レプリカ虚像乙女
【第二章、混濁 十一話、働かざる者食うべからず】
只今午前四時半…つまりは早朝なのである。いつもなら眠っている時間に
は起きていた。実を言うと久坂さんに起こされたのは少し前だったりする。起きて早々とっとと戦闘服に着替えると、連れてこられたのは食堂だ。鬼兵隊の食堂は一般隊士の当番制で全員分の調理がなされるらしいのだ。全員分って何人前だよ…と突っ込んではいけない。この大きさの釜、病院の食堂でも見たことある奴だ。今日の当番に挨拶を終えると食堂の掃除を命じられた。下っ端で鬼兵隊でもない私はまだ信用されていないらしく、毒を盛る可能性があるからと調理には参加させてもらえないようだ。まあいいけど。テーブルを拭いた後は喫食スペースをモップで拭く。食器の準備は任せてもらえるらしい。トレーを一枚一枚拭いておく。結構な枚数ある。今日の朝ご飯は何だ…米に豆腐とわかめの味噌汁に漬物に白魚の西京焼、あ…小鉢は五目豆。随分と立派なメニューだ。後で頂こう。綺麗好きと周りから言われる私はとりあえず満足するまで思うままに食堂を磨き上げた。よし。
「おーい新人。次はコッチ頼むわー」
「はーい!」
次って何だと思っていたら連れて行かれたのは洗濯機がずらっと並んだ部屋だった。ああ洗濯か、と咄嗟に答えを導き出してしまった。洗濯も別の当番制らしい。そして視界に入ったのは、部屋の隅に積み上げられた布の山。あ、これも病院で(以下略) 着物なんてそのまま洗濯出来ないんじゃ?と思っていたら肌着やら下着が中心だった。ちなみに着物は絹織以外は週一か二週に一回程度でそのまま洗濯機にかけるらしい。勿論おしゃれ着モード。後にアイロンがけまで付いてくる厄介な代物だ。今日は14着あった。初めてだから多いのか少ないのかもわからない。…いや多い気がする。幹部のものは外にクリーニングに出すと聞いた。それが正解だ。来島さんの洗濯物なんて一般隊士が扱えないだろう。衣類に加えてタオルやらシーツやらが山積みになった籠が洗濯機と同じくずらりと並んでいる。文明の利器…洗濯機があって良かった。手洗いしろと言われたなら口から泡を吐いていたところだろう。色物とそれ以外、下着と肌着は特に汚れているので分けて洗濯機にぶち込む。私情は挟まない。下着には出来るだけ触れぬよう籠を掴んで放り込んでいく。規定量の洗剤と漂白剤を投入しスイッチを押すだけ。アイロンが手間なだけで洗濯は簡単だ。ご丁寧に乾燥機もある。洗濯終了まで30~40分の時間がある。これは朝ご飯を食べに行くべきか。時間を見れば丁度六時ちょっと前だ。
「次は甲板横のトイレ清掃頼みますよ!」
「え、あ…了解です」
これだけ大きな船だ。トイレ…特に男性トイレが各階に備えられているのも理解できる。その清掃もまた別の当番制らしい。それぞれの当番を掛け持ちすると大変なのは一日にして身に染みた。被らないように割り振られているはずなのに掛け持ちなんて。甲板脇のトイレは規模的には小さい方らしい。にしても男性用トイレって何でこんなに汚いんだ。一日でこんなになっちゃうの?何なの?ちゃんと綺麗に使おうって意識あんの?馬鹿なの? 心の奥底から“整理・整頓・清掃・清潔・躾”の5S精神が沸き立ってくる。これはもう戦だ。バケツにブラシに洗剤に手袋に保護眼鏡にマスク。全て準備したところで戦闘開始。トイレ用洗剤は酸性が一番なのは、その汚れが台所や風呂場のそれと違い、酸性でしか溶解しないからだ。ああ、この汚れしつこい。ブラシで擦った後はタオルで磨く。躾の為だと“トイレは綺麗に使いましょう”という張り紙の作成を決めた。個室だってそう。トイレの乱れは心の乱れ。神様だっているとか歌で言っていた気がする。タイルもピカピカだ。と言っても今のところ。明日まで維持できている保証はない。一通り終えるとまた別の人に呼ばれた。
…
‥
「疲れた」
ここの人達は、人使いが荒いとかは言っちゃいけないのだろうか。時計を見れば七時半を過ぎていた。この船にはいくつかトイレがあるらしいのだが、残りは他の隊士が分かれて掃除し終わったらしい。よかったの一言に尽きる。にしても夜も明けぬ早朝からこの有り様。全然本来の意図する仕事をできていない。信用されていないのは仕方がないがこれではそこらの清掃員と変わりないではないか。また一つため息が漏れる。
雑務の合間のこの短い時間に朝ご飯を頂けることになった。あれだけあったおかずもあっという間に品切れとなり今日もおにぎりだ。具は特にない。味の濃くなった味噌汁があるだけありがたい。朝から何も口にしておらず脱力気味だったが、今日は一段と塩味が美味しく感じた。しかし私は食堂にもそう長居はできない。洗い終わった洗濯物を干さねば。あれ、やっぱこの仕事家政婦なんじゃないの?
