レプリカ虚像乙女
【第七章、受容 六十八話、楽園のアダムとイヴ】
我々が籠城するパチンコ店に世紀末をもたらす魔王が到来した。志村妙。志村新八の姉であり、見た目によらずかなりの剛腕。…というか見た目詐欺とか言ってはいけない。
新八くんが彼女の意識を呼び覚まそうと叫んでいるのだが、もうその声は届かないだろう。桂さんが彼を羽交い絞めにして抑え込み、無駄だと説得している。誰もがその行為の無意味さに気付いていた。彼女の崩れない微笑みがすべてを物語っている。自分の姉が、嫁入り前の彼女の眉毛が悍ましいほどの剛毛を成し、まるで極太マジックで描いたように見るも無残になっているなんて。彼の気持ちを考えると居たたまれない。
お妙さんが片手を翳し私達の方向を指差した途端に、魔王に忠実な下僕達が一斉に方向を変える。まさかお妙さんが無数の眉毛人間を率いているなんて…一体どういうポジションなのだろうか。
「こっちだ!」
姿の見えない長谷川さんの声に皆が顔を上げた。絶望を垣間見た皆の瞳に一筋の光が差した。さすがこの店で住み込みで働いているだけあって、建屋の構造は熟知しているのだろう。手招きをしてくれている方向へ急ぐ。表でも裏でもないところに、別の出入り口があるようだ。非常口と書かれた扉を通ると、防火用だろうか分厚く頑丈な扉を閉める。ガチャンと頼もしい音がつかの間の無音を生み出した。ただし自身だけには、その踊り狂うような心音が響いている。
「何とか奴らの手から逃れましたね」
「奴らではないマユゾンだ。言っておくが使っても良いんだからね。マユゾンって言って良いんだからね!」
「うるせーよヅラ!どさくさに紛れて
に近づいてんじゃねー」
「ゴファ!!ズラじゃない…桂だ…」
いつの間にか私の真横にいた桂さんの顔にめり込むのは銀さんの足。いきなり他人に足蹴りをするなんて。何てお行儀の悪い。彼の顔が潰れているように見えるのは気のせいではない。長い脚が顔を離れて地面に降りた。やっぱり鼻血が出ているのではないか。
「ああもう!いきなり暴力は止めて下さい!」
「暴力じゃねぇよ。体を張った突っ込みだ」
「それも禁止です!大丈夫ですか?」
先ほどのハンカチで再び男の血を拭った。そのまま鼻を押さえるように伝えて布は彼に託す。最初の事故…はアレだが、一日にこう何度も怪我をしていては身体が心配になる。もしものことも考えて。
防火扉がいくら頑丈とは言え、不測の事態はいつ起こるかわからない。さっきの魔王襲撃のように。何か策を打たねば。
この店の屋上には核シェルターがある、との長谷川さんの言葉を聞いて今後の目的が決まった。屋上に行き核シェルター内で助けを待つ。それが我々に残された唯一の助かる道。眉毛人間とは言えさすがに対核兵器の防護壁を壊す力はないだろう。
しかし一般的な核シェルターは地下に作られることが多いのだがこの店のは屋上。しかも外に取り付けてしまっているらしい。外部からの攻撃あるいは種々の衝撃をもろに受けてしまうではないか。どうしてそんなところに設置しなのか。それって核シェルターの意味があるのか、とは言わないでおこう。まあ脅威は核兵器ではなくウイルスに感染してしまった人間だし。今回はそのシェルターのおかげで身の安全が保障されるのだし。
ふと考えてしまった。そのシェルターに身を隠したとして、どれくらいで助けが来るのだろうか。ウイルスの届かないそこは、我々の求める安息の地なのだろうか。周囲が眉毛人間だけになって、誰も助けが来なくて、そこから逃れられなくなるのではないか。やがて…。それはもう楽園ではなく死を待つだけの牢獄。永遠に陸地にたどり着かない箱舟の中息絶えるだけ。想像したら怖くなった。
