レプリカ虚像乙女
【第九章、亀裂 八十八話、答え合わせを始めよう】
浮島へと続く大きな橋には、
以外の人影がなかった。
施設の大半が二日後にオープンを迎え、一般人が入れない区域の方が多いのだから無理もない。一部先行して営業しているサーカスやその他数店も、本来より営業時間を大幅に短くしているらしい。海に掛かる大きな橋を踏みしめる足が重い。
の影が不規則に揺れた。
男の言う“浮島広場”というのは、道を進み切った奥にあるサーカス側ではなく、商業施設側の中央に出来る予定の大きな噴水広場を指している。そちら側へ行こうとした私の行く手を阻んだのは工事用の大きなバリケードだった。マンション建設の現場によくある白くて背の高い壁で、ざっと見渡しても入口がわからない。壁に沿って数分歩いてみる。すると“大江戸建設”の看板の下に、工事業者の人が出入りする扉を見つけた。恐る恐る
が手をかけると扉はすんなりと開いた。
「……」
誘い込まれている、そんな気がして仕方がない。普通なら鍵が掛かっているのだろうが、それらしきものは見当たらない。これは私が入れるように、わざと……開けられているのではないだろうか。今一度周囲を見渡し、誰もいないことを確認して
は中に体を滑り込ませる。
そこには、開業を待つばかりの店先と綺麗に整えられた樹木が並んでいた。まるで時が止まった世界に迷い込んでしまったような、そんな錯覚に陥る。見た感じ工事業者の作業員の姿も見えなかった。周囲を警戒しながら、
は奥へ奥へと進んでいく。左右に店が並んだ道を抜けると一際広い空間にたどり着いた。
ここが浮島広場だろう。
広場の真ん中には丸くて大きな噴水があり、更にその中央には大きな時計台が正しく時刻を刻んでいる。
日暮れが過ぎたのか、西空がわずかに明るいのみで藍が深さを増していた。時間に間に合ったのかどうかもわからない。自分の脈音がドクンドクンと身体中に響いてきている。緊張からか呼吸も浅い。攘夷浪士が近くにいるのだ。私が何を協力して何を裏切ったと言うのか。知る時がきた……。気持ちを落ち着かせるために、
は重い瞼を閉じ大きく深呼吸を繰り返す。世界から全ての音が消えた、気がした。
「懐かしい面のお出ましじゃねーか」
後ろから聞こえた低く覚えのある声に私は目を見開く。後ろにあの男がいる。風の流れに乗って、煙草の甘い匂いまで漂ってきた。そのままゆっくりと
は振り返った。
視線の先には交差点で彼女を呼び止めた男が立っていた。あの時、編笠と夕焼けの逆光に妨げられていた姿がありありと視界に入ってくる。強張った身体は自由が効かなかった。このまま走って逃げることも、助けを呼ぶことも……出来なさそうだ。その姿で目に留まったのは顔半分を覆う包帯。目を怪我でもしているのか。こちらを見つめる片目に宿った力強い光がギラギラと輝いている。紫の着物には金色の蝶が舞っている……これは女物だろうか。
「貴方は攘夷浪士、ですね。私は貴方達に協力していた」
「細けぇところは覚えてるみてぇだな。簡潔に言う。
、準備は整った。戻ってこい」
「私は、ただの一般人です。攘夷思想も持ち合せていませんし、国家転覆も望んでいません。記憶を失う前に、どうして攘夷組織に協力していたのかわかりませんが、貴方方の元に戻る気はありません」
「クックック……相変わらず馬鹿みてぇな頑固さだなァ。そしてその目、何も変わっちゃいねぇ。悪かねぇよ」
肩を震わせながら男が笑っている。さも楽しそうな様子を見せているけれど、私の方は全身が僅かに震えていた。
今私がすべきことの最善。それは早くここから逃げて助けを求めなければいけないことだろう。だが先程から身体が思ったように動かないのも事実。どうするべきか。
は必死に頭を働かせようとするも何も浮かばない。と、男がこちらをジッと見ているのに気がついた。何だろうか、とも思ったが今はそれどころではない。「似てねぇな」男の呟きに私は首を傾げた。
似てない? 私が……誰と?