洗濯室に戻った
を待っていたのは洗い終わった洗濯物の山と未洗濯の衣類の山。山山山。や・ま!“山”がゲシュタルト崩壊しているように見える。それか崩壊してるのは私の脳みその方か。心を閉ざしてまるで機械のように衣類を放り込む。洗剤量はもう適当だ。洗い終わったタオル類は即乾燥機へ。
「おいお前…いや新人」
「はい」
いや、今言い直す必要無いような…駄目だイマイチ頭が働かない。共に清掃を行う鬼兵隊の方々(それでも幹部ではなく下っ端だろう)との関係は、一言でいえば“微妙”なのである。親密なわけもなく蔑まれるわけでもない。ほんの数時間で感じた事は向こうもどうやら扱いに困っているということ。それはそうだろう。いきなりこんな素性も知れぬ女が現れたのだ。私に関する話は回っていないのだろう。このまま余所余所しく接し合うのもどうも疲れる。かと言って気楽には…無理だろう。
「昨日よりこの船に見知らぬ女が居ると伺ったが…お前、名は?」
あ、結局“お前”になってるとか突っ込むのは野暮か。
「
です。久坂さんの助手としてこの船に乗せて頂けることになりました」
「久坂殿…ということは船医か」
「はい。今のところ朝から清掃の手伝いしかしてませんが。このようにお手伝いをする時以外は医務室に居ますので体調不良などありましたらお訪ね下さい」
先ずは名と顔を覚えてもらうのが第一。久坂さんの名を出せば私が医者(見習い)だと言うのは直ぐに伝わるようだ。一々ゼロから説明しなくていいから楽だ。あ、作業が止まっていた。
は洗い終わった洗濯物を取り上げカゴに移す。意外と重い。
「それでその…一つ尋ねたいことがある」
「はい。何でしょうか」
次は作業をしながら答えた。お喋りは好きだが手が止まるのは良くない。前の病院でもよくお喋りを婦長にどやされていたもんだ。そして、私の素性を知らぬ彼らには私に対して聞きたいことの一つや二つあるだろう。どこ出身だとか、何のために鬼兵隊にいるとか。今後の為だ尋ねられたら答える様にしよう。隠すことは何もない。
「お前は高杉さんの…その…“女”だという噂があるが本当なのか」
「ブッ!」
その言葉に思いっきり噴出した。あ、私周りからそう思われてんだ。なるほど朝から視線集まるわけだ。
は意識すればするほど居た堪れなくなった。勿論そんなわけがない。大体、高杉さんの恋人は来島さんのはずだ。…。
「(もしかして愛人視されてる!?)」
それも嫌だ面倒くさい。
は目の前の浪士に対し全力で否定した。ついでに、そう言う噂が広まっているなら私だけではなく高杉さんにも迷惑がかかるから全力で否定するようにお願いをする。私は一般人だ。ここでアピールしておこう。
「まあ俺も深くは突っ込まん。ああ、その洗濯物だが…今日は晴れだから船尾辺りに干しといてくれ」
「いやいやいや。本当に違いますから信じてください。そんな目で見ないで下さいって!!」
何度否定しようとも、この隊士…絶対私の話を聞いていないのだ。お願いだから人の話は聞いてください。お願いだから。
は一足早く洗濯室を抜け、洗濯物がたくさん入ったカゴを両手で抱えながら上に続く階段を進んでいた。最後まで人の話を一切聞かなかったあの隊士に、洗濯物を外に干す様に言われたからだ。ちなみにまだ一人で船内をうろつく許可は貰っていない。怪しい動きをすれば斬り殺されても文句は言えない。そのことを告げると、後で直ぐ追うからと軽く流された。この人は他人の話も命もどうでもいいらしい。誰かに咎められたら素直に「洗濯物干してました」と言うしかない。ふと後ろから視線を感じて振り返ってみる…が誰もいない。今の感覚は何だったのか。もう一度振り向いてみるがさっきと変わらず階段とその下の壁が見えるだけだ。気のせいということにしておこう。階段を抜けると潮風を感じた。外に出たのはいつ振りだろうか。あの夜に鬼兵隊と出会い、次の日に久坂さんの助手になり…そして今日は家事三昧。まだ三日しか経っていないのに随分外に出ていないような気がした。