ドンドンドン。
硬い金属を叩く音。掌が当たってバチバチバチと水っぽいものも聞こえる。先ほど閉めた防火扉の、丸く小さいガラス窓からは眉毛人間の大群が扉を叩いているのが見える。しかし扉を開ける、あるいは破壊する力や能力はないようだ。この調子ならば奴らはこれ以上、中に入ってこれないだろう。
ードパァアアン
「「「ぎゃぁあああ!」」」
絶叫という言葉の通り、肺と腹に溜まったすべてを吐き出す悲鳴が上がった。声の限り叫んだのは生まれて何度目だろうか。それくらい必死だった。長谷川さんと銀さんが二人掛かりで閉めた頑丈な扉が、まるで木っ端微塵という言葉の通りに砕け散っている。門を破ったのはもちろんお妙さん。最強? いや最凶の間違いだろう。やっぱり彼女の存在は魔王でしかない。
「エレベーターが来たわ!!早く!」足の速い猿飛さんが“開”ボタンを押したまま叫んだ。声に導かれるまま私達も一斉に声がした方向に走っていく。チン、とお馴染みの到着音がありがたい。到着したエレベーターの扉が開くと
は体を滑り込ませた。眉毛人間に追われながら残りの面々が全速力で走ってくる。彼らがエレベーター内に入ると同時に、扉は静かに閉まった。誰のともなく、忙しなく酸素を求める呼吸の音だけが響いている。
「良かった。助かった…」
どうやらあの修羅場から逃げ切ることができたようだ。「大丈夫。みんないる!?」猿飛さんの号令に、銀さんが頭数を数えている。1、2、3、…、7。うん全員いる…? 見渡す限り6人しか見えないのは気のせいか。新八くんのもう一度との声に、銀さんが再び数え始める。
「俺に
と神楽に新八。ズラにさっちゃん…と、長谷川さん」
「これ、えっ…?」
彼が長谷川さんと指差したのは、床に転がったサングラス。長谷川さんの装着していたもので間違いないのだろうが“彼”ではない。「待たんかィィィィ!!」キレッキレのツッコミが誰のものであるか、言わずともわかるだろう。彼は床に転がっているグラサンを持ち上げると銀さんと神楽ちゃんの前に掲げ、これはグラサンであり長谷川さんではないことを説明している。まあ当たり前なのだが。彼のグラサンがこのエレベーター内にあるが、肝心の彼本人がここにいないということは
「嘘…まさか一階に長谷川さんが!」
それ以外には考えられない。
「ヤバイですよ!早く戻って助けないとォ!」
「ヤーヨ。私あんな眉毛になるの御免ネ」
「神楽ちゃん!長谷川さんを助けないと!」
「えー。いくら
の頼みでも嫌アル」
、銀さんが私の名を呼んだ。彼はグラサンを掲げながら、これこそが長谷川さんだと語っている。いやだから長谷川さんの装着していた物だけど本人ではない。私もやんわりと伝えるも聞く耳を持ってはくれない。
「どっからどー見ても汚ねーグラサンだろーが!オメーが現実をしっかり見据えろ」
常識人である新八くんの鋭いツッコミ。なのに神楽ちゃんも猿飛さんまでもグラサンを長谷川さんだと言って聞かないのである。みんな極限状態で混乱しているのではないだろうか。きっとそう。正常な判断ができていないのだろう。このままでは長谷川さんは奴らに襲われてしまう…。私たちが今ここに普通の人間として生き残れているのも、パチンコ屋に匿ってくれた彼のおかげなのに。
「もういいです!あなた達みたいな薄情者にはもう頼みません!僕だけ1階で下ろしてください!」
「私もお伴します!」
長谷川さんを助けたいという思いで、私は勢いで言葉にしていた。
新八くんは声を上げて喜んでくれたけれど、残りのみんなには口を揃えて反対された。まあ無理もない。私には銀さんや神楽ちゃんに新八くんのような戦闘力も、猿飛さんのような身軽さもない。足手まといなのは目に見えている。
