。 勿体ぶって遊んでやるのも悪くはないが今は手っ取り早く片付ける方がいいだろう。 まだこの学校に残っている生徒もいるのだから。
上から三分の一くらい下ったところで動いていた彼らの気配が止まった。 彼女も足を止める。 “彼らの”気配は正面からひしひしと伝わってくる。
来る。
正面のおそらく教卓だろう大きな机の陰からゆらりと現れた羅刹を視界に捉えた瞬間に、私は走りだした。 階段をこれでもかというくらいの勢いで駆け下りる。普段なら先生に怒られているだろう、でも今はそんなこと気にしない。 ギョロリと赤い瞳を向けた羅刹も私を視界に捉えると唸り声を上げながらこちらに向かってきた。 その距離が近付く。しかし羅刹とぶつかること無しに、駆け下りた勢いのまま彼らの頭上を飛び上がった。 空中でくるりと体を反転させ、着地する前にスカートの下に隠したホルダーから銃を取り出す。 再びこの両足が床に着いたとき、羅刹の背中に銃口を向けた状態だった。 速さと銃の腕には負けない自信があった。 このまま引き金を引けば終わる。しかし私は引かなかった。そのまま静かに銃口を降ろす。
「こんな場所で銃なんて使ったらそれこそ大変だわ。命拾いしたわね、 それこそ数分だけど…」
彼女が最後まで言い終わらない内に、羅刹が叫びながらこちらに向かって飛び掛かってくる。 これはこれは元気なものだ。せっかくなら最後まで喋らせてもらいたいのだが。 素早く片手で何かを握る素振りを見せると反対側の手を添える。 握ったその手は外側に引き抜いて、添えた手は緩やかに何かをなぞって。 途端に彼女の手には細身の西洋剣が握られていた。は素早く構える。 彼らの赤い瞳が近付き、その禍々しい手が彼女に届こうとした。
「ごめんなさい、数分じゃなくて1分だったわ。さよなら」
刹那。一瞬の出来事だった。少女の剣が羅刹の胸を深く貫いていた。 瞬きもせずにジッと前を見据えた彼女の瞳には羅刹の最期の姿が映っている。 羅刹が砂として崩れた空間は何事も無かったのように静かだった。 切先を降ろせばヒュンと風を切る音がする。久々に手にした剣への関心は消えなかった。 顔の前まで持ち上げれば鏡のように自分が映し出される。 しばらくはこれに頼ることも無かっただろうに。しかし使い慣れた相棒はまさに阿吽の呼吸とも言えよう。 忘れたいことも色々あるが、久々に剣に頼るのも悪くはないのかもしれない。 さあ帰ろう。彼らは始末した。とっととこの場を離れてと合流しなくてはいけない。 手にした剣はいつの間にか消えていた。
「ッ!?」
その刹那。は真っ直ぐにこちらに向かってくる足音に気付いた。一人ではない。 複数だろうがそう多くもない。もちろんのものでもない。足音と言うが普通の人間が駆けてくる音ではなかった。 それこそ気配を殺しながらというべきだろうか。 だが確かに近づいてくる。階段を上がっているからこそも気づくことが出来た。 後ろ(出口)を塞がれては逃げるにも逃げられまい。 これからどうしようかと考え、とりあえず遮光効果が十分にあるであろう分厚いカーテンの陰に隠れることにした。
「ここだよ一君。ねえ言ったでしょ?楽しいことが起こるって」
「この部屋からは奴らの気配は感じられないが」
「あれ?本当だ」
電気も点けずに誰かが入ってくる。 男の声。一人は何やら楽しげでもう一人は落ち着いた声だった。 ここにやってきたのは二人らしい。覗くわけにもいかないので、今入ってきた彼らのことは声でしか詮索することができない。 彼らの始末には極力音を立てなかった。音を聞きつけてやってきた可能性は低い。 こんな一番奥の校舎に迷わず来れるのなら薄桜学園の関係者で間違いないだろう。 先生か生徒だ。声音からして二人とも若い。ならばこの教室に入ってきた男二人は薄桜学園の生徒か。
