櫻色ノ薔薇




 【漆、姫ト騎士】


無言で廊下を歩く。何も言いたくないし何も出てこなかった。 風間先輩(呼び捨てでもいいけど一応年上だから仕方がない)に無理矢理口付けされた。 ムカつく。出会っていきなり命令されたり、押し倒されたり、口付けされたり…何だ。 ムカつく。苛立って仕方がない。あれが初対面の女性に対する態度だろうか。 違う。紳士とはかけ離れた振る舞いには激怒したのだ。ビンタしたことに後悔はしていない。 むしろ自然と体が、手が動いていた。 これから、欧州はあの男との交流も増えるのだろうか。 少しだけ先行きが心配だった。 怒りを持ち合わせていたも階段を降りる度に落ち着いてきた。
今日は不運な日だった。あの時あの男の傍まで行かずにいれば、あの時咄嗟に声を上げていれば。 後悔すれば上げる項目は両手の指以上はあるが、終わってしまえばそれだけだ…胸に微かな傷跡を残して。 うん。忘れよう。それが一番だ。 もしこれがだったら…私は感情を抑えることができようか? きっと棒でも何でも振り回していたかもしれない。 相手の喉元に突き立てて、これでもかと言うくらい汚い言葉で責め立てて罵っていたかもしれない。 暴力沙汰は…無いのが一番だが、回避できなかったかもしれない。 もしあの部屋に誰もいなかったらどうなっていただろうか。 あの男が私を…最悪は常に頭に浮かんだ。
忘れよう。今日は薄桜学園に来て生徒会長に挨拶して、何事もなく帰った。 それでいいではないか。次から薄桜学園とのやり取りは主に渉外委員が担当する。 薄桜学園の生徒会長には近づくな、二人きりになるなと念を押しておかなければ…頭の片隅に留めておこう。

「(私に会いたがっていたって…単にキスしたいから?まったく失礼しちゃうわ)」

階段から踊り場にたどり着く。手すりを頼りに更に続く階段へと足を踏み出した。

の少し後ろを歩いていた。後姿では彼女の感情は計り知れない。 どうしてこうなってしまったのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 自責の念がを襲う。あの時英語をしていなければ、あの時一緒に薄桜に来ていれば。 決してこのような展開にはならなかったであろう。 あの時衝立の向こうに見えた悪夢は思い出すだけで吐き気がした。 今まで大切に守ってきた何かがが音もなく崩れ去り、そして穢された。 あの紅い眼が憎い。憎い。
だがあの男は自らを風間と名乗った。左之ではなかった。 それならば左之は誰だ。あの部屋にいた人物で生徒で…ヤンキー風の男か寡黙な男か。 どちらも違うような気さえする。赤毛の男は教師だった。誰かが名前を言っていた。 原田…下の名前はわからない。そうすれば、左之という男はを生徒会室まで連れて行ってそこから離れたに違いない。 風間という男も憎いが、今一度左之という男にも腹が立っていた。

「(ごめんなさい。苦しい思いをさせてごめんなさい。 役に立たなくてごめんなさい…)」

辛くて苦しくて、気が付けばの頬を一筋涙が伝っていた。 耐えようとしても止めどなく、はらはらと零れ落ちる。 声を上げないように唇を噛みしめた。
渡り廊下だろうか。 二階ほど分ほど降りきった所にある別の棟へと続く場所を通った時、視界の隅に人の姿が映った。 は構わずに下の階へと降りた。 此方からも向こうからも微妙な距離だった。 人だとは認識できたが誰かまではわからない。 泣き顔を見られない様に下に向けても足早に少女を追った。



*****


ふと、土方の視界の隅に生徒の姿が映った。 どう見ても薄桜のものではない制服姿の、しかも女子生徒。 一瞬過ぎて見間違いかと思えるくらいだった。 足早に階段を下りすぐに見えなくなった。 はて、もし彼女たちが欧州の生徒ならばどうしてここにいるのだろうか。 生徒会室で風間らと挨拶しているはずだ。

「…まさかな」

脳裏には様々な出来事が浮かんだ。 あいつら三人組が絡んでいると碌なことがない。だが今回は新八と左之を寄越したから問題ないだろう。 どうも変な胸騒ぎがした。土方は不安から逃れるために生徒会室に急いだ。 途中、生徒会室から帰ってきた原田と永倉に会い、土方は事の全貌を知った。 怒りを通り越して怒鳴り声も口に出来なかった。ああ、どうしてこんなことになっちまったんだろうか。 始末人に加え、学校業務もこなさねばならない。 頭を抱えこれからどうするべきかを必死に考えていた。