「それでも!長谷川さんを助けなきゃ」
そう言った私の手を新八くんがそっと握ってくれた。彼は年下で更に未成年だけど、手の大きさは大人と変わらない。剣術をしているからかタコのような傷を感じる。それでも肌艶は未成年のそれである。男の子の手。
「
さん。その勇気だけで十分です。もしもの時は僕がお守りしま…ブッ」
「あっぶねー。今、眉毛繋がりかけてたぞ新八ィー」
「銀ちゃんそれ新八の眼鏡掛け器アル。本体はこっちネ」
優しい声で素敵な台詞、かと思ったら私たちの間に割って入った背中が視界一杯に広がった。新八くんの眉間に銀さんの親指が埋まり、落ちた眼鏡を神楽ちゃんが指差す。
「ふざけるなァァァァァ!!!」ツッコミか嘆きかわからない叫びが狭いエレベーター内に響き渡った。相当強い力で押したのか、彼の額にはうっすらと跡が残っている。
彼の紛糾に重なるように、ーチンッ とエレベーターの到着の音。しかし到着階は最上階ではなく3階を示しているのだ。誰も他のボタンを押してはいない…ということは3階に誰かがいるということ。問題はそれが誰なのかということだ。
「「「開けんなァァァァ!!!閉じろォォォォ!!!」」」
未知の恐怖を悟ったエレベーター内は緊張に包まれ、我先にと“閉”のボタンを連打している。先ほどと同じく、狭いエレベーター内に皆の叫びが響き渡った。しかし我々の願いも空しく、無情にも扉は機械的に開いていく。割れた壁の向こうの景色がじわじわとその全貌を現していった。もしかしたら奴らが押し迫ってくるかもしれない…との恐怖に足がすくみ、
はその場にへたり込んだ。
「…ひぃいい!!!」
扉の向こう側にいたのは真っ白な…生物? というか生き物?置き物?おばけ? 言葉にし難いが、真っ白くてお目々がぱっちりしていて黄色いくちばしがあって…。見た目はペンギンとおばけとQ的なモノを足して三で割ったような、とても不気味なものが立っていた。ナニコレ。私こんな生物見たことない。というか生物なのだろうか。マスコット?天人? 見れば見るほどわからなくなってくる。
「てめェェェ!!んなとこで何やってんだゴルァ!驚かすんじゃねーぞ殺すぞオバQ!!」
銀さんがその生物(多分)に向かってブチ切れているではないか。しかしこの様子ならば、この生物は万事屋の彼らの知り合いなのだろう。変な化け物じゃなくて良かった。
は少しだけ胸を撫でおろした。力の抜けた足を叩いたり揉んだりしてからゆっくり動かし、周囲に設置された手すりに掴まり立ち上がる。皆、例の生物の登場に意識が向いているようでへたり込んだ私には気付いていないらしい。正直なところ、こんな恥ずかしい姿を見られなくてよかった。
「おおエリザベス!無事だったか!」
一際大きな声を上げながらエレベーターから出る人影。桂さんだ。何だか万事屋の皆より彼の方がその生物と親密に接しているように思える。エリザベス…と呼んでいるが、それがこの生物名前だろうか。初めて見る生物に興味がないわけではない。あんな状況で突然現れたから驚いたけれど…いわゆる怖かわいい的な。
エレベーターの扉から出た私は、持ち前の好奇心からその生物をジッと観察してみることにした。白い生物の下から何やら毛が見える。まるで裾の長いスカートでも捲るように、例の生物が地面と接している部分を持ち上げると、うつ伏せに倒れた長谷川さんがいるではないか。アレ? この生物の足。まるで人間みたいに細いし、何やらすね毛らしきものも見えるのだが。やっぱこれは被り物で、人間が中に入ってるやつ…とか?