話し声、動作の音…耳にすべての神経を集中させる。彼らの足音が近付いてくる。 前側に降りてきているのだろう。 薄桜学園の生徒が、こんな時間に理由なくこの視聴覚室にやって来ることもないはずだ。 がこの建屋に入った時には人の気配は感じられなかった。 まっすぐにこの部屋を目指してきたなら、彼らの目的は何だと言えよう。 恐らく“羅刹”だろう。いや、それ以外に対象となるモノは無い。
一般的に知られていない“彼ら”の存在を知っているものが他に居てもおかしいことではない。 ただ“彼ら”と対峙した時に、並の人間ならば喰われるだけだ。 良くて気絶か切傷か。生き残ってもきっと次は無い。羅刹との対峙はオバケとか妖怪とかオカルト的な話として語られて消えていくだけだ。
何者だろう。
途端に二人の青年に興味が湧いてくる。中途半端に“羅刹”の存在に首を突っ込んでほしくはないのも事実だ。普通の高校生として普通に生きられることがどれだけ幸せなことだろうか。
「総司、見ろ」
「これって砂…というか灰だよね。ということはここには間違いなく奴らが居たってこと?」
「ということになる」
「ふーん。でも奴らが勝手に死んでくれるようなお利口さんじゃないってのも事実だしね。 一君どう思う?」
「どう…とは?」
聞こえたのは単語。“総司”に“一君”、つまり彼らの名前だろう。 二人の少年に繋がる手がかりだ。 情報を聞き漏らさないように、カーテンの脇から耳に全神経を集中させる。 分厚い遮光カーテンは遮音効果もあるらしい。あ、ここ視聴覚室だった。
「奴らは勝手に死なない。つまり、“誰か”が始末したってこと」
「一体誰が…」
そこで彼らの会話が途切れる。しばらく何かを考えているようだ。
「この建物に入る時まで奴らの気配はしていた。 そして僕らがここにたどり着いた時にはもう気配が無かった。 つまり始末されていた。ちなみに特別教室棟の出入り口には左之さんが居る」
「どういうことだ」
にも“総司”と呼ばれた男の言ったことの意味がわからなかった。この子何が言いたいのだろうか。 そして新たに“左之”という名前が出てくる。しかもこの部屋には居らずに、この特別教室棟の出入り口にいるらしいのだ。
“総司”に“一”に“左之”
彼らの会話の中に出てきたのは三人の名前。 そして、建屋に入ったタイミングと“彼ら”の気配の話。何が言いたいのか…これから続くであろう会話の内容に静かに聴き耳を立てる。
「僕らがこの建物に入ってから気配が消えたってことは、 始末した人間はまだこの建物中に居るってことだよね。 出入り口で左之さんがいるってことは…そいつ逃げられないよ」
「ああ…そういうことか」
そこで私にも彼らの言葉の意味が分かった。 今から彼らが徹底的にこの建屋を調べれば恐らく私自身も逃げられないのだ。 本当に困った、いや面倒なことになった。 ここは三階…前方ならば二階か。頑張れば飛び降りれなくもないが一目につくだろう。音も消せない。 出入り口に居るであろう男は、彼らと同じくらい勘が良いならば音で気付くはずだ。
「この視聴覚室の出入り口って…」
「後ろ側に一つ、そして前側に一つだ。前側は教師か講師など教卓に立つ者専用で、下の階の廊下と繋がっている。 生徒は普段、後ろ側からしか入室を認められていない」
「一君。長いよ」
前側にも入口があったのだと、も初めて知った。教科書に出てくるような何ともご丁寧な説明だ。 再び教室内に靴音が聞こえる。どうやらここから出ていくようだ。 カーテンの裏に身を隠しながら心の中では「早く出ていけ!」と祈る …いや叫ことしか今の私にはできない。
