レプリカ虚像乙女
【第二章、混濁 十五話、鉄線に絡まる】
の耳が外の音を意識し始める。と、同時に浮遊するように全身の感覚が体に戻ってきたような気がした。だが目蓋はまだ開かない。ただ感じるのは体の重さと痛みと冷たい床の感覚だけ。しかも側面…と言うことは横たわっているのだろうか。
あれ、私また子さんと…。
そこでようやく目蓋が開いた。全てが覚醒する。先ずは眼が、次に耳が周囲を伺いどのような状況なのか情報を得ようとする。薄暗い空間に私は横たわっていた。広い空間に居るらしい。暗さで全貌は拝めないが天井があるのはずっと上。起き上がろうとするも後ろ手で縛られているらしく、ついでに体の痛みと怠さも相まって芋虫のように前後に体を動かすのみに留まった。冷たい床はコンクリートだろうか。ザラザラとした質感だ。私…。働かない頭をフルに回転させ、記憶を辿る。また子さんと煙草を買いに行って…、連絡するからと言われて…ボーっとしてて…変な人に会った…?
「!」
思い出した!攘夷浪士に絡まれたのだ。裏路地へと連れ込まれたが、一瞬の隙を見計らって奴らの手を振りほどき逃げた。表に続く道は彼らの仲間で塞がれて奥へ奥へと逃げるしかなかったのだ。無我夢中で走った。だが、慣れぬ草履と着物ではそうスピードも出ない。特に腿が開かない長い裾丈は全力疾走には向かなかった。あっという間に追いつかれ…それからの記憶はない。起きたらここに居た。多分、捕まった。いや絶対捕まった。このまま私はどうなるのだろうか。彼らの目的は何だと言うのか。考え始めたらキリがない。
は途端に怖くなった。また子さん…途中でいなくなってしまってごめんなさい。でも迷子じゃないんですよ…ただ拉致されただけです、心の中で呟いておく。不安と恐怖と彼女への謝罪、自分の無能さへの絶望が心の中で渦巻いている。逃げようにも逃げ道が分からないし、体が重くて思い通りに動かない。どうやら薬でも嗅がされたらしい。働かない頭と僅かに痺れの残る手…今は開いた目と耳だけが頼りだった。
「お目覚めのようだな」
私の元に一筋の光が伸びる。外とをつなぐ扉が開いたのだろう。芋虫の様(サマ)で逆光の男を睨み上げる。ご丁寧に三人揃っているではないか。起き上がることは叶わないが、少しだけ上半身を起こすことは出来る。男は喉の奥でクックッと笑った。
「我らは“憂国党”なる攘夷組織。お前の様な小娘が“攘夷”と言われてもピンともこんだろう。我らは日夜この国を変えんと奔走しているのだ。そのためには何より金が要る。悪いがお前には我らに協力してもらおう」
「私を…どうするつもりなんですか?一般人を巻き込んで何がしたいのですか」
腹の底から声を張り上げていた。私が抵抗するのは計算済みだったようで男たちは気にも留めていない。後ろの二人(どうやら子分らしい)がざっと私の前に立つとケラケラと愉快気に笑った。自身が危険に晒されているのも重々承知だが、こいつ等なんだが鼻につく存在だと
は思った。眉間に皺が寄る。私は一層睨みつけた。だがそれすらも微々たることとして男たちは笑う。
「はーっはっは!抵抗しても無駄だ。先ずは俺らの人質になってもらおうではないか!身なりもちゃんとした嬢ちゃんならそこそこの家だろう?お父さんとお母さんに身代金をたんまり請求してやろうぞ!」
「でもまだ家には帰せねぇよ。と言うよりもうお家には帰れないからなァ。身代金貰ったら俺らの知り合いの“千鳥”って奴らに売ってやるからよォ。千鳥ったァ有名な人身売買のプロだ。精々どこぞの風俗か遊郭で体売ることになるだろうがな」