******


ふと後ろを振り返る。
階段を降りている時に一言も言葉を発さなかったは、静かに涙を流していた。 どうして…彼女が泣いているのだろうか。一体何が。

?貴女どうして…泣いているの?」
「だって…、が…あの男…」

自分で言うのもあれだが、本人がケロッとしているのに外野が泣いているのも不思議なものだ。 彼女は彼女なりに心配してくれているのだろうが、彼女自身を責めても何も始まらない。 自分の思いを吐露した途端に彼女の瞳から大粒の涙が流れた。 胸元のポケットからハンカチを取り出すと彼女の顔に添える。 こういうときは無駄に慰めなんていらないのかもしれない。

、私は大丈夫。貴女が来てくれたから大丈夫よ」

身長もほぼ変わらない(でも彼女の方が少し高い)を優しく抱きしめると、更に強い力で抱き留められた。 苦しい。もうちょっと加減してほしい。

ー!!!!あの男ぶっ殺すからァー!!」
「苦しい。泣き止んだのなら離れて」
「嫌ー!!!!」

まったく、公の場で私たちは何をしているのだろうか。 しかも他校で。生徒の気配が感じられないのが唯一の救いだった。 変な噂でもされたら困る。そのままの背中をさすり続けること数分。ようやく落ち着いたらしい。

「泣き止んで安心したわ。もう大丈夫そうね。少しだけ…先に行っててくれない?」
「どうしたの!?あんなことがあったばかりなのに!?」
「あんなことがあったから…かな。ちょっと気持ち悪くて…お手洗いに」

それでもは何か言いたげだったけど、胸の中に押し留めておいてくれた。 10分後に校門に集合とだけ約束し私たちは離れた。はその後すぐに校門に向かったようだ。 人の気配を離れて建物の裏に来た時だった。

「…っう」

込み上げてきた気持ち悪さに、蹲る。 さっさとトイレにでも駆け込めば良かった。 といっても、元は男子校だったので女子トイレの場所は限られているようだ。 ちょっと探してみたが見当たらない。とりあえず人目のつかない校舎裏まで来て良かった。 鞄からミネラルウォーターを取り出し口に含む。変に我慢すると駄目だ。 素直に吐き出した。もう一度水を飲む。呼吸も大分落ち着く。
紅い瞳。何故か頭の中に浮かぶ。あの男は私に何者だと聞いた。 何者と言ってもただの学生だ。羅刹を狩るぐらいの…羅刹の事を言いたかったのだろうか。 もしそうだとしても…逆に疑問が浮かぶ。あの男は何者だ…と。 ただの学生ではない。おそらくこの学園での一番の危険人物だろう。 暫くあの男には会いたくない。会ってはいけない気がする。

「(もう大丈夫。と約束したから大丈夫よ)」

は立ち上がると準備運動をしているかのように首を回す。 身体も軽くなった。の所へ戻ろう。これで遅くなればきっと怒られる。心配される。 最悪、紐で括られる。捕り物みたいに引っ張られるのは勘弁願いたい。 この大きな建物は体育館だろうか。校門は近くはないが歩いて数分くらいか。 彼女が歩み始めようとした時だった。



「や、やめてください!」


女の子の声がした。しかも可愛らしい声。 だが聞こえてきた内容はただの“拒絶”だ。何事だろうか。 まさかあの男が別の女子に手を…と考えながら、建物の壁際から向こうを覗くと男が何人か見えた。 浅黄色の制服。残念だがあの男ではない。 いや遭遇しなかったことを喜ぶべきか。
状況を把握するため目と耳を研ぎ澄ませる。いつかの状況とまるで同じ。 男子生徒はどうやら4人いる。そして体育館の建物側を向いている。 その男たちに囲まれているらしいのが1人の女の子。 浅黄色の制服を来ていた…。と言うことは、彼女がこの学園唯一の女子生徒。 名前は確か…近藤学園長が口にしていた。雪村さんだ。 できればこんな形で会いたくはなかったが、一度見てみたいとは思っていた少女だ。 黒髪を結わいピンクのシュシュで留めている、見た目は可愛らしい。 好感が持てる。声も好みだ。