この人の知り合いとだろうか。もしくは以前の私だろうか。疑問は尽きない。鼓動がまた乱れてくる。
「
、鬼兵隊に戻って来い」
「お断りします。私には攘夷組織に協力する理由なんて!」
「外に出してから、どこで何やってたかは知らねぇ。ちょくちょく報告は受けていたがな。ただ今のお前には守りたいもんの一つや二つあるんだろ?」
「……脅迫ですか」
「いや。だだの交渉だ」
私が外の世界で得た全て。万事屋の銀さんや神楽ちゃん新八くん、それに真選組の皆さん。お妙さんに九兵衛さん、お登勢さんとキャサリンさん、その他……たくさんの人に支えられてきた。その皆が人質に取られている。私が拒絶すれば……きっと。そんなの嫌だ。あってはいけないことだろう。
でも、私が攘夷組織に行ったところで、一体何を。
行くか行かないか。本心は絶対に行きたくない。けれど、先ほどの男の言葉が揺さぶりをかけてくる。大切な人を危険な目には合わせたくはない。
行く? 行かない? 行きたくない! でも……
その繰り返しである。手荒な真似はしたくない、と男が更に揺さぶりをかけてくる。銀さん、私は今どうすればいいのだろうか。早く万事屋に戻りたい。銀さんに神楽ちゃん新八くんの、三人の所に早く帰りたい。彼らなら温かく迎えてくれるだろうに。視界の中で男の吐き出した煙草の煙が一筋、空に伸びて消えた。
「クックック! ……想定通りだよ。
。お前自身のな」
「?」
「言っておくが断る権利はねぇ。お前を外に放すつもりもな。茶番は終ぇだ。全部、思い出せ」
「何……を?」
煙管から灰を捨てた男が一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。私の身体が本能的に“危険”信号を出している。逃げなきゃ、助けを呼ばなきゃ……。誰か。真選組に報告しなければ。頭ではわかっていても体は思った通りに動かない。まさに危機的状況だ。
行けェ!!!
と、脳内に女の声が響いた。この声は覚えてる。奇しくも記憶喪失に陥った日に聞いた攘夷組織の女の子の声。強く、必死に何かを訴えかけるようでどこか悲壮感をも感じさせる。
その声を思い出した途端に、私の体を雁字搦めにしていた緊張の糸が切れた。どうしてだろうわからない。だが今なら動けるし走れる。行かなきゃ。脱兎の如く、私は攘夷組織の男の前から逃げ出した。
全力で走っていても、着物を着ているためか思ったように足が開かない。考えもなく逃げたためか周囲の状況を把握できてなかった。加えて、今から何処に行けばいいのか冷静に判断できていなかった。私は、さっき入り込んだ浮島広場の出入口側ではなく、施設の奥へ奥へと進んでいた。
「誰か助けて!!」
必死だった。もっと速くもっと遠くへ……。頭で考えるよりずっと身体は思い通りに動かない。同じような見た目のお店が並んでいる。出口はどこだろうか。非常口でもいい。人がいる場所はあるだろうか。慣れない全力疾走に
は息が続かない。立ち止まったら殺される、と言う恐怖だけが彼女の足を動かしていた。
女の声がどうして今になって浮かんだのか。それは始まりの夜の出来事。そう言えばあの時も、こうやって死に物狂いで走り回っていた。どうしてだろう。状況が同じだった。
必ず……
浮かんだのはこれまた時折思い出す声だ。先の女の声とはまた違う……一体誰のものか。時々脳裏に流れて、その度に私を苦しめる。男だったり女だったり。わからない。自分が何をしたのか、あの夜に何があったのか。
「ねえ、大丈夫?」
「!?」
なんて剽軽な声が突然上から降り注いだ。その声が