告げられた言葉は外道の一言に尽きる。
「…酷い。身代金だけに飽き足らず人身売買なんて。貴方方は“人間”を一体何だと思っているのですか!大体、攘夷志士はこの国を変えんが為に、己の魂を賭けて闘う侍の集団ではないのですか!?貴方方の思想はそんなちっぽけなモノなのですか!」
私が出会った攘夷志士は、幕府が最も危険視すると言われる過激派だった。理不尽にも多くの人を殺してきたのだろう。でも、そこには信念と覚悟があった。この国をぶっ壊したいなどと恐ろしいことを言いつつも、そこに己の魂を賭け、信念を貫いていた。その信念に惹かれ…多くの人が集まった。でもこいつ等には信念も思想も、誇るべき魂もない。だからこいつ等は私が知る人たちとは違うのだ。
「貴方方はただ“お金”が欲しいだけ。そこらのチンピラやヤクザと変わりはしない…今どきヤクザの方が筋通して生きてるじゃないですか!」
それは私の想いの全てだ。
「ウルセェ小娘がァ!!知った口聞くんじゃねェよ!!」
─バンッ と、胸倉を掴み起こされた挙句頬を思いっきり打たれた。途端に血の味がする。鼻血も出たらしい。生暖かい感覚が勢いよく零れる。それはポタポタと零れ落ち…胸の辺りを赤く汚す。叩かれた頬もジンジンと熱を帯びている。最悪だ。女に手を上げる男なんてゴミ屑だ。パッと手を放されると、体を支えることが出来ない
は床に転がる。肩と耳と側頭部を盛大にぶつけた。
は唇を噛みしめ痛みに耐えることしかできない。
「オイオイオイ。顔は止めとけ…商品に傷が付いちゃ売値が下がる。精々体にしとけやァ」
「フン。これに懲りて無駄口を叩かぬことだな」
「先ずはお家に身代金の要求をしなければならねーな。そこそこの家の娘ならば身代金は三千万と言ったところか…。それ位はパッと娘の為に用意できるだろう」
この方法でどれだけの人からお金を巻き上げ、己の懐を満たしたのだろうか。そしてどれほどの娘が売られていったのだろうか。きっと一人や二人じゃないはずだ。外道。滅びろ。痛みに耐えながら男を睨みつける。
「名は
と言うらしいな。ザッと荷物を見たが大した物はなし。身分証も見当たらなかった。住所が分かるのはコレだけ」
掲げられたのは、今日ポストに投函し損ねた“あの家の私宛ての差し出し人の名を書いていない絵ハガキ”だった。これは、自分宛てにしているが勿論
に向けてのメッセージ…彼女なら気付いてくれるだろう。私が元気でいることに。とっとと投函すればよかった。逃げ出た家宛てに身代金の督促状が行くのは困る。とても困る。
「その住所は関係ない!私はその住所には居ません。身代金なんて請求しても…私にはそれだけの価値はありません。わかったなら解放して下さい。今なら警察にも言いませんから!!」
「フン。その強情な態度が何時まで保つやらなァ!お前は俺らにとっちゃ金に換わるモノでしかない」
「取引は今日の夜…。それまでにこの地球(ほし)とお別れしとけや」
そう言い放つと男たちは部屋を出ていく。薄暗さと静けさの戻った部屋で私はただ力なく項垂れるしかなかった。今は…この状況に置かれた自分の心配をしなければ。彼らの言う千鳥という名前は初めて聞いた。人身売買などと言う外道をやってのける犯罪組織だ。引き渡されてしまえばもう陽の下に戻れないだろう。それまでに逃げなければ。だが縛られた縄はどう足掻いても緩みはしない。両手を縛られたままでは十分には動けない。大体ここがどこなのかもわからないのだ。逃走経路が分からなければ直ぐに捕まるだけ。先ずはこの部屋のことを探らねば。後ろ手に縛られたまま体を“くの字”に屈め、肩を支えに正座状態に起き上がる。だが上半身を起こしておくだけの力は戻っていないので、正座をしながら頭を垂れている状態だ。もう少し体が思い通りに動くようになるまでしばらく待つしかなさそうだった。