隊士の言葉の通り、今日は晴天。照りつける陽光と甲板の明るさに何度か瞬きをする。慣れるまでその場を動けない。光に目が慣れるとようやく甲板に立つ。階段は船尾に近い船の側面に通じていた。広がるのはキラキラと輝く海。風に乗って海鳥も飛んでいる。胸の中の空気の入れ替えに深呼吸をする。やはり外は気持ちいい。ふと、上を見上げた。
「!?」
そこにはあの時と同じ、開いた格子窓の桟に腰を降ろし煙管を加える高杉さんがいた。その視線は何処か遠くを眺めているようでこちらは見てはいない。つまり気付いてはいない。急いで頭ごと視線を降ろす。何故自分がこんな行動を取ったのかわからない。私は何も見ていない。見ていないのだ。
は船尾へと急いだ。
積み荷が転がり、お世辞にも整理整頓されているとは言えない通路を抜けて船尾に辿り着く。思ったよりも広いそこは、ロープが掛けられて簡易的にではあるが洗濯物が干せるようになっていた。時おり風が通り気持ちいい。大きく重い洗濯物を掴むと皺が出来ない様に伸ばしてロープにかけていく。飛ばされない様に洗濯ばさみで止めるのを忘れてはいけない。一つ、また一つと洗濯物を広げていく。まるで白いカーテンのようだ。
「こんな所で何してやがる」
あれ?今幻聴が聞こえたような気がする。おまけにさっき見てしまった高杉さんの声に変換されているというオプション付きだ。途端に
は脳内が急に覚めていくのを感じた。こんなご都合主義な幻聴あるわけない。急いで声がした方を振り返る。そこには先ほどまで上にいたはずの男の姿。壁にもたれ掛りこちらをチラリと見ている。
「えっと…洗濯物を干していました」
この回答は予め用意していた物である。これ以外に今の状況を簡潔に伝える言葉はない。
「目付けも付けずに船内ふらふらするなって言わなかったか。今の時間は誰だ」
「一人で出歩いてしまって申し訳ございません。処分は私が受けますので鬼兵隊の方は関係ありません」
「“誰だ”って聞いている」
このまま平行線。チラリと視線を寄越す男の瞳には恐怖感や威圧感は感じられないが、ここであの隊士の名を告げれば後で厳しく処分されるかも知れない。人の話を殆ど聞いてくれないような人だがそれでも悪い人ではなかった。短い時間でそう感じたから。
「まあいい。俺はちと煙草を吸いに来ただけだ。そいつが来るまで見張っといてやる。とっとと洗濯物でも何でも干せや」
「…」
そう言うと高杉さんは船尾にあった大きな木箱に腰を掛けて胸元から煙管を取り出した。ついさっき上でも吸っていたのにここでも喫煙するようだ。手を休めるわけにもいかないので、手に持っていた洗濯物を広げる。一応、お仕事再開だ。今の私は建屋側に背を向けている。つまり高杉さんに背を見せているのだが、ものすごく怖い。いつ一刀両断され目の前で靡くシーツが血色に染まってもおかしくはない状況だから後ろが気になって仕方がないのだ。殺気なんか感じた時にはどうすればいいのやら。
「そう言えばお前…出身はどこだ」
後ろから声がかかる。今日まで何人もの鬼兵隊の隊士に会ったが、その基本的な質問をしてきた人はほとんどいなかった。今のところ久坂さんだけ。他は精々名前を聞かれるぐらい。私も自分の名前を名乗るだけ。さっきはこれまた変な質問を受けたが。
「生まれも育ちも江戸ですよ」
そこから短い会話が生まれた。聞かれた事には素直に答える。内容は殆ど私のことで
家の話やら医者の経歴やら。いつの間にか自分から私自身のことを話していた。主に昨日の出来事だけど。反応が薄くなった背後が気になってそっと振り向いてみた。そこには木箱に寝そべり空を見上げる姿。私の話を聞いているのか聞いていないのか。多分聞いていない。陽の下(と言っても彼の居る木箱は建屋の影にある)で見る姿は、昨日の…月明かりの下で見せた妖艶さとはまた異なっていた。捉えどころのない人だと思う。
