レプリカ虚像乙女
【第六章、忘却 五十五話、盗み見るのは真相】
突如聞こえた呼び声に私は肩を震わせた。この声は…チラリと視線を寄越すと、声の主の沖田さんが立っているのだ。「こんな所で何してんの」顔は笑っているが肝心の瞳が笑っていない。全身から血の気が引いていくような感覚を覚える。
「ここは指折りの犯罪者を収容しておく留置場。危ねぇから覚えときやせぇ」
来い、その瞳が語っている。窓の中から私か彼を呼ぶ声が聞こえるけれど、誰も何も反応しない。私は緊張のあまり声が出ない。「旦那、おさらばでィ」数歩離れてから風に流される様に口を開いたが、中からは何も返事は聞こえなかった。
無言の背を追い私は母屋への道を歩いていた。もしかして、もしかしなくても…彼は怒っているのだろう。あの留置場に入れられるのは犯罪者やら攘夷浪士やら何らかの訳ありの人間。私が話しかけたのは冤罪の銀さんだけれど、そうでなかった場合は外部の人間との接触など論外だ。自らの軽率な行動を反省しつつ、それでも冤罪の人間を留置場に入れていることに腹立たしささえ感じてくる。一刻も早く土方さんに進言しなければ!
考え事をしていると私達はあっという間に母屋にたどり着いた。部屋に連れ戻されるのだろう。と、「沖田隊長!“例の件”で土方さんがお呼びです。一刻も早く現場に向かえとのことで!!」廊下から慌ただしく足音が聞こえて、隊士の焦燥を交えた声が響く。その伝言を聞いた途端に沖田さんの表情が変わった。例の件…?
「チッ…面倒なことになりやした。
、今日は部屋から出ねーで下せィ」
私の返事も聞かずに彼は走って隊士の後に続く。私が呆然と立ち尽くしていると、沖田さんに命じられたのだろうか清蔵さんが現れて、私を部屋まで送ってくださった。屯所は数十人の隊士が生活出来るほど広いのだが普段より人の気配が少ないように思える。いつもはあまり詳細を話してくれない清蔵さんが今日ばかりは独り言のように口を開いた。「一番隊は、ある過激派攘夷組織の件で色々と手を妬いていまして…」先日の隊士の噂話が浮かんだ。詳細こそ話していただけなかったが、沖田さんは夕方までは戻られないだろうという。江戸の水面下で、攘夷組織が動き始めている。私の命を狙う鬼兵隊だろうか…。自室で考えを巡らすも思考はすぐに行き詰まる。ふと、障子に影が伸びた。
「失礼致します!」
初めて聞く声に疑問符が浮かぶ。控えめに返事をするとゆっくりと障子が開いた。
「真選組新入隊士の大熊(おおくま)と申します!副長並びに沖田隊長がご多忙とのことで、近藤さんの命で貴女の気が紛れるように話し相手を仰せ使いました!!」
廊下に立っていたのは、折り目まで付いたままの隊服を纏った大熊さんと名乗る新人隊士。長めの髪を高い位置に縛っているのが特徴的で、強いて言うならそれ以外は普通の人だ。手には湯飲みが乗った盆が握られている。緊張しているのだろうか、動きが堅いのは見て取れる。「
です、よろしくお願いします」自己紹介をすると動作がガチガチのままお茶を出された。見ているこっちが心配するぐらいに。
大熊さんと名乗る彼が、途切れ途切れに語るところには、度々屯所を空ける副長と隊長(沖田さん)は公務なので仕方がなく、新人教育に当たる清蔵さんも業務に付きっ切りとなることが多い、一人で部屋に籠るのはどうにもつまらないだろうと言うことで気を遣った近藤さんが、裏任務として新人隊士をここに配したらしい。もちろん先のお二人にはご内密にという極秘ミッションらしい。しかしこの大熊さんという方は、誰にでもフレンドリーなタイプではなくどちらかと言えばお堅い性格なのだろう。自己紹介の後はしばし互いに無言になってしまったけれど。むしろ此方が気を遣って「ご出身は?」「ご趣味は?」と話し始める。出されたお茶を頂きつつ、しばしのご歓談…にもなってないか。質問に対して返ってくるのは一言二言だけれど、何より新人隊士について殆ど知らなかったので、人数やら毎日どのようなことを教育を受けているのかなど、簡単にではあるが知ることができた。二人でいたのもそう長くはなかっただろう。「自分はそろそろ戻ります」と言われて大熊さんは部屋から姿を消した。