大体、あの家に誘拐の犯行声明に身代金の請求があっても、誰かの悪戯扱いが精々だろう。だいたい私は世間的には確か病院に入っていることになっているはずだ。身代金が手に入ろうがなかろうが…千鳥と言う組織に売り飛ばされることは確実。そして、鬼兵隊側が助けに来てくれることは皆無。ただの怪しい女が一人消えたに過ぎない。まだまだ一部の隊士には間者疑惑をかけられていたので、もう確定されているかもしれない。誰も守ってはくれないし誰も助けに来ない。如何する私…。
悔しくて情けなくて涙が零れてくる。どうしてこんなことになってしまったのだろう。あの時また子さんに無理矢理でも付いて行っていれば、あの時裾を割ってでも全力疾走していれば、あの時秘密道具の一つでも持っていれば。何より、私に戦う力があれば…こんなことにはならなかった。
どれほど時間が経っただろうか。涙が枯れた頃に重い体をどうにか動かしてその場に立ち上がると、覚束無い足取りで薄暗い空間をゆっくりと進む。どこかの倉庫だろうか。広いだけで何もモノがないと思っていたが、歩いてみると隅の方には意外と物が詰め込まれているようだ。何やら箱に入っているそれは見た目では“何なのか”はわからない。倉庫…ならばきっと港町だろうか。窓の無い空間では外を覗き見ることも叶わない。ただ空間を歩き回るだけだ。男が出入りしたであろう方向へと進むと扉が見つかった。しかし案の定鍵が掛けられており、どれだけノブを動かしても体当たりしてもビクともしなかった。今は…いつなのだろうか。時計も窓も無い世界では時間感覚さえ薄れてくる。来島との最後の記憶は確か夕暮れだった。そしてさっき男が言った言葉…
“取引は今日の夜”
気を失っていた間を考慮しても、今はもう夜が明けたと思って間違いないのだろう。朝か昼かはわからないが、それでも夜までにここを抜け出さなければ。
は今一度人気のない倉庫内を彷徨い歩いた。
…
‥
「…」
また気を失っていたらしい。
は目蓋が開いたと同時にそう思った。体を動かそうにも椅子か何かに座らされ、胴に足まで固定されているので叶わない。そしてやっぱり頭が重かった。垂れていた頭を上げると、目の前に立った男と視線が交わる。勿論、三人組の一人だ。
「取引前だってのにちょこまか動きやがって。ちっとは大人しくしておいてもらわねぇとな!!身代金の受け渡しまでもう直ぐだ」
「家からの…接触は?」
声を出したくても喉の渇きと体の重さで最後が擦れてしまった。私の言いたいことはどうやら伝わったらしく、フンと鼻で笑った後で男は口を開いた。
「そーいや、一度連絡があったぜ。良かったなぁ~お嬢ちゃん!勿論身代金の三千万を持ってくるように言ってやったから、すぐに来てくれるぞ。そいつを受け取ったら宇宙へいけるんだからなァ!!」
心の中で「外道」と呟いた。もう体に力が入らないのだ。今の状況で全ての縄を解かれ自由になっても、立ち上がって走る体力は残っていない。つまりは逃げられないのだ。人間が…いや自分がこうも弱っちいものだとは自分自身思わなかった。
