レプリカ虚像乙女
【第六章、忘却 四十三話、目覚めたのは空白のセカイ】
某日深夜、某所にて。
雲が多い夜は、煌々と届くはずの月明かりを隠し辺りは闇に包まれていた。人気の多い繁華街からも密集した住宅街からも離れた裏通り沿いのこの場所は、草木も眠る丑三つ時と呼ばれるままにシンと静まり返っていた。ただ一つ、焦燥に満ちた息切れと乱れた足音が駆けていき、乱雑な足音が幾つか追っている。
「(怖い!怖い!死にたくない!助けて!誰か助けて!)」
静まり返った世界には似つかわしくない乱れた息も、両足をただ前後に動かして死に物狂いで走る足音も全て私から発せられている。誰かに追われていた。
何故こうなったのか、誰が私を追っているのか、此処がどこなのか…全て皆目見当がつかない。ただ私が目を覚ました時には寂れた埠頭にいて、周囲を武装した浪人集団に取り囲まれていたのだ。家に…いると思っていたのに。ただ曖昧な記憶が呼び起こしたのは誰かに投げかけられた言葉。“
、必ず…”と、覚えもない声が響いた。しかしそれも束の間、周囲から浴びせられる殺気に背筋が凍った。全ての切っ先が私を映していたのだ。首謀者とも思える顔を覆った人物が「何故?」と問い詰めてくるが答えられるほどの余裕は持ち合わせていない。「行け」首謀者が口にする。周囲の浪人は殺気を強くしたもののまだ襲っては来ない。「行けェェ!!!」強い言葉に私は死を悟り、それでも襲って来ない周囲の一瞬の隙を見てその場を逃げ出した。
「追え!取り逃がすな!!」
後ろからそう聞こえたと思ったら浪士たちが一斉に私を追ってくる。軽快に駆ける足音をかき消すように乱雑な音が追う。「待てぇ!!!」野太い声。死にたくないと必死に願いながら乱れる息を押し殺し、唾を呑んだ。迷路のような道をするすると抜けても浪士は巻く事ができなかった。理由は単純。追われる私は一人だが相手は数人いるのだ。進もうと思った道に先回りされていて、別の道に移ることもしばしば。体力もそうは続かない。肺が痛い、ついでに背中も腰も。しかし足を止めれば捕まる他ないから動かし続けるしかない。迷路を抜けると小さな川沿いの道に出た。しまった、此処は身を隠す場所が一切ない。見渡しは最良。戻ろうにも向こうから影が近づいてくる。進むしかない。川沿いに走っていると大きな柳の木が見えた。立派な木なのだろうがそれを観賞する余裕もない。ただただ走る…が、木の下に立った影が何者であるかを認識して私の足はもう動かなくなった。例の首謀者だ。
「久々の運動はどう?まさか本当に裏切るなんて思ってなかったよ」
「裏切るって、何を…?」
ガチャリと金属音が聞こえたと思えば、鈍い輝きを放つ銃口がこちらに向いている。首謀者の武器は拳銃。一歩一歩こちらに近づいてくるに従い、後ろから追手の足音も大きくなってきた。もう逃げられない。足も動かない。我々の距離が数メートルにまで近づいた。空いた手で首謀者が顔を覆うマントを外す。
「!?」
薄暗い夜でも目立つ金色の長い髪。その人は女だった。マントの隙間からはピンク色の着物。つり上がった目には悲しみやら苛立ちやら負の感情が渦巻いているのがわかる。こんな女の子が銃を持っている事実にも、彼女に追われているという事にも私の心は乱れた。しかしこの女の子には“覚えがない”のだ。
「どうして…どうして裏切ったんスか!?信じてたのに。アンタだけは信じてたのに!!どうして!」
「裏切るって、私…」
思い出せない。全てが空白。脳内の記憶を巡って見ても何も残ってはいない。私は
。
賢人の娘で医者を目指していた。看護婦もしていたけれど。義理の父、
怜一郎との確執。大切な友人の
に蔵人。重い病を患っていた妹たち。最後まで私の味方だった母。私の先生と先輩。名もなき命の恩人。…違う。この女の子、誰?