の耳に届くと、突然、足が止まった。ゼイゼイと肺が酸素を求める度に肩が上下に動く。やっと周囲を確認してみたら、浮島広場とは別の吹き抜けになった広い空間だった。ここはどこだろうか。浮島モール外とも違うようだ。
は飄々とした声がした方を見上げる。すると背の高い照明の上に、一人の男が腰掛けているではないか。これも見覚えがある。真選組で起きた騒動の最後、人の出入りなど出来ない空間に突如現れた男と似ている。あれから、姿も装いも違ったけれど何度か接触していた。
「貴方、情報屋ね」
「光栄だよ。何だかんだ覚えていてくれるじゃん。何度か会ってて良かったかな。まっ、今は諸々忘れてるだけだもんね。やっぱ
ちゃんは面白いね! ああそうだ。そろそろ依頼主が煩いから、早く思い出した方がいいかもね」
「何を言ってるのですか」
こんな状況でニコニコと笑った姿が嫌に目に残る。
「ほら! お迎えが来たみたいだよ」
情報屋が指差した先には、私をここに呼び出した例の男が立っていた。いつの間にか追い付かれていた。ここまで必死に逃げて来た
は息が乱れているのに、男は息一つ乱しておらず涼しい顔をしている。
「ったく、手間かけさせやがって」
「嘘だ……」
「全部思い出させてやる」
「待って……」
男が近づいてくる。この強さを持った眼差しに囚われてしまって、また足が動かなくなった。一歩、また一歩と距離が縮まっていく。ドクンドクンと心音が響いてくる。その緊張からか瞬きすら忘れてしましそうだった。
この光景も……覚えてる。
男の手がゆっくりと伸びて来た。このままここで殺されるのかもしれない。助けを呼べるほどの余裕は既に無い。瞼を閉じる程の余裕さえも……私は見開いた眼差しで全てを見ていた。
嫌だ。
心の中の声なき声で呟いた時だった。どこからだろうか、私の名前を呼ぶ声が耳に届く。それはこの目の前にいる男でも、上からこちらを見下ろしている男の声でもなかった。でも私は知っている……その声の主を。
「銀さん!!︎」
それは焦がれた銀さんの声。確かに聞こえた。
私は縋る思いで声を張り上げた。恐怖で言葉が出なかったはずなのに……彼の姿が脳裏に浮かんだ時、喉や肺に息が通った。私はもう一度彼の名を叫ぶ。今はまだ遠い、けれどこの区域にはいるのだろう。声がする大体の方向はわかった。
を追い詰めた男は坂田銀時の声を聞いてから動かない。石のように突っ立ったまま……どうしたのか。しかしこれは逃げるチャンス以外の何物でもない。今のうちに銀さんの元に。彼と合流すればまだ……助かる可能性はある。
私は恥も何も投げ捨て、着物の衽(おくみ)部分の重なりを広げ、銀さんの声した方へと走り出しだ。今までも随分走ってくたくただけど、銀さんが近くにいる、その事実を認識しただけで、途端に足が軽くなったような気がした。
「あーあ、
ちゃん行っちゃったけど。どうするの……?」
女が走り去った後でもその場を動かない男に、情報屋は声をかけた。
上から見た感じでは彼の表情は読み取れない。だが明らかに先ほどと違って様子がおかしいのである。よっと、と備え付けの外灯から地面に飛び降りた情報屋は男の顔を覗き込む。その瞬間のことだ。
「ッ!?」
背筋が凍るような、或いは全身の毛が逆立つような感覚がした。確かに危機的状況は今まで何度か経験はしていたけれど、中々味わうことが出来ない恐怖だろう。男の目は悍しいほどの怒りに満ちている。正しく修羅の眼差しに、いつもは飄々と戯けた彼も口を閉ざす他ない。むしろ声が出なくなったというのが正しいかもしれない。
「銀時。……テメェはまた……」
それは絞り出したような苦しい声だった。
答え合わせ。高杉が発した言葉の意味とは……
20220301*星宮はちこ 裏語