地を這いつくばってでも泥臭い“生”を望んだ私の顛末が、本当にこんなに惨めなものだなんて…。想像できたであろうか。攘夷を語るチンピラ集団に誘拐され、身代金の搾取、挙句の果てには人身売買。体が動く限り働かされ、最後にはきっと殺されるに決まっている。それが今か先かの違いしかない。だがここで自死する勇気も
にはなかった。心の奥底で“生きねば”という思いがあったからだ。単純に死を望んだなら…あの塔の上で疾うに選んでいた。あの状況で僅かな希望に縋った私がいたのだ。ここでもそう。単純に“死”を選ぶなんてできない。精々足掻くことしか私にはできないのだ。
「来ないですよ」
無意識にそう漏らしていた。男が鼻息を荒げて「アァ!?」と睨んでくる。そこで私はもう一度同じことを告げた。あの家の人間はここには来ない。あそこを出た私はもう家とは無関係な存在だ。足掻くこと…それは私にとっては、この状況に甘んじて“死”を享受することではなく、この状況に抗って戦うことそのものだった。この人たちと戦う。それは武器同士の争いというような単純なものではない。戦闘力のない私はそもそも敵うはずもない。私は私の“魂”を賭けてこの人たちと戦うのだ。その闘争の顛末が例え死であっても。私は理不尽な暴力には屈しない。私の“魂”を守る為に、声を上げて戦う。
「お金が欲しいなら銀行強盗でもすればいい。関係のない人間を巻き込んで…一体何がしたいのですか。思想も理想も語れない貴方方は攘夷組織なんかじゃありません。ただのチンピラです。この国を変えたいとお思いなら、本物の“彼ら”と同じように…戦えばいい。貴方自身の魂を賭けて…戦えばいい」
浪士が目蓋をひん剥いて震え、血走った目が私を見下ろしている。間違いなく怒らせてしまったのだろう。この状況だ。私は命の危機に瀕していると言うのに…どうしてだろう。私の心は恐怖ではなく、清々しさに包まれているのだ。
「ナメた口聞きやがって!この女ァ!」
胸倉を掴まれ椅子ごと持ち上げられると男の握りこぶしが頬を打った。衝撃で咥内を切ったのだろう、何度目かの血の味がした。手を放されるとパイプ椅子の金属音と同時に床に転がる。浪士の足が私の腹部に押し込まれた。何度も、何度も。口から唾液と血が混ざったものが零れる。
やっぱり暴力は、痛い。そして女に手を上げる男は最低だ。
は腫れた目蓋の歪な視界の中でそう思った。足蹴りが腹から肩に移る。空いた肩を蹴られると反動で椅子ごと転がるしかない。その拍子で髪留めが転がった。視界がぐるぐると回ったおかげで、三半規管が麻痺している。前はどっちだろうか。荒っぽい足音と同時に部下の浪士が数人入ってくるのが見えた。三人組かと思ったがもう少し仲間がいるらしい。各々が私に暴力をふるう浪士に向かって「千鳥がどうの」だ「価値がどうの」だ意見している。人身売買も楽ではないようだ。行為そのものは外道だが。
転がったままの私は胸倉を掴まれると椅子ごと起こされ体勢を整えられた。力が入らない。
はまるで人形のように椅子に項垂れていた。固定するモノを失った長い髪が肩を流れるように落ちてくる。
「良い髪だ。せめてもの形見だ切り取って家に送り付けてやろうか。ん?何だ」
薄れゆく意識の中で私は“髪なんて勝手に切ればいい”と思っていた。髪なんて放っておけばいつか伸びる。だが男の関心は髪には注がれていないらしい。節ばった手が伸びてきたかと思うと胸倉を掴む…わけではなく首元の何かに触れたのがわかった。これは…