それから入れ替わるように別の新人隊士が一人づつ部屋を訪れた。彼らはそれぞれ犬飼、白鳥と名乗った。正直、二人目の犬飼さんが訪れた時には驚いてしまったけれど、最初の大熊さんとは見た目も性格も180度違って話が弾む。皆、近藤さんの命で来たらしい。犬飼さんとは主に真選組の話をして、最後の白鳥さんには質問攻めされる。特に白鳥さんは見た目が中性的で、物腰も柔らかくまるで女性同士でお話をしているみたいだった。「ではそろそろ」白鳥さんが立ち上がる。
「またお話に来てください」
是非、と言いつつ白鳥さんが去った後、部屋は再び静寂に戻る。時間を忘れる程に楽しいひと時だった。最初の大熊さんが持って来てくださった湯飲みを片付けようと盆を持ちながら部屋を出て食堂に向かう。すると、
「あ、
さん!」
新人隊士の教育真っ最中(主に清掃)の清蔵さんに呼び止められた。廊下から庭を覗けば、額にタオルを巻き麦わら帽子を被った隊士が庭を綺麗にしているではないか。外での作業が続いているのだろう全身汗だくで、労いつつ新人隊士の分も含めてお茶をお持ちしましょうかと尋ねる。が、熱中症を恐れて小まめに休憩と水分補給は行なっているとのこと。清蔵さんは、お気遣いなくと後ろの新人隊士を見据えた。今日は一名の体調不良者を除き、朝から全新人隊士が彼の指導を受けているらしい。曰く、将来有望とのこと。
「
さんいい事がありましたか?声のテンションが上がっていますね」
「え?何もないですが」
何もない…はずだ。清蔵さんと別れてから部屋に新人隊士が訪れて話をしていただけ。それも大体世間話。「そうですか」と特に気にせずに清蔵さんは額の汗を拭う。人の気配が少なく感じたのはあながち間違いでもなく、一番隊を初めいくつかの部隊が巡察に出ているらしい。お茶を片付けるために彼とはそこでお別れして
は食堂に向かった。
そうだと思い立った
は冷たい麦茶を新しいグラスに注ぐ。自分のためではなく、三番隊の斎藤さんに差し入れするためだ。実のところ、三番隊が巡察に出ているのを見た事がない。幾つもの部隊が屯所を離れている今も三番隊だけは残っているのではと内心思っていたのだ。いつもの廊下を進んでいると、案の定、斎藤さんの部屋の障子は開かれていた。廊下を歩きつつ近づくと部屋からサッと人影が出て来たではないか。それも斎藤さんではない人…誰だろうか。その人はこちらには目もくれずに反対側へと去っていく。小さくなる背中を目が追うが角を曲がって見えなくなってしまった。まあいいか。
「失礼します、斎藤さん。お茶など如何ですか」
部屋に入ると文机に向かったままの背中、いつもの斎藤さんが迎えてくれる。側に寄り顔を覗くと、斎藤さんは瞼を閉じて眠っているではないか。お忙しいのだろうか…。起こす気は無いのでグラスを机の端に置いておく。こんな所で眠ってしまうなんて、風邪でも引いてしまわないのだろうか。心配になって自室から取って来た羽織(女物だけど)を肩にかけておく。屈んで覗き込んだ先には、彼が向かう机の上に開いた帳簿のようなノート。ズラリと名前が並んでいるのが見えた。
“大村大五郎 Z、古坂伊左衛門 Z、大久保権三 Z、井川新吉 Z、坂本総兵衛 Z”
おまけに名前の上には×印が付いている何とも物騒なリスト。最後の坂本さんにだけ×が付いていないけれど。井川新吉?って先日の事件で粛清されたあの井川さんのこと? え、じゃあこのリストは一体…私見てはいけない物を見てしまったのだろうか。その瞬間、背筋がひんやりと感じた。幸い斎藤さんは瞼を閉じて眠ったまま。私は何も見ていない。何も見ていないのだ。リストのことは記憶から消去し、そのまま音を立てずに斎藤さんの部屋を出る。自室に戻るまでに誰にも会わなかった。
