レプリカ虚像乙女
【第四章、隠匿 三十四話、餡泥女堕よ永遠に】
最終日までのカウントダウンもあと数日。主人からのしつこい勧誘は相変わらずだけど、一心不乱に働く行為は嫌いじゃない。最初は慣れなかった接客業も、旅籠の頃から経験を積み立ててどうにか様にはなって来た。まだまだトラブルも多いけど。
「
さん。悪いんだけど、今から隣の建物の二階…片付けて来てくれないかしら」
隣の建物って…何があったっけ?実は入ったこともない。それは表情にも出ていたようで例の女主人は教えてくれた。何でも隣の建屋の二階を買い取り、貸しスペースにしているらしい。将来的には甘味を振舞いながらお稽古教室やイベントを開催したいと言う。昨日は一日中利用者がいたようで、その片付けを任されたと言うわけだ。鍵を借りて店を抜ける。隣の建物には初めて入った。二階は思ったより広くてお洒落。使用後なのだろう座布団が歪に並んでいる。ゴミ箱には溢れんばかりに色々詰め込まれている。言われた場所から掃除機を取り出し、座布団を片付けると清掃に入る。広い部屋だけど、綺麗になっていくのが気持ちいい。折り畳みの机も片付けて、最後にゴミ箱のゴミを取りまとめて…と、無理矢理突っ込んだのだろう上の紙屑が転がった。慌てて拾い上げる。
「…」
見てはいけないけれど中が見えてしまった。そこに記された内容に手が震える。ハッと気づいて周囲に誰もいないか確認してしまうくらいに。大丈夫…誰もいない。ゴミを拾うなんて理解され難いかも知れないけれど、これは重大な内容だ。念のためゴミ箱の中を漁る。破られた破片にも何やら気になることが書かれている。二つ、三つ。繋げれば何とか読み取れる。持ち出したいけれど、簡単に落ちるところには入れておけないだろう。考えて上の下着内部に入れておくことにした。最後まで確認してギュッとゴミ袋を縛る。よし。何事もなく、動揺も見せずにゴミ袋を運び出すと入れ物に突っ込んでおく。今例の袋に入っているのはティッシュやら飲み物の容器といった日常のゴミだけ。
「(あれは…もしかして…)」
緊張感を持ちながらその日は仕事に励んだ。それでも仕事は順調に進む。時間が経つごとに客足が鈍りまた1組、また1組と食事を終えて帰っていく。食器を洗い片付けながら清掃と備品類の補充を行う。時々バイトでおしゃべりもするけれど、今日の口数は少ない。
やがて閉店時間になって暖簾を外す。店長はレジのお金を数えている間バイトは片付け。時間が少し押していたけれど問題ない。万斉さんはもう迎えに来ているだろうか。「よかったら明後日からの新商品。みんな試食して頂戴ね」 片付けが終わろうとしていた私たちの前に色とりどりの甘味が置かれる。あ、美味しそう…何て思ってしまったけど我慢だ。万斉さん待っているのだから。
「すみません!お先に失礼します!」
「
さん例の彼氏?」
「えー会いたい!!」
なんて外野が大盛り上がり。そこは違うと否定しておくけれど、大体は話すら聞いてくれなくて逆効果だったり。私は荷物を持って店を出た。しばらく道沿いに歩くけれど声かけはしない。数分歩いて、お店が見えなくなってから私は口を開き彼の名を呼ぶ。場所はいつもと同じ。でも今日は返事がないし姿もない。あれ?万斉さんいない??