「それに…触れるな」
「あぁん!?俺に意見しようってのかァ!?」
私の首元から下がっているのは母親の遺したネックレスだった。目の前で交通事故に遭った母。真っ白な病院で対面した時にはもう息がなかった。ベッドの傍らに置かれたステンレス盆に置かれた血塗れの首飾り。表が開くそれは、中に写真が入っていた。最初で最後の家族写真だった。父と母と…私と、車いすに乗った妹達の。後から親しい人に聞いたところによると、これも元は父から贈られたものらしい。思い出が賊に触れられるのは気に食わなかった。男を睨みあげても効果はない。ニヤリと笑うとそれを引きちぎった。繊細な金属がシュルリと首を這い、離れる感覚がする。「売れば呑み代にゃなるだろよォ」と男が形見を懐に入れる。何処までも非道。唇を噛んでゆっくりと目蓋を閉じれば、両親との思い出が浮かんでは消えた。昔は…色々あったなぁなんて呑気に思い出に浸る。が、彼らは静寂すら与えてはくれなかった。
「う…ぐッ!?」
髪を引っ張られ顔を上げられた。痛い。私は痛みを耐え忍ぶ為に一層唇を噛んだ。高い金属音を捉え薄目を開ければ白刃の輝き。研ぎ澄まされたそれは私自身を映していた。
「存分に痛め付けてやろうじゃねーか。見せてやるよ。てめーが言う、魂賭けてる俺らの戦いってもんをよォ」
「殺せばいいわ。女が一人死ぬだけよ」
体に力が入らなくなった私は男たちのされるがまま。髪を引っ張られる力でどうにか頭を上げている。殴られた頬や肩、腹が重く痛い。そして全身が冷えて寒さを感じていた。霞む視界の先には家族や友達や先生といった思い出の人たち…ではなく、何故か飄々と佇む紫紺の後姿が浮かんでいる。何故だろうか。しかしそこに居る人は確かにあの人なのだ。意識してしまえば、途端に考えてしまう。死ぬ前にもう一度高杉さんに会いたい…と。
「オイ。お楽しみ中の所悪ィが煙草…持ってねーか?」
殺気渦巻く中で遠くから声がかかった。聞き覚えのあるような無いような。力を振り絞り目線を上げると、見覚えのある幻影が浮かんでいた。幻聴に幻影。ここまでくると相当ダメージを受けているようだ。しかし私を取り囲む男たちが一斉に刀に手を掛けて殺気を幻影に向けているではないか…つまりは彼らにも見えているらしい。「高杉さん…どうして…」と声を出したつもりがったが、腹に力が入らずに音にはならなかった。
「貴様何者だ!!身代金の受け渡しまではまだ時間があったはず!」
「兄貴ィ!そもそも取引は二つ向こうの倉庫指定ですぜ!!」
彼らの動揺が手に取るようにわかって何だか可笑しく思えた。
「身代金だァ?んなもん知らねーな。そんな女どーなったって構やしねぇ。大体、俺ァ煙草…吸いに来ただけだ」
艶やかな着流しに黒い羽織。腰には一本の刀。頭に巻かれた包帯。高杉さんは相変わらず飄々とした様子で入口の壁に背を預けて佇んていた。浪士側は六人で高杉さんは一人しかいない。取り囲まれたら一溜りも無いだろう。
「我らが攘夷組織“憂国党”と知っての襲撃か!?」
「ア?何だ…知らねぇなァ?」
高杉さんは彼らの話を殆ど聞き流している様子でジッと男たちを見つめている。いや違う…私を見ている。暴行され続け腫れあがっているであろう顔をそんなにも見られたくはない。髪を引っ張られているままの私は視線だけを下げる。浪士たちは、自分たちの数の多さを意識しているのか幾分か余裕があるのだろう。手前側にいた一人がニヤリと笑いながら声を荒げ高杉さんに襲いかかった。
斬られる!