*****
真選組の部隊の大半を費やす攘夷組織の見回りは上手くいっているのだろうか。沖田さんと離れてから時間はあっという間に経ち、ついには陽も暮れてしまったではないか。相変わらず屯所内には人の気配が疎らでお二人も戻られていないのだろう。屯所に残る隊士は皆夕餉の時間帯。人の少ないその時間を見計らって私はお風呂に入っていた。見張りは沖田さんではなく清蔵さん。まさか沖田さんが夜までお戻りになられないなんて…。
は早めに入浴を済ませて清蔵と別れると自室に戻った。蝋燭の明かりが広がる薄暗い部屋でいつもよりずっと早く布団に潜り込む。もちろん、眠れなんてしないのだけれど。妙な胸騒ぎを鎮めるために寝返りを繰り返す。燭台の火を消した部屋には月明かりさえも明るく感じる。
「(あれは…)」
障子を照らす月明かりを横切る影が見えた。大きなアフロヘアーからして…斎藤さんだろう。足音もなく
の部屋を通り過ぎていく。斎藤さんが自室から出られることすら珍しい。何故だろう、気になった私は自室を飛び出していた。彼が向かっていた方向は業務区域。隊士が居住区域に集中するので夜には人手が少なくなる場所だ。足が速くて追いつけなかったけれど確かにこっち側だ。そのまま周囲を見渡すと事務所の方から人の気配がした。斎藤さんだろうか。忍び足で事務所内に入り込むがそこはシンと静まり返っている。しかし、事務所のさらに奥、数日前に鬼兵隊の情報を見た資料室からガサガサと物音が聞こえたのだ。
「(斎藤さん…かしら)」
そのまま何も考えずに
は通路を進む。しかしこんな夜中に一人、事務所にも資料室にも灯りを点けていないなんて怪しいといえば怪しい。その人は手持ちの灯りを持ち込んだのだろう。僅かに開いた戸口から揺れる灯りが溢れてくる。そのままこっそりと中を覗いた。
「…」
中には隊服を纏った男が二人こちらに背を向けながら資料を広げていた。幾つものファイルを開きながら乱雑に紙を扱っている。「真選組の…“紅い楯”の…」と一人がブツブツと独り言を呟いている。紅い楯…?何だろうか。背中だけをジッと見つめていると、この真選組の男の人どこかで見たような気がする。あ、確かさっき斎藤さんのお部屋から出てきた人だ。多分。「早くしろ」と見知らぬ男が急かす。
“まさか我らが真選組屯所内部に潜入し直接情報を盗み見られるとはな。これで真選組にも素晴らしい天誅を下そうぞ”
「これで先の分は帳消しにして下さいよ。現役隊士が攘夷組織に情報を横流ししているなんざ知られたら局中法度に触れて即切腹なんですから」
“フン。情報屋よ、主にはもう少し働いてもらわねばならんからな。今回の分だ、上乗せしておいた。受け取れ”
「へい。毎度」
二人の間で小判の受け渡しが行われている。えーっと、これもしかして見てはいけないやつだろうか。裏取引の一部…間違いなくそう。小判を受け取ったのは斎藤さん部屋から出てきていた隊士で、資料を懐に入れて小判を渡した方は隊服こそ纏っているが真選組屯所に侵入した攘夷浪士あたりか。息を殺して顔を覚えるように眺める。
「して“紅い楯”の旦那。今回は面白い情報があるんですがね」
“何だ。申してみよ”
「鬼兵隊に追われる女がこの屯所に匿われているんですよ」
“ほう、あの鬼兵隊に…”
「女の名前は
。普段は副長と沖田隊長の見張りで近づけはしませんが、この調子で赤い楯が町中で騒動を起こせば屯所の警備も手薄になります」
“その女を使い真選組を撹乱させるのも悪くはない、か”
「おお怖い怖い。俺ら下っ端は口は挟みませんので」
え、ちょっと。たった今…攘夷浪士に情報を売られたんですが。話の始まりからして嫌な予感しかしなかったけれど。それより何よりこの三番隊の隊士が、真選組を裏切って攘夷浪士に情報を横流ししていた事実に私は動揺していた。会話の内容からして、昨今の攘夷組織の暴動・真選組への挑発行為・拠点摘発の不発はこの隊士の情報漏洩が原因とも取れる。