そこに追加で洗濯物を持って上ってきたのは、さっきの他人の話を全然聞かない隊士だった。高杉さんの姿を見た途端狼狽していたけど。私も、見張りを怠った罰だとか言って斬り捨てられるのではないかと内心ハラハラしていたのだが、事態はそう緊迫さを感じさせるものではなかった。「洗濯物はそこに置いとけ。コイツは俺が見といてやらァ」と寝そべりながら呟いたからだ。カゴを置いてそそくさと退散する隊士を横目に私はジッと高杉さんを見つめていた。
「サボってる暇があるなら働け」
「フフ…わかっています」
眠っているように目蓋を閉じているのに、私が手を止めていることはとっくにバレている。追加分の洗濯物に手を伸ばすと、空いた場所に広げて干した。疾うに煙草は吸い終わっているのに、その人は私が声をかけるまで手から煙管を放さなかった。
数日ほど似たような仕事をこなすと大体の一日のスケジュールが決まってくる。朝は早朝に起き、食堂で朝食の手伝いと洗濯にトイレ掃除、手が空いたら朝食を食べ、久坂さんの代わりに医務室に詰める。昼が近づけば食堂で昼食の手伝い(主に皿洗い)をして、廊下やら共用部の清掃と洗濯物の取り込み、空いた時間に医務室に詰める。夜が近づけば夕食の手伝いをして、医務室に詰める。…あれ?やっぱこの仕事(以下略)
医務室で働くと言っても攘夷活動の無い時は怪我は殆どない。経験値の低いまま、こう実務さえ少ないと不安になるだけだ。空いた時間は知識を衰えさせまいと医学書を読むようにしている。後は、洗濯機が殆ど稼動していない時間帯に自分の洗濯物を大急ぎで洗いに行って回収するとか。鬼兵隊の方が生活する隙間にどうにか自分の場所と時間を作って生きていた。
「あー、やっぱ広いお風呂はいいわぁ…」
一切の人を排した薄暗い大浴場で、オッサンもビックリの声を上げるのはもちろんこの私だ。現在深夜0時前後ぐらい。この船内で最も危険な生活ミッションは風呂である。ここには隊士向けの大浴場が備え付けられている。が、夕方~夜にかけてほとんどの隊士がその風呂を利用しており人がいなくなることはほとんどない。朝~夕方はボイラーが稼働しておらず湯が使えないという。つまり深夜の頃合いを見計らって
はここを利用するしかないのだ。勿論“清掃中”の札を掲げているので一般隊士は入ってこれない。何でも幹部は個室にシャワーがあるとかないとか。正直羨ましい。
ここにもそう長居は出来ない。髪や体を洗って浴槽に浸かって数分で出る日々が続く。大判のバスタオルで体を拭う。視線の先は脱衣カゴの中にある白く長い布。所謂“晒”だ。これを体に巻くのがまた一苦労。しかしこれを怠るわけにはいかない。急いで服を整えると、忍者のように辺りを伺い大浴場を出る。
「ッ!?」
刹那。また誰かが近くにいる気配がした。ついでに廊下の奥から視線を感じたのだ。全身全霊を込めて気配だけで向こう側を探ってみても勿論何も感じず、物音一つしない。向こうまで行って確認する勇気はない。あ、幽霊とか?あ、私…超常現象は信じていないんだった。たった今幽霊の可能性は潰えた。駄目だ。とっとと部屋に戻ろうと、私は小走りで廊下を駆けて行った。
意識しているわけではないのに、それから毎日ありとあらゆる場面で誰かの気配に怯える様になった。誰かが私を監視しているような。ジッと見られているような嫌な感覚だ。自意識過剰と言ってしまえば、ただそうなのかもしれない。だが確かに誰かがそこに居るのだ。鬼兵隊ではない私は、常に監視されている立場なのだ。
*****
「
君!!ちょっと手を貸してくれないか!!」
翌日の午後、食堂で皿洗いに精を出す私の元に久坂さんが訪ねてきた。それもいつもの落ち着いた久坂さんではなく間違いなく慌てているのだ。声の逼迫さに驚き、手にしたお皿を滑り落としそうになったのはココだけの話。ギリギリで滑った皿を掴んだ。
「ハイ!只今!!」