周囲を見渡しても姿も気配もない…初めての展開だ。何かお仕事でも入ったのだろうか。私にはそれを確認する術もないし、むしろ今まで毎日迎えに来て頂いてたことの方がイレギュラーだったのかもしれない。一人で帰るのは寂しいけれど、いつもの道にいつもの景色。一人、話し相手がいないだけでこうも心許ないとは。何だかんだ毎日ゆっくり帰っていたけれど今日だけは急ぎ足になるのは仕方がない。近道のために大きな公園に入る。と、視線の先に人影が一つ。ベンチでもない何かの柵に腰掛ける人。背中には三味線、夜だけどサングラス、最新のヘッドホン。
「万斉さん!?」
「
。遅くなってすまぬな」
「今日はいらっしゃらないかと思いました」
「寂しいか」
「少し」
言い切った。本当は、やっぱり寂しくて…ついでに言い切った自分が恥ずかしいのだけれど。もちろんそれは表情には出さない。私の答えに満足したのか、優しく笑った万斉さんは腰を上げた。「お仕事ですか?」聞けば「そんなとこでござる」と当たり障りなく返ってくる。忙しい時もあるものだ。それ以上の追求はやめよう。
「今日は順調であったか?」
もちろん順調だ。オーダーが通っていないと言うトラブルもあったけど。やっぱり例の主人の勧誘がすごくて…。今日も三度誘われた。でもここに残る理由はないのだ。いつもの公園を通り薄暗いトンネルを抜け、住宅街へ…。と、
「
、今日は少し散歩でもせぬか?」
「散歩ですか?いいですけど」
指さすのは右の方向。小さな用水路沿いの小道。今日の彼は少し変だ。何がどこが具体的に変なのかはわからないけど。いつもと違うことだけは私にだってわかる。私の頭上には疑問符が浮かぶ。彼の差した通りの用水路沿いの道を並んで歩いた。初めて通る道。旅行とか遠出の旅路は真新しいものが溢れていて、よく窓から外を眺めていたものだ。寝るなんてありえない。遠い昔を思い出しつつも木の葉だけを付けた街路樹の種類を探る。街灯が数メートルおきに並んでいる。灯りに照らされ、薄闇に戻り、また灯りに照らされ。特に会話はないけれど。彼の横顔を伺いながらその動向を探る。でもサングラスで表情は不明。何を考えているのかも不明。
「主を見ていると飽きぬな」
こっちには目もくれずに歩いていたと思っていたけれど、どうやら万斉さんをチラチラ見ていたことはバレていたようだ。サングラス恐るべし。どう取りつくろうか考えてみたけどいい案は浮かばず、だだ笑うに止まった。人気のない街をブラブラと散歩していた私たち。歩き始めてどれほど時間が経っただろうか、突然万斉さんが口を開いた。
「もう良いでござる。帰るぞ」
「え?終わりですか?」
「うむ。仕事で詰まっていてな、良い気分転換になった」
「それは良かったです」
この散歩にはどうやらそんな意味があったらしい。予め言ってくれたら良いのに。
は内心そう思いながらも一人足を早めた男の後を追った。
*****
時は接客のピーク。同時に私の焦り・苛立ちもピークだ。
契約終了までのカウントダウン…残り後0日。むしろマイナス1日。つまり期限切れなのである。私はなおこの甘味処「餡泥女堕」でバイトを続けていた。それもこれも昨日のこと。要は労働最終日であるが、珠代ちゃんが風邪を引いてしまったらしく昨日今日とお休みになってしまったのだ。私が抜ければ今日は人員が二人も足りないとのことで、例の主人に頼まれたのである。本当は断りたかったけれど、彼女にも電話越しに鼻声で頼まれては仕方がない。最後に1日という約束で今日も出勤することになった。女主人あわよくばもう1日、もう1日と勤務を延ばそうとしているけれど、これはキッパリと断る。断るつもりだ。
そんなこんなで追加労働。本来ならば…と言う気持ちも相まって接客のピークにはこうも心が落ち着かないのである。「いらっしゃいませ」新たに入店したお客様には、順番待ちのため、人数と名前を書いてもらうように促す。空いた席は素早く食器を引き上げて拭き上げる。そしてこう言う時に限って、備品が足りないやら注文した品が届かないやら何かしらのトラブルが発生するものだ。今日はとっても忙しい。大体は昼過ぎから夕方にかけてピークがやってくる。そして16時を過ぎれば客の来店も落ち着き、17時半のラストオーダーまでゆっくりと片付けやら清掃やらを行えるというわけだ。仕事が落ち着いた頃に、呼ばれたので裏の事務所に入る。