「(男4人であんなか弱い少女に何を…)」

先ほどの事が浮かぶ。男なんてきっと頭は破廉恥なことで埋まっているに違いない。の想像の中では最悪の事態が広がっていく。 案の定その男たちはの想像のままだった。

「で、我が学園初のマドンナ雪村さん…いや千鶴ちゃん。 やっぱ千鶴ちゃんぐらい可愛かったらモテモテなんだろ?もう彼氏いんの? いやー入学三週間目だからなー。まだまだフリーっしょ」
「千鶴ちゃんの周りには剣道部の奴らがハエみたいに集ってるからな。 まったく目障りなやつらだ。ちょっと剣道ができて顔が良いからって調子に乗ってるよな。 俺らも可愛い千鶴ちゃんにお近づきになりたいわけ」
「おめーら話はそこかよ。ま、剣道部については同意だけどな。 で、で、良かったら今から俺らと遊ばない?」

男のうち三人が一方的に雪村さんに話かける。 そんなことこんな場所で話さなくてもいいことだろう。 剣道部なんて彼らが本人に言えばいいじゃないか。 まったく、本人を前にすると口にもできないのだろうか。 器が小さいとは正しくこのことではないか。くだらない。


「お誘いは申し訳ありませんが、お断りします」


小さい声だが、確かに彼女は断った。それももうきっぱりと。 ここでもう一押しするのも男かもしれないが、せめて引き際ぐらいわかっていてほしいものだ。 最後まで口を開かなかった男が、舐めるような視線を彼女に向けた。 目が笑っていない。この男が一番…危ない。

「それにこれから平助くんと出かけるんです。だから…ごめんなさい」

男の視線にも気付かず雪村さんは続けた。どうやら先約があるらしい。 そこまで言われたならばもう「はいわかりました」と引くべきだろう。 というか引きなさい。引け。男も女も時に諦めが肝心だ。

「ねえ…、その平助って確か剣道部のやつだろ? 俺らより剣道部の奴らを取るんだ」

あの男が口を開く。


「取るとか取らないとかの問題じゃありません。 私は皆さんの名前すら知らないんですよ。 それに、平助くん…いえ剣道部の悪口は言わないでください。 彼らだって毎日汗水流して練習しています。皆さんも知っているでしょう。 努力をしない人が…毎日剣を取らない人が大会で優勝するなんてことはありません。 剣道部の彼らへの侮辱は…私が許しません」


うん。彼女はとても気持ちよく言い切ったわ。 可憐で小動物のような見た目と芯の通った物言い。 雪村さん…とても気に入った。もう少し話がしてみたい。はもう一度少女の顔を見つめた。

「ふーん。まっ今は、剣道部の奴らなんてどーでもいいんだよ。 千鶴チャン。それよりさァー、もっと自分の事心配したら?」

男の声が一段と低くなった。何事かと雪村さんが辺りを見回す。 周りには下賤な笑みを漏らす男が4人。確かにこれはマズい状況だ。にも一目でわかる。

「俺らさあ、きっと断られると思ってたんだよ。 まあ、千鶴ちゃんの気持ちは置いといて…俺らと遊ぼうよ。 大丈夫。今体育館は無人でちょっと声上げたぐらいじゃ誰も来ないからさ。 千鶴ちゃん…こういうこと初めてでしょ? 俺らがとっても気持ち良くしてあげるからさ…」
「いや!やめて下さい!」


男たちが彼女に近づく。もう限界だ。ここの男たちの醜態にはうんざりだ。 まったく馬鹿らしい。残念だが薄桜の男子生徒の好感度は底辺を彷徨っていた。 もっとまともな男子はいないのか。薄桜には! さあ、雪村さんを助けなければ。


「待ちなさい!」


声を上げて柱から歩み出れば、男たちが一斉にこちら側を向いたのがわかる。 4人の男の八つの瞳。薄汚れた思考が映っているようだ。 腕を組みながら仁王立ちの状態では続けた。

「ちょっと失礼。女の子の悲鳴が聞こえたと思ったら…女相手に男4人で、 貴方たち一体何をしているの。まったく無礼にもほどがあるでしょう。 イイ男は引き際をわきまえているわ」

強い口調で責め立てる。男たちは一瞬怯んだものの、相手の私が女だとわかると顔をニヤリと歪ませた。 あの…紅い眼の男の嗜虐的な笑みは忘れもしない。恐怖さえも感じた。 だがこの男たちのそれはあの男のものとはまるで違う。下賤で…猥らで、くだらない。 男たちは雪村さんから視線を外すと私を舐めまわすように見つめる。 一言で言おう、気持ち悪い。 この男の注意は私に向けられていて雪村さんは視界に入っていない。 今なら彼女は逃げられる。だが雪村さんは足が小刻みに震えていた。 こんな状況では動くこともままならないだろう。 下手に彼女が動けば私も動きづらい。