「じゃあ僕は前側から行くから、一君は後ろ側からね。 あ、斬っちゃってもいいけど楽しみは僕に取っといてほしいな」
「物騒なことを言うな」
ここで一つの足音が遠ざかって行く。 これでおそらく“総司”という男はこの部屋から去ったと見ていいのだろう。ご丁寧に気配も一つ遠ざかっていく。 そしてこの部屋にはあと一人。“一”という名前の男が残っているのみだ。 再びは心の中で存分に叫んだ。早く出ていけ、と。
「まったく…この部屋を調べないでどうする」
途端に“ドクン”と心臓が高鳴る。いや、今調べられては非常にまずい。 まだ分厚いカーテンの裏に私がいるのだから。 さっさとこの男もここから出ていけばいい。 そうすれば今のように気配を殺さずに、ここからどう逃走するかを自由に構想できる。 神頼みをするように心の中で何度も祈るばかりだ。ここで見つかるなんて、ドジ踏むなんてレベルではない。 何ならもっとマシなドジの踏み方(?)があるだろう。 男の足音はゆっくり視聴覚室内を一周すると、が隠れている位置から遠ざかり、遂にはこの部屋から消えていった。
「ふぅ…」
顔には出してないが、胸の奥で響く心音は先ほどからずっと割れんばかりのものだ。 ここに留まっていてはやがて見つかる。 しかし、前方と後方の出入り口は彼らが探っていて使えないといっていいだろう。 ならばどうするか。残るは目の前の大きな窓だけだ。 ただし窓からの飛び降りは除外される。
鍵を開き少しだけ窓を開いた。高い位置にあるので首だけを出して辺りを観察する。 何か使えそうなものはないか、窓の周囲の構造はどんなものか。 よく見るとここから横に2メートルほど先に非常用階段があった。 本来は階ごとにそれ専用の出入口があるのだろう。 斜め下でもなく横に飛び移るのは少し無理がある。助走もできないし。 ああ、この背中に羽でもあればいいのに…なんて現実逃避しすぎか。 どうしようかと視線を上げた時だった。ここは二階~三階。それでいて最上階。 確かここの建屋には屋上があったはずだ。非常階段まで横に2メートルだが、 屋上までなら一番上の窓からでも1メートルちょっとだろうか。 これしかない。下が駄目なら上でいいじゃない。 たしか泥棒も屋上階から侵入すると聞いた。いや関係ないけど。
窓を人ひとり分開くと、室内の首の高さの位置にある転落防止用の柵に足をかけて外側に出る。 足で器用に窓を元あったように閉めた。足を使うとか行儀の話は無しで。 これが家なら間違いなく怒られる。残念だけど鍵は閉めれない。内側だもの。 桟に手を掛け足を掛け、ロッククライミングでもしているように屋上によじ登った。 腕力と僅かな脚力を使って全体重を支えるとはこれほどまでに疲れるものなのだろうか。 しかし、もたもたしている時間はない。見つかれば“斬る=殺す”と言っていた。 むしろ返り討ちにしてやる。心のなかで悪態をついた。
屋上には何もなかった。屋内から通じるであろう出入り口のある扉と、反対側にある非常階段の扉。 ここでわざわざ室内に戻る馬鹿はいない。すぐに非常階段側に駆け寄った。 非常階段の扉は格子状だ。蹴破るか。ふと下を見ると半周降りた位置の非常階段が見えるではないか。 上から下なら問題ない。はそこから飛び降りると、難なく非常階段に着地した。 出来るだけ気配を殺して音を立てずに降りる。幸いにも一階に下りるまで誰にも出会うことはなかった。 それから数分後、はと合流。無事に帰路についたのだ。
別の教室棟の屋上で、その様子を見ていた男の紅い双眼がゆっくりと細められる。 そして口元が緩やかに孤を描いた。