「ねえ、やっぱり考え直さない?」
「ありがたいお話ですが私は戻ります」
「無理かしら…残念ねぇ。まあうちに戻ってきたくなったらいつでも歓迎するわ。珠代ちゃんも明日は来てくれるって言ってたから」
今日でここでの仕事も終わりだ。「最後までよろしくね」と声をかけられて頭を下げる。事務所から出た私をバイト組が労ってくれた。最後まで頑張ろう。ラストオーダーの時間が近づいてくると、新規のお客さんもほとんどいなくなり、在店しているお客が帰るのを待つのみとなる。もちろん後片付けに追われているのだけれど。私はホールには出ずに洗浄後のお皿を綺麗に拭いていた。もうすぐ17時半だ。
「すみません
さん。多分テラス席にご新規さん一名いらっしゃってて、お水も出てないのでオーダー取ってないです。私、包材の在庫取ってくるのでラスト接客お願い出来ますか?」
「了解です!」
こんなギリギリにご新規さん一名でとは珍しい。残り三十分くらいで閉店だという旨は最初にお伝えしなくては。店内にはお客さんが数組残っている。メニューを手に私はテラス席に急いだ。と言っても店内を走る訳にもいかないので早歩き。スタスタと音が出るくらいに軽快。明るい店内に比べてテラス席は灯りも限られているのでどちらかと言えば薄暗い。パッと見ると確かにお客さんが座っていた。近付く毎にハッキリと後ろ姿が見えてくる。
“それ”を認識した時、軽快だった私の足が止まった。
店のど真ん中で立ち尽くした私が、再び動いたのはしばらく経ってからだった。ゆっくりと踏み込む足が少し震えていたような気がする。明るい店内を出た私は外、テラス席へと出て行った。お客さんの真横まで歩み寄る。そこで片膝でしゃがみ込みオーダーを取るのだ…本来ならば。
「高杉さん…」
気怠そうに椅子に腰掛けていた男の眼差しが私に突き刺さらんばかりに向けられた。背筋が凍るような緊張、動揺、そして恐怖。この状況を生み出したのは私。悪いのは私だ。何も考えられない。思考すら働かなかった。フンと鼻で笑ってから彼の視線が遠くに向けられる。
「この店ァ客がこようが接客する気がまるでねぇ。俺がいても注文一つ取りにこねーじゃねぇか」
苦し紛れに声が漏れても後が続かない。“いらっしゃいませ、当店は営業が18時までとなっておりますがよろしいでしょうか?” 口が動かないからその台詞が出てこない。もはや茶番にもならない。懐から愛用の煙管を取り出した高杉さんは火種を移す。このお店は全席禁煙なので、その旨をお伝えして火を消していただかなくてはいけないのに。私は突っ立ったまま。
「で、注文取って貰おうじゃねーの」
静かな声。これは諦めと呼ぶべきなのか、彼のその言葉を認識してから強張っていた体から力が抜け、注文を取るいつも通りの体勢になった。つまり片膝を立ててしゃがみ込んだのだ。胸元が大きく開き丈も短い制服。足も少し開いていた。煙管を咥え込みながら煙を味わう高杉さんが大きく煙を吐き出す。チラリと冷めた視線が寄せられた。「昨日までだと聞いたのに。てめーは、んなとこで何してやがんだ」バッチリと視線が合ったまま動けない。まるでサバンナのライオンとガゼル、あるいは蛇と蛙。殺るものと殺られるもののような関係だろう。彼の言葉に再び凍りついた私をよそに彼は悠々と煙を味わっている。
「茶番は終ぇだ。帰るぞ」
簡潔にそう言うと立ち上がり街灯が並ぶ通りの闇へと消えてしまった。視線だけが背中を追う。彼の言葉はつまり早く仕事を切り上げて戻ってこいと言いたいのだ。しかしまだ閉店まで30分、後片付けを含めると約1時間くらいはあるだろう。抜け出すなんて無理だ。ちゃんと挨拶くらいしなくては。そして、このまま高杉さんを待たせる訳にもいかないという。ああ、どうしよう。「失礼します」 私は意を決して事務所内にいる主人の元を訪ねた。机に向かいながら、伝票を広げそろばんを叩いているその人はゆっくりと振り返る。艶やかな化粧を纏った主人の眼差しが向けられた。
「聞いたわよ…何でも男が店に来たらしいじゃない。こう見えても私、勘がいいの。
さん、閉店まで少しあるけどもう引き取って貰ってもいいわ。明日から寂しくなるけど…残念ね」
「あの、その、ごめんなさい」
「いいわ。私が引き止めちゃったんだもの。ハイこれ」