「で、あんた誰?見たことない制服だけど」
「あ!あれか。最近あの御三家の一つの欧州の学生が校内を歩いてるって噂が流れてたんだ」
「へぇー。これが御三家の…お嬢様…。ったく発育上々じゃねーかよ。けしからん体だ。 …いい匂いすんのかな」
「まっ、千鶴チャンとはまた違って色々と楽しめそうだけど」

男たちが私を取り囲んだ。この構成…まるで映画かドラマみたい。 その中の一人が考えも無しに手を伸ばしてくる。 触れる前に、私の手が男の手首を捉え技をかける。男は大げさに転がった。 これは護身術の一つだ。そこらの女とは違うことを悟った残りの三人は、大声を上げてなりふり構わず向かってきた。 やっぱり映画かドラマだ。そして結末はもちろん…
人間はこうやって見ても羅刹と比べたら弱い生きものだ。下手に怪我をさせてもいけないので加減が難しい。 彼らは排除すればいいだけだから。手加減なんて必要がない。 一人が突進しながら向かってくる。咄嗟に脇に逸れて、膝を男の腹に入れた。 崩れる男から声が漏れた。前の男の相手をしていればもう一人は後ろから。 私を捉えようと手を伸ばす。降ろした足を支柱に反対側の足を回して蹴り飛ばした。 低い植木に突っ込んで行く。ちょろいもんだ。残りはあの男だ。


ヒュゥ~♪ と、口笛を鳴らしながら男が笑う。だからキモいって。

「さっすがお嬢様。でもこっちには人質がいるんだよねー。 どうする?このままだとこの子に当たっちゃうかも知んないし。 この子と先に始めちゃってもいいんだけどさー」

男の手が雪村さんを掴んでいる。必死に抵抗しているが女の子の力じゃ敵わない。 引っ張られて彼女の体は途端に男に抱きすくめられていた。

「どうするよ?君がここでその制服脱いでくれるなら、この子自由にしてあげてもいいよ」
「…」

男の信じられない言葉に私は耳を疑った。 この男は女性に敬意も払わずに、剰え自らの汚れた欲望を満たすことを優先した。 もう本当にふざけるな!先ほどの事もあってか私の中で何かがブチ切れた瞬間だった。 仕方がない。君たちの生徒会長の分も晴らさせてもらいましょうか。 無言で下を向いたまま動かない私に、男は「どうすんの?脱ぐならムービー撮るから言ってよね」 とか言っている気がする。だけど周りの音が聞こえなくなっていた。 顔を上げ睨みつける。何かが違うと悟ったのかその男の目が一瞬怯む。 この男、タダじゃ済まさない。

「(雪村さん、貴女には見苦しいところを見せない様にしなきゃ…ね)」

構えて飛び出す。風を切る様に速く。きっと普通の人なら消えた様にも思えるだろう。 数メートル前にいた私はもう男の目の前だ。 男が彼女を掴んでいる両手をピンポイントで狙う。 強めにある点を叩けば自然と手が緩む。これも技の一つだ。 男から雪村さんを解放する。力が入らないのか彼女はそのまましゃがみ込んだ。 痛みからか自らの手を抱え込む男。前には私が対峙する。 まだ何かしようというのか。テレビやドラマなら悪役は大抵ここらで逃げるだろう。 躊躇なく男との間合いを詰めると、素早く確実に強く男の胸を突いた。
「うぐっ…」

男が胸を抱えるように倒れる。ちなみに気を失っているだけで命には別状はない。 暫くしたら残りの男同様、目を覚ますだろう。さて全ての悪党は地に伏した。 もちろん反対側を向いていた雪村さんには見られていない…はずだ。


「ねえ貴女、大丈夫?」
「あっすみません。ありがとうございます。私、何もできなくて」


彼女の肩に手を添えれば、やっと顔を上げてくれた。怖かったのだろう。 目尻には真珠のような雫が出来ている。あ、可愛い。失礼ながらそう感じてしまった。 さっきの私もこんな感じだったのだろうか…いやこんなにも可愛げがあったらよかったのかも知れない。 実際は知らないというより知りたくないが。

「初めまして雪村さん。私は欧州女学院のよ。貴女のこと近藤学園長から聞いたわ、薄桜の紅一点…」
「あっあの…初めまして、薄桜学園1年の雪村千鶴です。 どうぞよろしくお願いします。助けて頂きありがとうございました」