伝えなければ。
男の会話はまだ続いているけれど、私は一刻も早くここを離れて事実を誰かに伝えなければならないのだ。戸口から顔を離す。土方さんは、沖田さんはお戻りだろうか。あるいは別の隊士でも…いや、この男の仲間という可能性もある。今この屯所で信頼出来るのは、近藤さんに土方さんに沖田さん、それに斎藤さんに清蔵さん…あたりか。皆がいる確証はないけれど。早く伝えなければ。
は忍び足で資料室から事務所へ続く薄暗く細い道を抜けようとする。その時だった。静かに退散するつもりが、まるで漫画かドラマか映画のように何かに躓いた。ーカラン と、高い音を立てて何かが床に転がる。静かな空間にはよく響く。後ろの部屋から「誰だ!?」と声がした。事態は決まって暗転するばかり。
盗み聞きしていたのがバレたのは仕方がない。問題はこの状況を上手く回避することに限る。つまり盗み聞きしていた人物=
がバレなければ、少なからず誰かに事態を報告出来るはずだ。一目散に事務所から抜け出る。「待て!」足音が追ってくる。
誰かに伝えなければ。
今の時間帯は、屯所に残っている隊士の殆どが食堂やお風呂にいるのだろう。勤務区域に足を踏み入れた時から人の気配は殆ど感じられない。つまり奥の居住区域まで行かなければ隊士に出会える事はない。その場で大声を出せば良かったのかもしれないけれど、私は気が動転していたのか頭の片隅にも無かった。ついでに適当な部屋に隠れるという選択肢も、相当に撒いてからでないと意味を成さない。薄暗い廊下を全力疾走。ぴっちりと着込んだ動きくい服ではなく、足が開き走りやすい緩く纏った寝巻きなのが唯一の救いか。ドタドタと不揃いな足音。建屋の内側だからか廊下には月明かりが届かず顔は見られていないだろう。
一心不乱に走っていると思い出す。あの埠頭での出来事…攘夷組織の追っ手から必死に逃げていて、まるで今と同じだった。 脳裏に声が響く。
“どうして…どうして裏切ったんスか!?信じてたのに。アンタだけは信じてたのに!!どうして!”
やめて!あの夜を思い出させないで。今は走ることに集中したいのにあの恐ろしい記憶がフラッシュバックするのだ。前と同じ…逃げなきゃ。今はただ逃げなきゃ。“助けて”と心で叫んでいるのだけれど、どこか遠い記憶の中で同じ事があったような気がした。その時も同じ、誰かから必死に逃げ回っているような。そして浮かんだのは誰かの後ろ姿だった。
「(誰だ…この人…?)」
その一瞬だけ意識が削がれたのだろう。まっすぐに走っていたはずの
の体がふらついた。曲がり角で失速し壁に手を突く。逃げなければ、右に曲がると居住区域だ。しかし隙を突いて追ってきた気配が随分と近づいている。ビュンと風を切るような音。右に進もうとしていた
の目前に追っ手が投げたのだろう刀が突き刺さっていた。足が竦む。「待て!」嫌だ、捕まっては駄目だ。進むはずの道を刀で遮られて後ろからは追っ手の足音。考えるよりも先に足は動いた…右ではなく左へ。それは廊下ではなく庭の方だった。靴も履かずに素足のまま外へ一心不乱に逃げた。走り続けたためか呼吸が乱れて肺が痛い。
無我夢中で走った。屯所の敷地内なのだろうけれど今どこにいるのかもわからない。足音と呼ぶ声が遠ざかったあたり、男を引き離したのだろうか。私は目の前に現れた建屋の裏に身を隠した。乱れた呼吸をどうにか整えるのに必死だ。ザザッと足音か近づいてくるのを感じて一際息を殺した。神様…どうにか見逃してくださいと、今は祈るしかない。しかし神様すら私を見放したのだろう。身を隠しながら前ばかりに気を取られていた私は、後ろから人が近づいているのに気づけなかった。
事件発生。これからクライマックスです~。
20200922*星宮はちこ 裏語