「答えろよ。
サン!どうして晋助様を、ウチらを裏切ったんスか!答えろォ!!」
ーダンッ 女が引き金を引いた。銃弾は音を立てて私の足元にめり込んだ。恐怖で足が竦んで、スルスルとその場にヘタリ込む。こちらを睨みつけながら女は一歩一歩近づいてきた。「残念だけど、
サンはここで死んでもらう。最後に言い残すことはない?」銃口は変わらず私を向いたまま。ガタガタと肩が震えてきた。女が目の前に立った。
「最後に少し痛いッスけど我慢して下さい」
言い切った女の瞳には躊躇も何もない。燦然とした敵意と殺意が映っているだけだ。「さよなら、
サン」そう唇が紡いだ時に少女の瞳から雫が溢れる。彼女には力強い意志と反面する感情が織り混ざっていた。
「さよなら…」
発砲と同時に銃口から火が吹き煙が立つ。肩を裂かれる痛みに迸る血潮。後ろに引かれてそのまま倒れこむ。霞ゆく視界に映り込む金色。「必ず…」そう言葉が聞こえたと同時に私の意識は途切れた。
*****
―ピッ ピッ ピッ
規則的な電子音が耳に届いた。しかし瞼はまだ開かない。どこか遠くから意識が体に戻ってくるのを感じた。手が付いている感覚がするけど指すら動かない。眠っているあるいは横たわっている。頭の近くで忙しなく動く気配。あれ…私?確か…
「…」
薄目の先から光が溢れてくる。余りの眩さに腕で覆いたくなるが体言うことを聞かない。そのまま瞼を細めて迫り来る世界に耐える。しばらくして光に眼が慣れると周囲の状況が映し出された。白い世界だった。腕だけでなく体全体を動かせないし声も出なかった。「
ちゃん?」誰かが私の名を呼んだ。聞き覚えのある声。この声は…
「良かった!目覚めたのね!!」
「(内野さん…)」
少し前まで共に働いていた先輩看護師の内野さんだった。小さな顔の半分以上を覆うマスクに頭を覆うネット帽、ほとんど目元しか見えていないけれどぱっちり丸い目と声でわかった。彼女がいると言うことはここは病院?それも大江戸病院か?それ以上は働かない頭。内野さんは声あげて「人を呼んでくるわ」と急ぎ足で出て行ってしまった。可動範囲で目を動かす。相変わらずの真っ白な世界だが、掲げられた点滴袋に枕元で規則音を鳴らす精密機械…ここは個室だろうか。以前勤務していた時には入ったことも見たこともない部屋だ。しばらくして扉が開いたかと思うと、同じような格好をした人が数人が入ってきた。
「意識が戻ったか!良かった!」
「昨夜に緊急搬送されて来たのよアンタ。ったく心配ばっかかけて!」
「…ここは?」
ジャック先生(見た目がそうだから勝手に呼んでいた)とその助手に看護婦長といった元同僚の顔が並ぶ。最後に入室したのは内野さんだった。途切れ途切れに尋ねると唇から読んだのか、ジャック先生が答えてくれた。
「大江戸病院の最新ICU(集中治療室)さ。出血が酷くて意識も無かったから緊急輸血の後に意識が回復するのを待っていたんだ」
成る程。ICU勤務は医師も看護師も精鋭の集まりだ。新人の私には縁の無い場所なのも頷ける。ジャック先生から、数日のICUでの入院が告げられる。体を動かせるまでに回復したら一般病棟に移れるらしい。内野さんは本来ここの配属ではないが私の世話役についてくれるらしい。顔見知りの存在はありがたい。
「私なんかでごめんね。上から色々と口止めがかかっているの。だから少しでも接点のある私が選ばれたの。久々に
ちゃんに会えて嬉しいわ…髪切って染めたのね。最初に見たときはビックリしちゃった!」
「髪?」
手鏡を翳され自分の姿を見た時、驚いた。腰ほどの長さがあった髪は肩ほどに切られて、おまけにベージュ色は黒に染まっている。私が切ったのだろうか?色も染めたのだろうか? パッと見では以前と印象が随分違った。それすら覚えていない。
ジャック先生曰く、運び込まれた時には肩を負傷していたらしい。銃弾が肩を掠めて出血していたとのこと。銃弾?そういえば浪士に取り囲まれていて、逃げて追われていた。首謀者の女が銃を撃ったのは覚えている。その弾だろうか。朦朧として以降は覚えていない。
「お取り込みのところ失礼する」
穏やかな空気を変えたのは男性の声だった。ジャック先生を始め関係者が一斉に振り返る。ざっと人垣が開かれた先にいたのは、真っ白な世界で異様な存在感を放つ真っ黒な人だった。装飾の付いた黒い制服…見たことがある。真選組だ。
「意識が戻ったって聞いたもんで居ても立っても居られなくてな。その女は
本人で間違いないか」
纏う制服に似た輝く黒髪に瞳孔が開いた鋭い視線、腰の刀はそのまま。この世界には似つかわしくない人はこちらをジッと見ていた。目が合ってビクリと心が動揺した。この人…どこかで会ったような気がするけど、それすらも覚えていない。真選組にお世話になった記憶はないが。
「待って下さい!意識が戻っても、この子は体一つ満足に動かせないんですよ!」
「せめて体力が回復するまでは安静に!」
突然の入室者に対して内野さんや婦長が口々に抗議している。交わる私達の視線を白衣の背で遮ったのはジャック先生だった。
「真選組のご用件も重要性も重々承知していますが、この場はお引き取り下さい。ここはこの病院緊急医療の要ICU、他の患者さんもいらっしゃいますので。所定の手続きを以てご入室願います。彼女に話を伺いたいならば一般病棟に移ってからということで如何でしょう」
「チッ、仕方ない。だが逃亡の可能性もあるから隊士の監視は置かせて貰おう」
「それは構いません」
ざっと背を向けると男は部屋から出て行ってしまった。婦長が中指を立てて、内野さんがあかんべと舌を出してお見送りしている。振り返ったジャック先生は先の口調とは打って変わり優しい声で「こんな形だけど、君が帰って来てくれて嬉しいよ」と笑っていた。
「よろしく、お願いします」
力なく伝えた声に皆が親指を立てた。
目覚めた先は空白。前回から数か月の間が空いています。
20170903*星宮はちこ 裏語