差し出された茶封筒。何だろうか。両手で受け取ると厚みを感じた。中を覗くと紙札が入っているのが見えた。
「給金よ。連休もあって助かったから少し上乗せしてあるの。これからは貴女のお仕事頑張りなさい。ついでにいつでも戻って来ていいから。また…甘味を食べに来なさいよ」
「ありがとうございます!」
どんな仕事でも、自分のした事を認められることは嬉しいものだ。「早く行きなさいよ」なんて優しく追い討ちをかけられて、私は更衣室へと急いだ。帰り支度は素早いものだ。ミニ丈の制服を脱いでいつもの着物に着替える。脱いだ制服は軽く畳んで、小物と一緒に鞄に突っ込んだ。準備完了。更衣室から出ると主人を始めバイト組全員が並んでいた。
「
さん聞きましたよぉ!男が迎えに来たとか!」
「キャー!いいなー」
いやだから違いますから。やんわりと否定するも効果がないのはわかっている。
「皆さん、短い間でしたがありがとうございました!」
大きくお辞儀をして一言二言声をかけていく。最後は主人だ。「ここらを素敵な甘味通りにして下さいね」と声をかけたら「ウフフ。今に見てなさいよ」なんて言いのける笑顔が怖いのはここだけの話。「さようなら」と、言い切って店を出た。高杉さんはきっと万斉さんみたいにどこかで私を待っているはずだ。表通りはまだ明るいし人影も多いので裏だろうか。二軒隣の路地を通って人影もない裏通りに出る。と、高杉さんが建物の影からフラリと姿を現したのだ。
「…」
彼が姿を見せてからも私たちは無言のまま歩いていた。正確には先を歩く高杉さんの後を必死に追っていた。普通の足の速さならあっという間に置いていかれてしまう。つまり早足で追っている状態なのだ。そう運動量が多いわけでも無いけれど、地味に息が切れそう。我慢だ。そして、この無言の空間(兼時間)が私にとって居た堪れない事実なのは言うまでもない。話かけようと口を開いたら途端に呼吸が乱れるだろう。
道を抜けていつも通る公園に入る。遊具がいくつかあるだけの小さな公園ではなく、芝生やら噴水やら遊具やら各々の区域がある大きな公園だ。周囲には目もくれず彼は只々進むだけ。そして私はそれに必死について行くだけ。いつもならゆっくりと話しながら帰るのに気付けば公園の出口が迫っていた。早い…通過最速記録だろう。無断駐輪の自転車が並んだタイル敷きの歩道の先には例のトンネルがある。相変わらず、周囲の薄暗さに浮き立ち煌々としていて通る人影はない。二人して入れば、明るさに目が慣れずに瞼を固く閉じた。それでも足を止めるわけにはいかなかった。薄目のまま歩けど、足は遅くなってしまったようだ。距離が開いた。もうすぐ出口だ。
「!?」
瞬きの刹那…高杉さんの姿が消えた。ついさっきまで、その一瞬まで目の前にいたのに。見開いた視界は絶えず眩しい。どこに行ったのだろう。もしや見えない先まで行ってしまったのだろうか。あるいは抜けた先の闇に紛れたのか。向こう側は真っ暗。まさにトンネルを抜け出るタイミングで私は足を踏み込み、駆け出した。
「っ!?」
…はずだった。トンネル内から抜け出た私の手が何かに掴まれて引かれた。駆け出した勢いのまま、横に引きずり込まれる。私はトンネル口から消えて再び薄暗い世界に戻った。積み上げられた石の壁に勢い良く背中が当たる感覚が痛いほど伝わる。目まぐるしく回った視界の果てに目の前には高杉さんがいる。おまけに石造りの壁に体ごと押し付けられていて、驚いた私は言葉が出てこなかった。
「おい。今回の話…どう落とし前付けるつもりだ」
「申し訳ございませんで…ぁ」
顎元に添えられた手に力が込められグッと顔ごと視線を上げさせられた。無理やりにも交わる先には薄い鶸色のような、僅かに緑が入った黄色の瞳。暗闇で開いた瞳孔に私が写っていた。声が出ない。
「万斉から聞いた。面倒ごとを避けるったァいえ、てめーがんなことするなんざ許した覚えはねぇ。おまけに野郎に下着見せてまで何がしてぇんだ。俺が帰ってくるまで本当にジッとしてられねー奴だな。今回ばかりは仕置きが必要か」
「下着、あ。そんな…」
首元に力が込められて私の瞳は途端に恐怖を帯びた。愉快げで楽しそうな乾いた笑い声が降り注ぐ。首元の手に重ねるように自由な片手を添えた。「