立ち上がった雪村は頭を下げた。結った髪ごとシュシュが揺れる。 だから可愛すぎる。いったい何をどうしたらそのオーラが出せるのか…うらやましい限りだ。

「いいの。こんな可憐な姫を助けない訳がないわ。 それにしても薄桜学園の男子生徒って大丈夫?騎士どころが野獣だわ。 私の経験を加味しても、あんなのばかりなの?」
「いえ違います。みんな優しくていい人ばかりです。あれはちょっと…」

まあ、私も薄桜学園があんなのばかりだとは思いたくはない。 もっと真面なイイ男くらいいるだろう。原田先生とか原田先生とか原田先生とか…って先生ばかり。 例の三人は…きっと真面だと思いたい。羅刹を始末できるほどの手練れなのだから。

さんは、その…とても強いんですね」
「強い…のかどうかはわからないけど。雪村さんは私みたいに無茶(膝蹴りしたり回し蹴りしたり)しない方がいいかもね。 私の場合、誰も助けてくれないから鬼でも悪魔にでもなって一人で何でもできるようになっちゃった… って感じかな。と言っても、ちょっと前にすごく残念なことがあって、何も出来なったから後悔してる」
「残念なことですか」
「ええ…でもいい。今は忘れるわ。ところで雪村さん! 私あなたともっと話がしてみたいの。よかったら…」

胸元からカード状の紙とペンを取り出すと連絡先を滑らかに書き上げる。 友人と家族以外の他人にはほとんど教えない電話番号とアドレスだ。 「いつでもいいから連絡してね。要らないなら破っちゃって。あ、でも落とさないでね」と 彼女の手元に差し出した。雪村さんは「ありがとうございます」と受け取ってくれた。 第一関門は突破だ。彼女の笑顔を見て少しだけほっとした。
その時、誰かに見られているような視線と気配を感じた。 この気配はどこから感じるのか…いや上の方だ。急いで顔を上げ気配を探る。 体育館。さっきの男は体育館には誰もいないと言った。 部活や行事では使用していない。そこは分厚いカーテンが閉じられ、電気が点いているのかすらわからない。


「どうかしましたか?」
「いえ、何でもないわ」


あの紅い眼の男…違うか。あの男の嫌な気配ではなかった。 誰が見ていたのだろうか。羅刹を始末した場面ではなく、目の前の少女を助けただけだ。 見られても問題はない。女が回し蹴りをしていたとチクられても面倒だが。 今は意識を彼女に向ける。

「必ず連絡しますね」
「是非。ところで雪村さん、貴女は誰かと待ち合わせしてなかったっけ」
「そうだ…平助くん!」

彼女が男の子の名前を呼んだ時だった。遠くから、ものすごい勢いで駆けてくる音が聞こえた。 まるで馬みたいな。いや違う。馬の蹄の音は高く規則正しい。この足音は…何だろう。



「千鶴ー!!!大丈夫かー!!!!」


少年は彼女を視界に捉えると更に一目散に走ってくる。早い。 そして足音が大きい。雪村さんの無事(?)を確認するとその男の子は握りこぶしを片手で包み、仁王立ちになりながらご丁寧に名乗ってくれた。

「あんた見ない制服だな。俺は薄桜学園2年の藤堂平助。 最近千鶴の周りが騒がしいと思ったら他校まで絡んでたのか。 一体、千鶴に何の恨みがあるんだよ。相手なら俺がしてやる!」
「…」

この少年はと同等かそれ以上に思い込みの激しい子なのかもしれない。 私たちの周りには伸した男が4人。思った以上に力を入れてしまったのか、まだまだ起きる気配はない。 そして他校の私と雪村さん。どんな構図を組み立てればそうなるのだろう。 いや、私が彼女の従者をなぎ倒してちょっかいかけているようにも…見えるか? 彼の後ろに匿われた雪村は先ほどの出来事を説明してあげているようだった。 だが今はこの少年の相手をするのも面倒だ。話が長くなりそうだし、そろそろがお怒りだろう。雪村さんには素敵な騎士がいるみたいだし。 …ただまあ肝心な時には傍にいない。それじゃあ駄目。
は優しく微笑むと無言で少年に近づいた。 「お、おい!」とか何とか言っている少年に私は…力を込めてデコピンを食らわせた。

「っう、痛ってぇー!」
「ふふふ。素敵な騎士、今回は登場がちょっと遅かったわね。 姫の危機には駆けつけなきゃ駄目よ。私は。よろしくね。Byebye、藤堂君」



ひらひらと手を振りながら、私は体育館裏から抜け出した。 勿論校門にいたはお怒りで、紐で括られそうになったのはここだけの話である。