長谷川さんの上から一歩横に移動した生物が、白い裾部分を放したのでパサリと元通り。みんなエリザベスという生物の勇気ある行動を賞賛しているのだけれど、私はやっぱり中がどうなっているのか超気になって仕方がない。風で靡いたりしないかな、室内だけど。もう一度捲ったりしないだろうか。中が見たい。突っ立ったままの私の隣で、銀さんと新八くんが気絶した長谷川さんをエレベーター内に収容している。
「ああそうか!眉毛!繋がる眉毛がないからマユゾンにはならないということか!これは心強い」
どうやらこの生物は喋れないらしい。どこからか取り出したのは台詞が書かれたプラカード。よくよく読み込んでみると…最後の文字の“ん”がおかしく見えるような気がしなくもない。うん。私は首を傾げた。高笑う桂さんの声がフロアに響いている。
「ひぁ!!」
その時だ。私の視界が急激に後退したのである。がっしりと音がするくらいに首根っこを、正確には襟部分を掴まれて後ろに引かれた。予期せぬ出来事に、肺から息が抜け小さな悲鳴となる。可愛げなんかは考慮なし。一体何が起こったのか。私は後ろに引かれた勢いのまま、エレベーター内で銀さんと向かい合う形に収まっていた。
「ちょっと!銀さんに新八くん…」
いきなり何するんですか、と声を上げようとするも二人の目はどこか遠くを見ていて、声を掛けづらい。つまり何とも言えない表情なのだ。私たちの前でゆっくりとエレベーターの扉が閉まった。引き上げられる機械音に混じり鈍い悲鳴が響いてくる。
あ、桂さん…。
その事実を認識した私も立ち尽くしていた。無音のエレベーター内には吐息の音すら響かない。「銀さん。その…」ばつの悪そうに隣の新八くんが小さく呟く声だけが聞こえた。
「何も言うな。奴の死は無駄なんかじゃない。俺たちは何としても生き残るんだ。ほら、
も無事だったじゃねーか」
「いや、そうじゃなくて。長谷川さんのことなんですが…」
銀さんの肩越しに見えるのは、ゆらりと立ち上がる影一つ。
グラサンを失ったから…? いや、関係ないけれど。立ち上がった成人男性改め、長谷川さんの成れの果てには以前の面影は殆ど残っていない。眉間は悍ましい剛毛で繋がり、白目を剥いて涎を垂らしている姿は恐怖以外の何物でもない。
「マユゾン…」
初めて私の唇がその言葉を発した時、エレベーター内が悲鳴で包まれた。
これを、と瞬時に猿飛さんが腕を動かし周囲に何かを投げ付ける。皆の反射神経なら一発で掴み取れるのだろう。運動神経も反射神経も並みの私は、一度手に当たって撥ねた物を受け取った。正直なところ落ちそうなのを必死に掴んだというのが正しいかもしれない。手の中にはT字タイプのカミソリが一つ。
「繋がった眉を剃り落とせば奴らを倒せるわ!!」
今は唯一の情報源である猿飛の声が頼もしい。
なるほど。と最初は納得していたが、これがウイルス性の感染症だとして、眉を剃り落としたら何とかなる…というのはどういう理論なのだろうか。感染と共に眉間の毛根を異常に活性化させる。その毛の中にウイルスが潜んでいるから? いや違う。眉を剃り落とすことで一時的に奴らの奇行を抑えることができると考えるのが筋だろう。次の眉毛が生え揃うまで。
マユゾンへの対処法を知った私たちの意識が、一つにまとまって来たのが手に取るようにわかる。この人数でなら長谷川さん一人くらい何とかできるであろう。私以外にも万事屋の皆に敏腕くノ一猿飛までいるのだから。私も頑張らなくては!
は壁に背を付けて深呼吸を繰り返す。祈る様に両手で握ったカミソリが僅かに震えていた。
まず始めに彼に剃り込んだのは銀さんだ。私の前で勢い良く、眉…ではなく頭髪が剃り落とされ黒髪が地面に散った。剃り跡は深く、まるでバリカンで刈り込んだかのように地肌が見えている。
私も「えっ?」などと思わず声が出てしまったではないか。眉毛全く関係ない!
しかも切り込み入れるにしても変な所だ! 自身の手元が滑ったことに気付いた銀さんは激しく狼狽しながら謝罪している。
「思い切りが足りないネ!!知り合いだからって躊躇するからこうなるヨ!見てるヨロシ!!」
「って、神楽ちゃん!!そこ全然違うから!」
先ほどの銀さんと同じく、長谷川さんの後頭部を一思いに剃り上げる神楽ちゃんに
の声が思わず大きくなる。ああ。これはアシンメトリーにも程がある。一度全部剃り上げるしかないだろう…きっと。
私がその事実に心を痛めていると「うがぁああ!!」
と人ならざる奇声が響き空気をビリビリと振動させている。そして長谷川さんが私に向かって両腕を伸ばして来たのだ。
「!」
「しまったわ!オッサン化してしまうと、何だかんだ言って若くて可愛い女の子に引き寄せられるのよ。
さん逃げて!」
「むっ無理、来ないでください長谷川さん!!って、きゃあああ!!」
硬直したままでは迫り来る長谷川さんを避けられない。咄嗟に、叫びながら飛び出たのは右足だった。
自分でもどうして右足が出たのかはわからない。裾を割って出た足が長谷川さんの顎を直撃する。
「…見えた」誰かの声が耳に届いた。
顎に予期せぬ攻撃を食らった男は鼻血を出しながら頭を振っている。
思い切りが良すぎたのだが、一応、死んではいないようで安心した。
彼が元に戻ったら念のため病院を受診してもらいたい。慌てて崩れた裾を直す。
「何をやっているの貴方達!」
猿飛さんの叱責が飛ぶ。私が、との意気込みと共に彼女の剃刀を握る手に力が入った。彼女は敏腕くノ一だ。カミソリを皆の手元に正確に、かつ驚きの速さで投げれるほどの能力を持っている。彼女なら長谷川さんの眉間を反り上げることも出来るだろう。
の猿飛に対する信頼は大きくなっていた。
あとは弧を描いてカミソリを滑らせるだけ。その瞬間、まるでコントかのように、彼女の眼鏡がポロリと落ちたのである。私も力むように彼女の活躍を期待していた瞬間だったので、あっ、なんて間抜けな声が出てしまった。敏腕くノ一が素早く振った剃刀は、長谷川さん…ではなく新八くんの頭髪を剃り落とした。
え、何で?