」と呼ばれ瞳は僅かに反応する。互いに何も言わない。ゆっくりと高杉さんの顔が近づいてくる。鼻先が触れ合うような距離。首元に添えられた力が緩む。「高杉さん…もう、やめて」彼の凶暴さとその中に垣間見える優しさ。反する二つの感情が向けられている。でも私は知ってしまった。それが私自身に向けられているものではないということを。それは私ではない誰か。私に似た誰か。
「私…似ていますか」
貴方が私を通して見ている人と。
その言葉を聞いて首元の手が僅かに反応した。私は寂しいような空しいような目になっていたのだろうか、次はジッと彼を見つめる。交わる視線は動かない。しばらくして高杉さんの眼差しが変わった。諦めたような、悲しんでいるような目だけれど表情からは全てを悟れはしない。
「一丁前に詮索するんじゃねーよ。大体、…似てねぇよ」
尻すぼみの小さな声音は確かに届いた。きっとこの距離だからだろう。一歩寄せられた体はピタリとくっ付きそうな距離。私の背には壁。再び鼻先と唇が触れ合いそうになりながらも、それ以上は近づかない。彼がしようとしていることも、彼が期待する私がすべきことも悟った。「狡い人」 次は私が呟いた。綻びや罅というものは人の心に少なからず存在するものだ。心の弱さに負けたのか、弱さを隠したのか認めたのかはわからないけれど、全ての雑念を払い、私は瞼を閉じて自ら唇を重ねた。緩んだ手は背に添えて。唇が一度離れたけれど、次は向こうから重なった。幾度となく触れ合った後、背に回った手を残して唇は離れる。
「手放しはしねぇ。ったく、あんな店一つ潰すのなんざ俺にとっちゃどうってことねーからなァ。覚えとけ」
「無関係な店を潰しても何もないから…冗談でも言わないでください。また万斉さんに色々吹き込まれましたね」
「知るかよ」
待ち望んだ高杉さんの存在。その温もりは私にとって唯一無二のものだった。彼がニヤリと笑ったかと思えば、自由な片手が私の襟元を崩そうとしている。…え? いや。ここ外なんですか。いやそんな場所の話をしている場合ではなかったっけ。「ちょっ…ちょっと!」慌てて静止するけれど、「良いだろーが」なんて言って聞き入れてはくれない。そんなやりとりの最中、あっという間に手が帯まで降りているし。彼の顔を仰いだ時だった。肩の向こうに人影が揺らぎパッと視線が追った。輝く金属。
「(危ない!)」
と頭が判断したのと高杉さんが笑ったのは同時だった。
僅かに屈んだ彼は差した刀を鞘ごと取り後ろの人影の鳩尾に食い込ませた。くぐもった悲鳴がしたかと思えばそれは崩れる。目を凝らしてみると着物を纏った男性のようだ。傍らには金属バットが転がっている。さっきの輝きはこれだろう。再び腰に刀を差した高杉さんが振り返る。
「この人…どこかの刺客ですか?」
「いや。んな丸腰で隙だらけの素人なんざに俺の首はいつまで経っても取れはしねーなァ」
「じゃあただの暴漢?」
「粗方お前を尾けまわしてたっていうストーカーだろ。とうとう尻尾出しやがったな」
「ストーカー?」
私にストーカーがいたなんて初めて聞いた。訳が分からずに首を傾げていると教えてくれた。何でも、数日前から帰宅する私を尾ける存在があったらしい。帰りは万斉さんが付きっきりだったから気づかなかったけれど。…もしかしたら万斉さんは気づいていた?確かにここ数日、気分転換にと色々と遠回りしていたけれど。
「さて、この俺を襲ったんだ。落とし前ぐらいきっちり付けて貰わねーとな」
「やめて下さい高杉さん!この方は一般人ですよ!巻き込まないで下さい」
「お前ェはコソコソ尾けまわされた挙句襲われようがソイツを許すってのか?随分と能天気な女だな」
「違う。簡単に無関係な人を殺さないで下さいって意味です。この人は放って置きましょう」
呆れ果てたように高杉さんが息を吐き出した。追い打ちのように私は声をかける。少し恥ずかしいけれど。
「帰りましょう…晋助さん」
フン、と気絶した存在にはもう興味をなくしたようで、彼はトンネルの傍らにある暗闇から抜け出した。中から漏れ出た光に高杉さんの姿が照らされる。眩い光の中では存在感は抜群だ。ゆっくりと振り返った彼に「帰るぞ」とだけ告げられた。「今行きますから!」小走りで後を追いその隣に立つと私たちは再び歩き出した。トンネルの明かりが届かなくなるとまた薄暗い世界。旅籠まではまだ距離があるけれど、その日は少し遠回りをして帰った。
あの御方登場。彼の前では全て茶番。
20170514*星宮はちこ 裏語