同じく食器を洗っていた隊士の方に「少し空けます」と一声かけると、後ろで縛ったエプロンの紐に手を掛けながら久坂さんの元へ小走りで駆けていく。医務室へと促されて久方ぶりにこの船で最も馴染みのある場所へと戻った。そこには腹を抱えながら蹲る若い隊士が一人、低い唸り声を上げているではないか。一目見て感じた。この人…ただの腹痛じゃない。診察台に寝かせて久坂さんが腹の辺りを触診する。隊士は右側を押さえた時に一際声を荒げた。これは…
「恐らく急性虫垂炎だろう。鳥羽君、君は盲腸を切除したことはあるかい?」
鳥羽と呼びかけられた隊士は痛みに耐えながら首を振っていた。一度罹患し手術で盲腸を切除していれば二度目は罹らない。若い隊士だこれが初めてなのだろう。盲腸の切除はそう難しくはないが、ここ(船内の医務室)よりももっと大きく設備の整った病院の方がいいだろう。しかし、記憶を辿ってもここは港町の端。そう大きな病院は近くにはないと思う。久坂さんはどう判断するのか。
「俺も昔、ちょっとは真面な病院に勤めていた時期もあってね。盲腸の手術なら何度か経験したことがある。ここじゃ少し衛生的にも設備的にも満足できないが…余所に運ぶ時間は無さそうだ。
君もいることだし、二人で頑張ろうじゃないか」
「わ…わかりました。直ぐに準備を!!!」
新しい戦闘服に着替え、上には手術衣。ベット周りをカーテンで仕切り簡易的な手術空間を作り上げる。ここで無菌状況なんて不可能だ。タオルやシーツは新しいモノに、器具類は滅菌済みの物を取りそろえる。と言っても何とも心もとない環境だ。消毒用のアルコール、ガーゼ、手袋…次は何だ。あ、マスク!ステンレス製の台に備品を並べていく。私が準備を進めている間にも久坂さんは横たわった隊士の腹を露わにし位置を確認していた。
久坂さんの指示を受けて鳥羽さんに麻酔注射を打つ。しばらくすると彼の反応は殆どなくなってしまった。明りを照らし、出来る限りの準備を整えて午後二時過ぎ…それは始まった。医療用マジックで印をされた部分にメスが添えられる。ジョリ…と生々しい音と共に皮膚も肉も切り裂かれてピンク色の内部が露見する。腹部固定の為にステンレス製の器具が差し込められた。人体模型さながらの人間の内臓は、暖かく滑りを帯び、動いている。久坂さんが対象部位を器具で固定する。私は血管を縛る糸の準備。ピンセットでそれを掬うと器用に栄養血管を縛り上げていく。
「
君、ピンセットを使ってコッチ引っ張ってくれるかな」
「ハイ!」
久坂さんの位置からだと一度手を変えないと掴みにくい位置に糸が出ている。極細のピンセットで糸の先を掴むと軽く縛り上げる。
「もっと強くしないと!」
「了解です!」
血管を傷つけようものなら大量出血は免れない。慎重かつ丁寧に血管を縛り上げる。しかし盲腸の切除はあっという間だった。切り取った後は糸で綺麗に縫い上げる。最後は開いた腹も縫い上げた。盆には切除した盲腸の一部と血塗れのガーゼ。血の付いた器具は逐一洗浄液に浸している。切除は無事終了した。隊士はそのまま医務室でしばらくの間、安静にすることが命じられた。感染症にも注意が必要なのでとりあえず抗生物質を注射した。
手術後の後片付けも勿論私の仕事だ。手伝いを申し出てくれたがそこは任せて欲しいと丁重にお断りしておく。突然の大仕事に疲れたのだろう久坂さんは風呂に行くと言い残して医務室から出て行った。血塗れのガーゼは専用の袋に入れて一般ごみとは別に。器具類もそれ専用の手順で洗う。患者の眠った医務室には流れる水と金属の音だけが響いていた。片付けを一通り済ませて時計を確認するといつの間にか夕方になっていた。時間を意識した途端にどっと疲労感に襲われる。ただ外の空気を吸いたくなった。一人でいたくなったのだ。そう思う時がふとこないだろうか。私には時々あるのだ。丁度風呂から戻ってきた久坂さんに一声かけると「良いよ行っておいで」と許可を貰えた。少しだけ外に行こう。