本来なら、誤って頭髪を剃り落としてしまった新八くんに謝罪するべきなのに。眼鏡を失った彼女は、長谷川さんに向かって謝罪している…そんなに目が悪いのか。そう言えば某スナックで会った時も、お妙さんとの女子会で会った時も、彼女は私に向かって「銀さん」と呼びかけていたではないか。私はその時全てを察した。それが早いのか今更なのか考えるのも面倒だ。彼女のくノ一としてのお仕事に支障がないことを祈るばかりである。
ーチンッ
エレベーターが到着する音が聞こえて、皆が長谷川さんから逃げる様に一斉に外に飛び出ていった。階段を使ったのだろうか、前からお妙さんを始めとしたマユゾンの大群が向かってくる。まるで軍隊のようにゾロゾロと。
今生き残っているのは、銀さん神楽ちゃん新八くん、猿飛さんに私の計五人だけ。前後の追っ手から逃れるように廊下の左側にあった扉を開いて、念願の外に飛び出た。
パチンコのテナントが入ったビルはそう高い建物でもないのだが、視界一面に広がる青空が愛おしい。切羽詰まったエレベーター内を思い出して、深呼吸を一度だけ。
力を合わせて一段と頑丈な扉を閉めた。鍵は内側にレバーがあるもので外からは掛けられない。周囲を見渡すと頑丈そうな棒切れが目に留まった。私はそれを拾い上げた。重さや質感からして、ありがたいことに金属製であることが伺える。
「皆さんこれを!!」
持ち手の所にそれを差し込んで鍵の代わりとした。ただし反対側から体当たりなどされた時には棒が落ちそうになるので、手で押さえておかなくてはいけないだろう。
屋上の隅には、例の核シェルターと思われる大きな装置が見える。あそこに逃げ込めば…しばらくはやり過ごせるだろうか。「アレを見るアル!」一人、扉から離れていた神楽ちゃんが上を指差した。真っ黒なヘリがこちらに向かってきているようだ。音もだんだんと大きくなってきている。
「さっちゃん御苦労だったな!もう大丈夫だ。後は俺に任せろォ!!」
ヘリ側面の大きな扉が開き、何時ぞやスナックすまいるで見たことがある中年男性が長い裾をはためかせながら立っている。その重厚な雰囲気は満点だろう。「松平公よ!!」猿飛さんの嬉々とした声。ああこれで助かるんだ。
スピーカー越しに響いてくる松平公の声。巻き舌の何とも特徴的なしゃべり方だ。一週間分の食料を贈るとのことだが、今は食料なんていらないからそのヘリで助けてもらいたい。というか、そうだと思っていたのに。上から四角い容器が投げ出されて落ちてきた。彼の言う食料なのだろう。しかし屋上面に落ちた途端に容器が思いっきり破裂してしまった。強度が見合っていなかったのか、あるいは強度自体無かったのか。もうどっちでもいい。今私たちがこの状況から助かるには、やっぱりあのヘリに乗せてもらうしかなさそうだな。
松平公は手に小さなアンプル瓶を掲げながら、これこそRYO-IIに対抗する唯一のワクチン“B-超5963”であると語った。というか、ワクチンがあるなら早く使って下さい。本当は声に出して叫びたかったけれど、どうにか心の中で突っ込むだけに止めた。
「これ手に入れるの大変だったんだよォー。何てったって江戸では大江戸総合科学研究所って所にしかねーわ、度重なる研究所侵入があって警備は厳重だし、警察庁から申請出しても中々通らねー。おじさん頑張ったんだからねー。この機械大砲“莫迦門”でブチ撒けば全て解決よォ!!」
そう言いながら松平公は手にした大砲にワクチンを装填する。これで…終わる。みんなが元に戻るんだ。と、