その瞬間を見ていられなくなって、思わず目蓋を固く閉じる。つばぜり合いのような金属音もなく…ただ風を切るような音と肉が斬られると音が耳に届く。そして断末魔と呼べる叫びも。その声の主は勿論浪士の方であった。急いで顔を上げると、抜身の刃を血振りする高杉さんの姿。傍らには亡骸が転がっている。
「貴様ァ!!何者だァアア!!」
浪士の親玉が大声で叫んだ。
「お前ェらに名乗る程のモンでもねえ。だが攘夷活動やってる組織の端くれなら、よもやこのツラ…知らねぇはずがあるめぇよ」
私が捉えた彼の瞳は…正しく“鬼の眼”をしていた。そこに恐怖を抱くこともなく、ただ浮かんだのは「みんな殺される」という一言。私を取り囲む男たちが生きようが死のうがどうでもよかった。高杉さんに人を殺めて欲しくないという思いだけが私の心を動かしていた。
「止めて下さい!高杉さん!!この人たちを殺してはいけません!!」
無意識に擦れながら叫ぶ。まるで悲鳴の様だ。私の言葉を聞いて男たちが次々に「高杉!?」だとか「幕府が最も危険視する男!?」と口にしている。そしてこの空間が一斉に緊張感に包まれた。
「言っとくが俺ァ、売られた喧嘩は買ってやるぜ」
刹那、血しぶきが舞っていた。血なんて職業柄見慣れているはずなのに…おびただしい量の血液が宙を舞っている。岡田さんの言っていた“命の奪い合い”つまり、“戦場”と言うモノを見たのはこれが多分初めてだった。高杉さんが振るう刃の一撃で相手は絶命する。滑るように肉体を刀の筋が通ると、噴き出す血が床を汚し広まっていく。肉が斬られる独特な音と断末魔の叫び。胴を斬られながらも逃げ惑う浪士に止めを差す。それは映画でもドラマでもない、目の前に起こった現実の出来事だった。
縛られている私の足が震えているのに気付いた。あれだけ人がいたのに、目の前で立っているのは高杉さんだけ。他の人はもう物言わぬ亡骸となって血の海の中で転がっている。生暖かい血の匂いが離れない。振り返った彼の獣の眼差しが私を捉えた。
「よォ迷子。いや…裏切り者さんよォ。どうだ、命乞いはしねーのか?」
弱肉強食という言葉がピッタリなのだろうか。視線が交わった途端に私の頭の中には“死”と“恐怖”がありありと存在感を示した。最近“死”が随分近くに感じるようになった。足の震えも止まらないまま。今の私は鬼兵隊の組織からいなくなった女…つまりは裏切り者なのだ。
─ジャキン と、金属音がしたと思えば首元に切先が添えられていた。鈍い輝きが私の瞳に届く。これを引かれれば声を出さずに死ねるのだろうか。いや、死にたくはないが命乞いを出来る様な勇気と体力は私には残っていない。再び私は目を伏せた。抵抗することはしなかった。「命乞いしたって、どうせ殺す…くせに…」独り言のように呟く。どれだけ泣き叫んでもこの人は殺すと決めたら殺す。さっきの戦い方を見てそう思った。情けなんてかけない。命乞いなんて高杉さんにとってはただの戯れにしか過ぎないのだろう。弄り殺されずに、せめて一撃で殺してくれるなら良い方なのかもしれない。
「でも、一つ…我儘いいですか?」
高杉さんは私を見下ろしたまま何も言わなかった。私ももう一度目を伏せる。
「死んだら、土に埋めて。海の藻屑には…なりたくない」
「クックック。悪ィがそりゃ聞けねーな」
そう言うと首元のひんやりとした感覚が消え、胴に力が加わった。何事かと目蓋を上げれば、高杉さんの刀が私を縛り付けている縄を切り落としているではないか。長い刀を器用に使い胴と腕、両足が自由になった。
「立てるか?」
そう尋ねられ私は「…大丈夫です」と答える。頭の中では簡単なことだと思っていた。肘掛もない簡単なパイプ椅子の座っている所に手を掛け、両手足に力を込めて立ち上がった。はずだった。太ももには力が入ったものの足先に力が入らず、立ち上がった体を両足で支えることが出来なかったのだ。途端に前に倒れそうになる。あ、危ない…なんて能天気に考えていたら、視界には艶やかな蝶の柄が広がった。