夕暮れの空は赤く焼けて東からは薄闇が広がっていた。階段を上がり外に出た先で…無意識に上を確認していた。今日は窓が閉められている。
「(やだ…私)」
何故、上なんて見たのだろうか。理由なんてない…。頭に広がる雑念を振り払って胸に溜まった重苦しい空気を吐き出す。多分疲れているのだろうと思うことにした。
前とは反対方向に足を進める。船尾ではなく船首の方だ。通路も相変わらず積み荷やら何かの管が散乱し、お世辞にも綺麗とは言えなかった。足を引っ掛けない様に注意して進む。夕暮れ時特有の薄暗さで照らされた世界は“逢魔ヶ時”と呼ばれるにふさわしく不気味の一言に尽きる。変な胸騒ぎがする。そこでまた深呼吸を一つ。外の空気は閉塞的な船内の空気と比べて新鮮だ。そう思いながら、側面の通路を抜けて船首側の甲板に出たときであった。
「!?」
は驚いた。徐に甲板を見つめ捉えた先には思わぬ人物がいたからだ。生暖かくも静かな風がふわりと“あの香り”を運んでくる。鼻が覚えてしまった紫煙の香り。そこに居たのは見紛おうこともない、鬼兵隊の総督…高杉晋助。幸いにもこちら側に背を向けているので私の存在は見つかっていない。その背を捉えた途端に、私の体が反応し傍にあった大きな荷物の裏に姿を隠した。どうしてこのような行動を起こしたのか。恐らく、一人になりたかったというのが一番の理由だと思う。何故彼がここに居るのだろうか。煙草なんてせめて自室で吸えばいいのに。と、心の中で呟いておいた。彼が煙草を吸い終わり船内に戻るのが先か、或いは自分がこのまま見つからずに船内に戻るのが先か。自分が動いた方が良いだろう。大きな荷物に背を預けたまま、音を立てずに一歩通路の方へ歩みだした。
「奇遇だなァ。ほんと良く会うじゃねーか。まるで密偵でもしてるみてぇだ」
突然声が聞こえた。甲板には彼と私以外には誰もいない。つまりこの言葉は私に向けられているものだ。恐る恐る振り向くと煙管を加えたままの高杉さんが此方側を向き、気怠そうに後ろの手すりにもたれているではないか。距離はまだ開いているものの、彼の視線と交わった瞬間に息を飲み、その場から一歩も動けなくなってしまった。私は未だ信用されていない部外者でしかない。何処かの間者だと思われているのだろうか。しかし私はどこぞの間者でも何でもない。
「違います。私、そんなのじゃありません。ただの一般人です!」
「クックック。まあ…誰だって最初はそう言うもんだ。精々尻尾出さねぇよう気を付けるこったァ」
薄気味悪い笑いを浮かべながら高杉さんは姿勢を起こし、こちら側に向かって歩いてきた。悪いことは何もしていない。だが、このままここで殺されるのではないかという恐怖もあった。彼の腹の底は読み切れない。ましてや何が腹の底なのかさえもわからない。すれ違い様、歩みが止まった。視線だけを向ければ彼は前を見据えたまま口元だけを動かした。
「鳥羽の件、苦労掛けたな」
そう言うとふらりと船内へと姿を消してしまった。鳥羽さんと言うのは先ほど盲腸を切除した隊士のことである。さっき手術と片付けを終えたばかりだが、もう総督の耳には入っているようだった。確かに高杉さんとは思わぬところで遭遇することが多い。それもそれも偶然でしかないのだが、こうも多いと間者や密偵と疑われても仕方がないのかもしれない。私の存在を疑いつつも、気に掛ける高杉さんの本心が掴めない。彼は一体何がしたいのだろうか。
「ふぅ…」
緊張が過ぎ去りようやく体が自由に動くようになった。幾分か気分的に重く感じる体をずるずると引きずり、手すりの近くまでやって来ると思いっきり深呼吸をした。疑われようと何だろうと私は潔白だ。何時でも何度でもそれを主張し続けよう。これから進むべき方向にどんな道が待っていても、私にはもう歩きつづけるしかないのだ。ここで。日没の最後の輝きを目に焼き付け、私は船内へと戻っていった。
続・微妙な距離感。主人公の一日のライフスタイルの紹介でもある。
20160818*星宮はちこ 裏語