が思っていると松平公が大砲を手放し、そのままヘリの内部に消える。悲鳴と共にヘリは左右に揺れ、やがて大型ビルの側面に衝突した。
終わった。本当の意味で希望が潰えてしまった。このままここにいても…どれだけ保つかわからない。後ろから鈍い破壊音が響いた。扉を押さえていた猿飛さんと神楽ちゃんが扉の下敷きになっている。そして開口部からは我先にとマユゾンの大群が屋上になだれ込んできたのが見えた。ここまでか…
が目蓋を閉じて覚悟した時だった。
「来い!何としてもお前だけは!」
「銀さん!?」
彼は私の手首を掴み、屋上の隅にある核シェルターの中に押し込んだ。そのまま外にあるボタンを音がするほど強く叩いた。私達の間を分厚い扉が別つ。
「嘘!銀さんにみんなは!?」
シェルターの中には私しかいない。銀さんも新八くんも、扉の所にいたはずの神楽ちゃんに猿飛さんも…外にいる。その事実に頭が真っ白に飛んでしまった。思考が上手く働かない。内側から扉を叩いて呼びかける。小さな窓に顔を押し当てて男の姿を捉えてた。どうして!
「悪ぃな。お前をあんな眉毛にしちまうわけにはいかねーだろ。ったく、真昼間からラヴヘヴンでアダムとイブになるはずがこんな始末だからな。待ってろ。ちとかぶき町…救ってくるわ」
「待って!!」
手で叩いても、体当たりしても頑丈な扉はビクともしない。迫り来るマユゾンの大群に向かってゆっくりと歩いていく銀さん。徐に立ち止まると空に向かって手を掲げた。一体彼は何をしようと言うのか。駄目だ。何も考えられない。逞しく翳された手に降ってきたのは、先ほど松平公が持っていた大砲だ。相当な重さであるはずなのに、つかみ取る腕は衝撃を感じさせなかった。
「銀さん…。一体何を!?」
その間にも彼の周りにはマユゾンが集まっていく。周囲には眉毛が繋がった猿飛さんに神楽ちゃんの姿が。ああ何て酷い有様なのだろうか。心に衝撃を受けた私の頬に涙が伝う。彼女たちまでもRYO-IIウイルスに感染してしまったのだ。それなのに私はここで見ているしかできないなんて…。
銀時の持つ大砲が火を吹き天に向かって砲弾が放たれる。耳を劈く炸裂音が響き渡ると、一筋の軌跡が空に描かれる。かぶき町空中で炸裂したそれは大きな花を咲かせた。一帯にワクチンが振り撒かれたのだろう、やがてちらほらと屋上にいた人が正気を取り戻している。
…
‥
ビルの屋上に設置された核シェルターに押し込まれた私の顛末。管理会社の担当者もマユゾン化してしまったらしく、鍵が解錠されるまでに三日かかってしまったのである。その間一人きりのシェルターで迎えを待った。やっぱりここは楽園でも安息の地でも、はたまた箱舟でもなかった。しかしここは牢獄でもなかった。銀さんを始め、正気に戻った新八くんと神楽ちゃんが、途中様子を見にきてくれたから。窓越しに互いを見ながら電話で話す、なんてこともしたり。深夜にほろ酔い気分で現れた大馬鹿が、電話しながら窓の前で立小便したことは後程こってり絞るとしよう。今は、シェルターから出た私を迎える手を握っていたい。
騒動後。今回のRYO-IIウイルスによる一件は、攘夷志士によるバイオテロであることがニュースで流れた。スナックお登勢の近所で横転したトラックこそ、その攘夷浪士がウイルスを運んでいたものだったらしい。元凶のウイルスを保管していた大江戸総合科学研究所では、度重なる侵入事件が起こっていた様子で、最新の虹彩による個人認証システムが導入されたと聞く。
選ばれたものが生きる楽園よりも、万事屋と一緒のかぶき町が良い。ラブヘブン改めバイオハザード編おわり。
20210114*星宮はちこ 裏語