咄嗟に彼の名前を口にしていた。前に倒れかけていた私は高杉さんに抱きすくめられていたのだ。布越しに感じる硬くて温かい肌の感覚と紫煙の香りに包まれる。恥ずかしいのに、この状況を振りほどくほどの体力はない。体を動かした拍子に体勢が大きく崩れそうになる。と、高杉さんは私の膝の裏に片手を回すとヒョイと横抱きにしてしまったのだ。成すがままと言ったほうがいいのだろうか。横抱きの体勢は抱えられている彼に体重を預けるしかない。つまりは彼の肩や胸元に体を寄せ…縋るしかないのだ。
「大人しくしてろ。このまま船に連れ帰ってやる」
「…どうしてここに?」
言われた通り私は彼の胸板に全てを預けた。下手に動けばこのまま滑り落ちるかもしれない。私が大人しく抱かれているのを見計らって視界が動き出した。血なまぐさい部屋を出て長い廊下を進む。そして私の疑問に対しての明確な答えは無かった。ただ、
「ったく、どいつもこいつもウルセェ奴しか居ねぇ。お前…煙草は?」
そう言えば煙草の使い走りを頼まれていたのだ。思い出した。
は胸元に押し込めていた煙草の葉を取り出した。包装の隅の方が血で汚れているが、中身には問題ないだろう。浪士に追われながらもこれだけは手放してはいけないと、胸元奥深くに突っ込んでおいたのだった。そのままここに在ったと言うことは、探られたのは精々袖の周辺までで、深くは触れられていないと言うことだろう。一先ず安心。
高杉さんは煙草の包みを見た途端に「吸うから準備しろ」と言い出した。嗜好品で中毒症状が表れているのかどうかはわからないが、私を抱いたこの状況で煙草吸いたいってどういうことだ。大体煙管なんて私は持っていない。勝手がわからず戸惑っていると、ぶっきら棒に「腹の所だ」と言われた。つまりは手を突っ込めと言いたいのだろうか。恥ずかしさも何もかもを押し殺し…ゆっくりと割れた着物の間に手を伸ばす。気にしたら負けだ。気にしたら負けだ。
…落ち着け。と言うか…着物ってもっとぴっちりと衿を整えて着るものだと思っていたが、彼の場合はもう随分と緩々なのだ。結構前が肌蹴てしまっているようにも思える。
腹と腰を繋ぐ帯の所に硬いそれは転がっていた。指先だけ触れるとサッと煙管を取り出す。適当な量の葉を取り出すと軽く丸めて先に詰め込んだ。問題は火だ。ライターもマッチも持っていない。そのまま固まっていると「腹」と声がした。はい、つまりはさっきの所にあるらしい。帯の位置まで手を伸ばすとライターかマッチかを探る。しかし煙管よりかは存在感がないので中々見つからない。右側…ではないなら左側。やっぱり右側…あ、あった。横抱きにされしかも高杉さん自身は歩きながら…何とも不安定な姿勢でマッチに火を点けると、火皿に熱を移す。緩く上がった煙を確認して口元へと差し出した。高杉さんがそれを咥えて煙を味わう。吐き出した煙は彼がいつも纏うものと同じだった。
「まあまあだな。これを機に火の点け方ぐれェ勉強しろ」
「努力します」
廊下の突き当たりを曲がると他とは違う扉が現れた。高杉さんはその扉を勢いよく蹴破った。途端に風が通り抜ける。扉の向こう側はまた別の倉庫の様であったが、反対側にある戸口のシャッターが大きく開かれ外が見えていた。もう一度高杉さんが煙を吐いた。
だだっ広く薄暗い空間を進む。開いた開口部の近くまで来ると人影が揺らいだ。奴らの仲間だろうか。
は身構えていたが高杉は構わずに人影の方へと歩いて行く。恐らく鬼兵隊の仲間なのだろう。逆光の中、向こうに立つ人物の輪郭がはっきりしてくる。サングラスを着けた黒い服の男の人。初めて見る人だ。
「行くぞ」
高杉さんのその声を聞いて男は笑った。
事件解決。んでもってこっから地味に(?)糖分過多注意報発令です。
20160919*星宮はちこ 裏語